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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

岡本太郎(2):「異形の家」に生まれ落ちる


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岡本太郎(1)の続き:

小学校は家の近くにある青南小学校に入学(1917年。大正6年)。入学時のエピソードで有名な話しとして、「一、二、三.....」と数字を書ける者はいるかということで、太郎が黒板に書いたら、「四」を書く順序が違っていたということで「書けもしないくせになぜ書けると言うんだ!」と怒鳴られ、先生を睨みつけたこと。

以降、太郎は嫌いな先生の授業は最後まで指で耳を押さえて聞かないようにしていたというのです。感受性が強い太郎は先生の人間的ないやらしさを見抜いてしまうのです。

このエピソードは、大人が押し付けようとする鋳型を、太郎が全身で拒否しはじめた最初のものです。小学校入学以前でも太郎はもう異端児ぶりを発揮しています。

5歳の時、父一平が働いていた朝日新聞社の編集局に連れて行ってくれた時のこと、大阪と電話が通じているので受話器をもたされた時のこと、「バカヤロー」と言って快感をえる太郎がすでにいました。

話しを少しまき戻すせば、小学校にあがる前になぜ太郎は、まだ学校で習いもしない数字を書けたかといえば、「天才教育」かと思いきや、そうではないのです。

まずは家中、本で溢れていたので自然に覚えていったようですが、それは一平やかの子から覚えさせられたのではなく、なんとか親と対等になりたいという望みから自ら覚えようとしたのでした。

 

「岡本家の場合、別に親が何を教育したわけでもなかった。勝手に自分自身をつかんでいった。<自立心>がなければ、あの家ではやっていけなかったのだ。岡本家の場合、とにかく人並の親がやってくれることは、何もやってくれない」


岡本家には、<世間的な愛情>とは無縁の家で、たとえば小学校一年の時の初めての運動会では、一平やかの子のどちらも姿をあらわすことはありませんでした。

 

 

岡本家が、「異形の家」だったと言われるのも後にかの子の恋愛相手だった早稲田大学生と夫一平との了解のもと同居するという、何も天才画家を育てあげるような家庭環境だったという異形さではなく、一平やかの子も自身の情熱に一心で、子供の居場所もない。

ならば両親と少しでも渡り合あって振り向かせるしかない。太郎の内部からにじみでるような論理的な思考回路は、そうした「異形の家」にあって太郎自らが習得した<生き方>だったのです。論理的な思考回路は、どちらかといえば情緒的な感性がかっていた両親とわたりあう”武器”となったといえます。

そんな太郎が今でいう「不登校児」になったのは、入学して1カ月もたたないうちでした。母かの子がどんなに行くように諭してももう言うことは聞き入れません。学校に行っても先生に怒鳴られ立たされるの繰り返しだったのです。

 

学校の代わり太郎が行っていたのはドブ川で、水の中をのぞきこめば藻の不思議な動きや色彩の神秘さに遊んだのでした。両親はもはや打つ手なしと、京橋にある一平の父(祖父・岡本竹次郎、書家名岡本可亭ーおかもとかてい)の家に太郎を預けるのです。

太郎から感じられる東京の下町気風は、旦那衆の集まりや謡いの会が催されたこの時に受け継いだのではといわれています。

最もここでも小学校にやらされますが、嫌がらせやイジメ、理不尽さを我慢しない純情で一本気な太郎。寄宿舎制の私塾「日新学校」と十思小学校ともにつづきませんでした。



「…朝、学校に行くのがイヤだから、のろのろ、とぼとぼ。そんなとき太郎さんは、太陽と対話しながら歩いていたそうです。太陽は、親父みたいなちょっと偉い人格で、上から自分を見下ろしている。見上げて話しながら歩いていると、だんだん目がチカチカしてきて、思わずパッと目を閉じてしまう。すると瞼の裏にパーッと、真っ黒な太陽が飛び散った。それが、後に48歳のときに出版した『画文集・黒い太陽』につながっていったのね。
 子どもの頃から<太陽>を身近に感じていたようで、『太陽は身内だ』みたいなことも、よく言っていました。実際、太陽をテーマにした作品が多いけれど、その原点は小学校1年生にあった。それにしてもなんと孤独なんでしょう。<太陽>とだけ話をしている子供なんて」(『岡本太郎岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』岡本敏子/聞き手・篠藤ゆり アートン p.14~15 )

 

太陽こそが、唯一の友だち、身内と感じるばかりの太郎は、小学1年生の間の1年間に3つの学校にかよわされ、そのどこにも馴染めず「不登校」になるばかり。この頃、島根から上京し岡本家に居候しながら慶應義塾大学に通っていた恒松安夫(すでにこの頃には岡本家の台所を含め一切を切りもりしていた。

後に歴史学者・政治家、島根県知事)の発案で、自由主義的な慶応義塾幼稚舎はどうだろうと、1年生からやり直すつもりで入学試験に太郎を連れて行ったのでした。当時、慶応幼稚舎は学科試験はなく、子どもから感じ取った校長先生の判断のみ。慶応幼稚舎に入学し、太郎が寄宿舎でつけられたあだ名は「不死身の太郎さん」。

 

冬でも制服の下はシャツ1枚。「出る杭は打たれる」という言葉を「釘」と覚え間違いしたのはこの頃のこと。結局ここでも太郎は誰にも心を開けることはできず、自分だけ「異質」な気がしつづけ、虚無感に襲われ、死んでしまいたいと自殺を考えていたという。

1週間に一度、土曜日だけ帰宅する太郎でしたが、家では太郎の帰りを待って出迎える空気もまったくなく、居候の恒松安夫が用意する食事を食べるばかり。小学校時代、太郎は家でどんなものを食べていたのかすらほとんど覚えていないというのもこのためでした(後に婦人雑誌で「御自慢の料理」について取材がある時、まっさらな割烹着を身につけ写真におさまっていたかの子。

そんな母に唖然としつつ太郎はそんな写真を笑って見ていた)。ただこの寄宿舎生活時代に、太郎はある「楽しみ」を見つけたのでした。

 

 

 

宮沢賢治の多面体の根っこ(1)

多面体を生き、時にどのように結晶させるか。因果の鎖をとく”溶媒” 宮沢賢治は多面体です。

詩人・童話作家・農学校教師・農業指導家・地質学者であるだけでなく、星座(天文学)好きであり、山好きであり、森や川を歩き標本採取し、石好きであり、音楽好きであり、芝居好きであり、エスペラント語をやり、読経好きな宗教家でもありました。

なぜそんなに賢治は多面体なのでしょう。 


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近代化された国ではひとは一生涯、仕事に染まってただ一色になってしまう。大人になることは、幼少期に見たパノラミックな風景を切り取り、イーハトーブ(岩手)の百花繚乱の自然から、光や風、大地から遠ざかることなのか。

賢治の青年期は、父や家業への反目、妹トシの死、表面的な陽気さの裏の本質的哀しみ、根源的な人間不安、どう生きるかつねに悩みのなかにあり、国柱会へと宗教遍歴していきます。


宮沢賢治は、天上の世界と地上の世界に引き裂かれつづけましたが、その時空の裂け目を繋げたのが<宗教>であり、<音楽>であり、「銀河鉄道」の様に、<詩・童話>でありました。そこには目には見えない天界までとどかんとする「マインド・ツリー」が賢治の裡に立ち上がっていたからに他ありません。

その「心の樹」の樹冠は、遥かな<銀河系>からの光を映しだしたかの様に、キラキラ輝いているのです。

 

「…二千年ぐらい前には 青空いっぱいの無色な孔雀が居たとおもい 新進の大学士たちは気圏のいちばん上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり あるいは白亜紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません…」(『春と修羅』)

そう、気圏のいちばん上層のあたりで見つけた化石や、白亜紀砂岩の層面で発見された透明な人類の足跡は、<第四次延長>に伸びた賢治の「心の樹」のそれであり、わたしたち自身の感じる<心象風景>の未来の「化石」になるかもしれないのです。

賢治の「心の樹」の”樹液”は、今生の<因果の時空的制約>を溶かす”溶媒”にちがいありません。賢治はそんな魔法の様な”溶媒”の原液をどこでいつ手に入れたのか

それは「イーハトーブ(岩手)」の大地と夜空にあったのです。


賢治誕生時、「三陸津波」と「陸羽大地震」が相前後して起こった


宮沢賢治(本名:宮澤賢治)は、1896年(明治29年)8月27日、北上山地奥羽山脈に挟まれた岩手県稗貫(ひえぬき)郡里川口村(後の花巻町。現・花巻市)に生まれています(誕生は母の実家がある同じく川口村、後の花巻市鍛冶町)。

賢治が生まれた前後は、東北地方に大きな自然災害が引き起こされた時期にあたっていました。

賢治が生まれる2カ月程前には、岩手県内だけで死者1万8000人を超える大惨事となった「三陸津波」が、賢治が生まれた4日後には(8月31日)、直下型地震の陸羽大地震(M7.2)が発生。

内陸から山地にかけ多数の家屋が倒壊し山崩れも1万カ所に及んでいます(それ以外にも度重なる集中豪雨や北上川の大氾濫が重なり、自然災害・凶作・冷害は大飢饉を引き起こし、岩手は荒廃し県民は貧困に喘いだといわれる)。

地震発生時、賢治の母イチは、念仏を唱えながら体をかぶせ必死でわが幼子を守ったといいます。

災害への関心が深かったといわれる賢治は、三陸津波の際の惨状(溺死体も多くあった)が写された写真を幼児期に度々目にしたといわれています。

それは賢治の叔父(父の弟)の宮澤治三郎が当時まだ珍しかった写真の撮影に打ち込んでいて(技術は玄人レベル)、撮影された多くの写真と身近に接することができたからだそうです。

まだ20代だった叔父・治三郎は、大津波の報を聞き一目散に釜石に駆けつけその惨状を撮影、新聞社に提供しています。

さて、賢治の実家の家業は、夙(つと)に知られているように「質・古着商」です。

当時の社会経済環境から、生活苦にあえぐ農民は質入れして生き抜く者も多く、後に賢治は父・政次郎と商いのことで(商売代えを父に強く要望していた)、つねに衝突を繰り返すことになります。

ところが面白いもので、農民や農業の肩を持つようになる一方、賢治は「商い」そのこと自体を諌めるのではなく、(妹トシの看病で上京中の23歳の時)新たに宝石(人造宝石)などを扱う商売を企てたいと父に書き送っているのです(数回目の手紙では、企画案は飾石・宝石、指輪やネクタイピン・カフスボタンとより具体化される)。

そして賢治の「商い」への様々なかたちのアプローチと関心は、じつは花巻一帯を根城に、商工の業を広く起こし地位と富を築き繁栄してきた宮澤一族(地元花巻で「宮澤一族(みやざわまき)と呼ばれ、花巻を代表する一族で、地域の秀才を輩出していた)の遺伝子のなせる技といえるものだったのです。


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しかもこの宮澤姓」は、江戸期から父方の姓であり、また母方の姓でもあり、2つの流れとなっていた宮澤家が、賢治の父と母の代で合流することになり、まさに花巻の一大勢力と化していたのです(地元ではどちらの宮澤家も、同じく宮澤一族とみていたようだ)。

 

宮沢賢治は、たんに成功した質・古着商の長男として生まれ育った者ではなかったのです。

このことを押さえておくと宮沢賢治の生き方、思考に嗜好、反目・反抗、挫折や企図がおのずからみえてきます。

 

賢治は自然災害を受けいっそう生活が苦しくなった近隣の貧しい農民から、僅かな品物を”収奪”するような<質屋>(当時の社会的有り様としての)という家業を嫌悪するようになり、<家>の宗教を、そして<家長>の父に対して反目(つっぱり)していくのです。


父方は江戸中期に呉服屋を繁盛させたが、後に衰退

 

 


母方の宮澤一族の方(その経済的手腕)には驚かされますが、まずは父方の宮澤一族からみてみましょう。

宮澤家一族の始祖は、京都から花巻へ下った浄土真宗安浄寺の門徒としてつくした藤井将監(元禄9年、1696年没)と言われています。藤井姓が江戸中期にいつの間にか(理由は定かでなく)宮澤姓(宮沢賢治の「宮沢」は、本来は「宮澤」表記。本名も宮澤賢治になっている)になったようで、江戸中期、はじめて宮澤姓を名乗った宮澤右八が起こしたのは呉服屋でした。

使用人も多く雇うほど呉服屋は繁盛し、その子供の2代目の時、「土子金持ち」と呼ばれ栄華を誇ったと言い伝えられていますが、商家としての家風としては慎ましく地味だったようです。

3代目は、勤勉だった2代目とちがい(宮澤家でも栄華は3代で一旦終わっている)、奔放で華美に流れ店は衰退。南部藩の頻繁な御用金徴収にも懲り、暖簾を下ろしてしまうのです。

2代目の二男は別の呉服店に養子に出され、三男は堅物な人で親孝行者でしたが、気が小さい少年でした。それが賢治の祖父・宮澤喜助でした。

宮澤喜助は、新渡戸稲造の祖父もくわわっていた青森県三本木の開拓に、伯父らとともに経理として同行しています。

喜助は初代の様に勤勉で質実剛健に生きたため宮澤家は復興しはじめます。この喜助が賢治の父・政次郎が継ぐことになる質・古着商をはじめています(分家の際、喜助の長兄から僅かな資財を譲り受けはじめた)。

財産を蓄えた頃には、朝顔ラッパの蓄音機を購入し、越路太夫や呂昇のレコードを聞き、浄瑠璃本を買い揃え、義太夫に凝りだしていました。何よりも魚が大好物で「おれの儲けた財産だ、おれの好きなものを食わせないということあるか」と文句をよく言い、魚料理を知らない賢治の母イチを大いに困らせたようです。

この喜助の妻・関キン(南部藩勘定奉行頭の関七郎が祖)は、11人あった子供のなかで最も慎み深い性格で言葉も少なでした。馬から落ち腰を痛め、晩年はひたすら念仏を唱えていたといいます。


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(2)へ続く:

・参照書籍:『宮澤賢治年譜』(堀尾青史編 筑摩書房 1991年)/『年表作家読本・宮澤賢治』(山内修編 河出書房新社 1989年)/『兄のトランク』(宮沢清六著 ちくま文庫 1991年)/『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著 ネスコ・文藝春秋 1995年)/『宮澤賢治の生涯;石と土への夢』(宮城一男著 筑摩書房  1980年)/『新潮日本文学アルバム 宮澤賢治』(1984年)/『デクノボーになりたい 私の宮澤賢治』(山折哲雄小学館  2005年)/『チェロと宮澤賢治』(横田昭一郎著 音楽之友社 1998年)他 

 

 

 

 

 

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岡本太郎(1):「異形の家」に生まれ落ちる

「漫画」に革命をもたらした人気漫画家の父・一平と、子供をまったくかまわない母かの子。弟と妹は2歳で死去。「天才教育」もなにもなく、「世間的愛情」が欠けた岡本家には子供の居場所はなかった。「不登校児」となって小学校を何度も変わり、「太陽」だけが唯一の話し相手、「太陽は身内だ」と言う孤独な少年だった。

「漫画」に革命をもたらした人気漫画家の父・一平と、子供をまったくかまわない母かの子。弟と妹は2歳で死去。「天才教育」もなにもなく、「世間的愛情」が欠けた岡本家には子供の居場所はなかった。「不登校児」となって小学校を何度も変わり、「太陽」だけが唯一の話し相手、「太陽は身内だ」と言う孤独な少年だった。

「『自分探し』なんて言葉が流行っているけれど、おかしな言葉ね。今ある自分以外の自分なんて、どこにもないのに。自分が生きづらいことを、親がこうだったから、ああだったからと、親のせいにする人も多いでしょう。子どもの時に受けたトラウマがどうだ、とか言って。なんて甘ったれているんだろう、と言いたい。太郎さんが聞いたら、きっと怒り出すでしょうね」(『岡本太郎岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』岡本敏子/聞き手・篠藤ゆり アートン)

大阪万博の「テーマ館」シンボル「太陽の塔」や、縄文土器や沖縄・東北のプリミティブな美術に光をあて、「芸術は爆発だ!」「なんだ、これは!」「芸術は呪術だ!」などの熱いメッセージでも記憶される芸術家・岡本太郎については、1996年(84歳)没後10年前後からの再評価も相俟ってさまざまに再露出しましたが、岡本太郎という人間に迫りうる最も理にかなったベストな方法は、岡本太郎の「幼少期」、つまり岡本太郎という人間の”根っこ”をまず知ること、と感じた方もおられることとおもいます。

岡本太郎は、シンボル「太陽の塔」の内部に、全長45メートルもの高さの「生命の樹」をつくりだしています。これは生命を奏でるエネルギーの象徴でもありましたが、それはまさに”根源の世界”から発したものであり、岡本太郎が自らの裡に強烈に感じとっていた「生命の樹」だったにちがいありません。
またそれだけでなく、岡本太郎にとって「太陽」は、小学校1年生の時にはすでに、最も「身内」な話し相手のような存在になっていたのです石原慎太郎の『太陽の季節』に描かれた障子を破る場面から、岡本太郎「太陽」をイメージにもってきたという話しがあるが、どうやら岡本太郎「太陽」に関して、かなり根源的なイメージをずっと抱いていたようだ。後述するように、それは小学校1年生の時にまで遡る。太郎少年はその1年「不登校児」になっていた)

岡本太郎の強靭な生命力、表現欲から産み落とされたものはあまりにも大きく、人間力もパワフルだっただけに、そうした少年時代のことはとかく見過ごされがちといってもいいでしょう。また流行漫画家の父一平と、女流作家岡本かの子に関する話だけでも興味尽きないものがあります。素の、裸の岡本太郎、太郎少年とはどんな人間だったのか。「生命の樹」ならぬ「心の樹(マインド・ツリー)」のアプローチで、迫ってみようとおもいます。

岡本太郎は、1911年(明治44年)2月26日、流行漫画家の父・一平と、後に女流作家で歌人の母・かの子(本名:大貫カノ;新体詩や和歌を「明星」や「スバル」に「大貫可能子」の名前で発表)。生誕の地は、川崎市高津の本宅ではなく大地主・大貫家の寮(別宅)があった南青山でした(現・岡本太郎記念館がある場所)
岡本太郎ファンの方には、漫画家の父一平と作家の母かの子のこと、かなり風変わりな一家に生まれ育ったことはよく知られていることとおもいますが(後述するように意外と知られていない面もかなりあるが)、とくに父方の祖父(一平の父)の岡本竹次郎の存在あらずして一平も太郎もなかったといえます。

一平が北海道函館で生まれたのも、雑書編集や原稿書きをしていた岡本竹次郎が函館師範学校に採用され教鞭をとりだし(竹次郎の夢は、儒者として仕えていた藩の再興だった)、書家・岡本可亭としても知られる存在でした(「山本山」など日本橋の大店の看板の多くは祖父の字だった。あの北大路魯山人が岡本竹次郎に師事し書を学んでいるほどです。

じつは一平は当初、漫画家になろうとしていたわけでなく画家や小説家をめざしていました。7歳の時、狩野派の絵を学んでいる)。実際に日本画家武内桂舟に師事し藤島武二の絵画研究所で学び、東京美術学校に入学しています。ゴッホに影響を受けた絵画も描いているほどです。しかし由緒ある家の再興にはおぼつかず帝国劇場で舞台芸術の仕事に就いていても、漫画その頃に朝日新聞社に紹介されます。漫画家ではなく、漫画記者としてでした。紹介者はあの夏目漱石でした漱石は一平の漫画の技量を評価していた)
一平はクローズアップや鳥瞰法といった当時最新の映画の手法を漫画表現に導入、絵巻物の様にまだ横へ時間軸が動いていた漫画を、初めて上から下へと移動して見るようにしたのは一平だったといいます。一平は漫画に「革命」をもたらしていたのです。また「肖像漫画」は、一平の絵の才能と漫画が結びついたものでした。

一方、母かの子ですが、太郎とすれば「母親というものを持った覚えはないよ。だけど、あれだけ生々しく女で、濃厚に”女”として生きた女性と暮らしたのは誇りだ」ったといいます。かの子の実家は神奈川県川崎市高津の大貫家、多摩川にかかる二子橋のすぐ近くでした。
かつては幕府御用商で大和屋と号する大地主で、「家霊」が濃密に漂うような空気に包まれ、大貫家には不幸が何度も訪れます。不慮の死や自殺者も出、谷崎潤一郎と学友で、文学を教えられた一番仲がよかった次兄も急逝。かの子も内気な性格で、あだ名は「蛙(かわず)」。
跡見女学院で進歩的な教育を学んで<近代的自我>を備えた女だといわれても、魔性を帯び、童女にもみえたというかの子(それが一平を虜にした。かの子は後に「家霊」という短篇を書いている)

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最も実際には、恵まれた環境の中、かの子は小さな頃から週に一度は芝居に連れて行かれ、琴を習い、短歌を詠んでいます。かの子が一平と知り合ったのは19歳の時、東京美術学校(現・東京藝大)での信州への避暑の際でした。

そんな両親が暮らす家庭環境ゆえ、岡本太郎が一流の画家になったのはさもありなんと思われるかもしれませんが、それは一面の話しにしかすぎないようです。太郎に言わせれば、「生まれついての生命力で勝手に育ってきた感じがする」というのです。太郎が生まれ落ちたのは「異形の家」とも言われる家でした。「
異形の家」のはじまりはだったかといえば、父はとにかく子供には無関心、母も育児や家事にはまったく疎く苦手で、だから太郎は幼い頃から放りっぱなしの状態、「母親としては稀代の不器用で母らしからぬ母だった」といいます(太郎の言葉)

母方の親戚も「太郎はよく無事に育ったものだ」と噂するほどでした。大地主の長女に育ったがゆえ、ありあまる教養とは真逆に、誰かの世話をすることはまず不得手だったわけです(不得手が直接的原因だったわけではないとおもわれますが弟と妹はいずれも2歳くらいで死去。太郎は実質的にずっと1人っ子だった)

ただし母かの子のイメージは後の芸術にも恋にも激しく一途な女性のイメージとはずいぶん異なるものがあります。父が仕事でいない時は朝日新聞社に勤務の頃)、近所付き合いもなく訪れる人も稀なため、太郎は母と2人きり世間と隔絶されたような淋しい毎日だったというのです。
黒髪を束ねていず、幻影のように青白く、時々号泣する痩せていた母を見て、近所の悪ガキが太郎に「お前んチのかあさんはユーレイだ」と言い、そのことが酷く辛かったという太郎。
そんな母が情熱を向けていた短歌・文学に、太郎が小学校にあがる前に打ち込みだすのです。机を前にはりついて何か書きものをしつづける母に、かまってくれないと太郎が騒ぐと、母は帯で太郎を柱にしばりつけ、いくら泣きわめこうがほおっておいたのでした。
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デイヴィッド・リンチ(1):「映画」と「絵画」と

「映画」と「絵画」ーデイヴィッド・リンチのなかに生えている大きな「根」の源流にあるもの。小さい頃から絵を描くのが好きだった。庭に「発見」した生命の活気と死。
米国農務省所属の研究者の父は、樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていた。14歳の時、「絵」に向って突っ走り出した

デイヴィッド・リンチ 改訂増補版 (映画作家が自身を語る)
デイヴィッド・リンチ 改訂増補版 (映画作家が自身を語る)

はじめに:「夢」のこと

映画『ツイン・ピークス』や『ブルー・ベルベッド』、そして『イレイザー・ヘッド』『エレファント・マン』から『ロスト・ハイウェイ』にいたるまで、映画監督デイヴィッド・リンチは、観る者の心を掻き乱す異様な気色の映画を次々に生み出してきました。
しかしその異様さは、つねに平凡な日常の縁や裏側にすでに潜んでいるものばかりなのです。その感覚はすでに少年時代から培われていて、事実、無限の記憶的断片や感覚的印象(イメージ)、場所的感覚や感触まで自身の<少年期>から反射させているのです。

デイヴィッド・リンチもまた、多くの映画監督と同様、少年時代に映画監督になろうという”夢”などもっていませんでした。14歳の時に、デイヴィッド・リンチが全力を込めて突き進んだのは「画家」だったのです。

「マインド・ツリー(心の樹)」をお読み頂いている方は、そろそろお気づきのことと思いますが、少年少女時代の「夢」はあまり堅牢にもたなくてもよい、ということなのです。
名を成したスポーツ選手や著名人が、少年少女に向って、「夢」を持って、それを実現するために最善の努力をしよう、と熱く語りすぎ、「夢」は心と身体の成長とともに”変化”したり他の関心をもっていることと”重なったり、結びついたり”することを、真正面から語る人をまず見た事がありません。

生涯同じ「夢」を持ち続け、それを成し遂げた人の言葉は、重く、貴重なものが込められてはいますが、「夢」は心や感性の成長とともに、「(再)発見」したり、変化し成長するものだということを、併せて少年少女に語るべきなのだと思うのです。

このデイヴィッド・リンチの「マインド・ツリー」でもわかるように、世界的な映画監督になったリンチでも子供の頃は、自分が大人になったら何になれるのかなにも見えずー2ブロック向こう側のことはまったく関心がなかったー14歳の時に、はじめて潜在的な絵への関心が、友人の画家だった父と出会うことによって自覚できるようになっていったのです。
この年頃では、映画などまだ関心の埒外で、映画産業だけですらさまざまな仕事があることを知ることは義務教育の学校に半ば閉じられている少年少女が知り得ることはまず稀でしょう。

さらに言えば、「夢」とは、いっけん偶然に思い込んだものを、直感的に思いつく職業の中から選んで言葉に出すわけですが、そのじつかなりの割合で、それまでに感受した自身の願望をあらわしてはいます。
そして重要なことは、「夢」は<編集>されうるもので、社会・経済・技術の変化が急なこの時代、一途な「夢」実現願望は、若者に希望を失わせ、落胆させ、閉塞させるばかりになります


「何々になるのが夢」といった場合、その夢を思い浮かべてから、ようやく実現させようとやっ気になるまでに5〜10年はたっているでしょう。その間に、その「夢」の仕事は、すっかり活力を無くし、仕事のあてすらなくなってしまっているケースもかなり生じているはずです。デイヴィッド・リンチが画家の「夢」から、映画の世界に向かう契機となったのは、じつは少年の頃から彼に潜在していたある”欲動”でした。
その”欲動”は、リンチ自身の「心の樹」の”根っ子”から、魂の<根源>から発せられているものだったのです。このあたりはまた別のところで記しますが、そこが「夢」の<編集>ポイントになってくる場所なのです。
それではデイヴィッド・リンチの「夢」の<編集>ポイントは何処にあったのか、一緒にみてみましょう。まずは少年デイヴィッドの「夢」が蒸(む)してくるところからはじめます。

父は米国農務省所属の研究者、
樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていた

デイヴィッド・リンチ(David Keith Lynch)は、1946年1月20日アメリカ北西部のカナダと接する「宝の州ーTreasure State」と呼称されるモンタナ州のその西端に位置するミズーラモンタナ州で2番目に大きな街で、現在人口約5万7000人)で生まれています。
誕生してわずか2カ月後に、リンチ家はアイダホ州サンドポイントに引っ越しているので、デイヴィッド・リンチ自身が言うようにモンタナ州ミズーラは、単に”生まれた”土地だけと言っていますが、後に40代半ばになって自身の履歴を「イーグル・スカウト、ミズーラ、モンタナ」と圧縮して指し示すと刻印されたように浮き出すのです。

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このモンタナ州ミズーラは父や祖父母が生まれた場所であり、また米国農務省所属の研究者だった父ドナルド・リンチが研究職をおそらくこの地からはじめていて、デイヴィッドも父方の叔父母も近くの人口200人程の小さな村でドラッグストアを営み、リンチ一族にとって縁(ゆかり)のある土地だったようです。少年デイヴィッドは、モンタナに連れて行かれた時、その叔父母の店の隣が、夫婦ともに風景画を描く家で、訪ねる機会があれば一緒に絵を描いていたといいます。
デイヴィッドが大好きな絵と、蟻や昆虫といった生命(いのち)を発生させる深淵な森をひかえた土地柄が、少年デイヴィッドの世界観を生み出す”土壌”であり”地形”になったことは疑いようもありません。

デイヴィッドは子供の頃、母方の祖父母(曾祖父母はフィンランドからの移民)が住んでいたニューヨークのブルックリンを訪れた時、地下鉄がホームに入ってくる時の轟音や風や匂いのすべてが恐怖に感じたといいます。

少年デイヴィッドの「マインド・ツリー(心の樹)」の地形には、”土壌”のない都会のそれは魂と身体の安定を失する場でしかなかったのです(デイヴィッドは青年になっても都会が怖かったという)。映画『ロスト・ハイウェイ』や『マルホランド・ドライブ』に登場する都会で生まれ育った主人公たちが、いかに魂の場所と安定を欠きやすいか、<暗闇と混沌>の中で迷いはててしまうのか、その悪夢をデイヴィッド・リンチは描くのです。

州境のない広大な森の入口のような場所へ頻繁に引っ越していた


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父ドナルドはつねに樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていて、自由に使っていい広大な森が実験用に国から用意されていたのです。その森はモンタナ州やその西のアイダホ州、さらにその西側に広がるワシントン州にあったのでしょう。
広大な森は、州境など関係なくひろがっていますから。父ドナルドは多くはその森のあちこちにある入口の土地に、幾度となく転勤することになります。モンタナ州からワシントン州スポーケンへ、ついでノースダコタ州ダラムアイダホ州ボイシへ。デイヴィッドが14歳の時には、一家は今度は東海岸ヴァージニア州アレクサンドリアへ引っ越していました。

東海岸ヴァージニア州アレクサンドリア(初代大統領ジョージ・ワシントンの故郷とも言われる町で、ポトマック河畔に広がっている。アメリカの首都ワシントンD.C.は、ポトマック河畔に沿って北方約10キロにある)でも、父ドナルドはいつも林野部の職員が被る灰色がかった緑色のテンガロン・ハットで職場まで、車やバスに乗ることなく数キロ歩いて行っていました。当時デイヴィッドはそんな父の姿が恥ずかしかったが、後にそれはすごく渋いことだとおもうようになったといいます。

父ドナルドは若い頃、このヴァージニア州に南接するノース・カロライナ州にあるアメリカでは抜群の知名度を誇るデューク大学に通っていましたリチャード・ニクソン元大統領や、「フォーチュン」誌編集長リック・カークランド、GM最高経営責任者リチャード・ワゴナーら、匆々たる人物が卒業している)
このデューク大学で父ドナルドは、デイヴィッドの母になるエドウィナ(ニックネームはサニー)に出会っています。母は卒業後に英語の先生として勤めた後、結婚し専業主婦になっていますが、1940〜50年代ほとんどの家庭で母は家にいるのがふつうでした。
コーヒーブレイク、デイヴィッド・リンチをいかが
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頻繁な引っ越しが子供に与える影響のこと。
そのプラスとマイナス

頻繁な引っ越しは、多感な年頃の子供には、さまざまな影響を与えます。ほとんどの場合、皆と打ち解け新しい友達をつくるにはかなり時間がかかり、仲間でないことが気になって仕方がなくなるとデイヴィッドは語っています。少年デイヴィッドはその辺は巧みで、学校や皆にうまく溶け込むことができた、といいますがうまくいかないとずっとクラスから浮いてしまうのでその場合は子供ながら本当に大変なことだということも知り得たといいます。
またデイヴィッドによれば、引っ越しにはプラスの面もあって、環境に順応する能力を磨くことができることと、もしずっと学校で仲間はずれになっているなら引っ越しによって再出発のチャンスができるのだと。そしてこれはデイヴィッド流の感覚によれば、引っ越しは自分の中のシステムにショックを与え、するとどこかのチャンネルが開き、なにかが少し目覚める可能性があるといいます。

Lynch on Lynch

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周囲と順応でき友達は沢山でき、思い返しても楽しい思い出をいくらでも思い出すことができるデイヴィッドでしたが、一方で一人で庭に群がる虫を見ているのが好きでした。遠くから見れば綺麗な庭も、芝生の下には芋虫や地虫や蟻が無数に這い回っていたり、桜の木には脂(やに)が滲み出ていてそこにも蟻が群れていたことを知ります。
まさに映画『ブルーベルベット』の冒頭で描かれた映像で、少年の頃に、デイヴィッドはどんなに美しい世界も近づき覗き込んでみると必ず蟻や虫が潜んでいることを「発見」し、その感覚を大人になるまで維持しているのです。

少年デイヴィッドがそうした感覚に鋭くなったのは、植物や昆虫の病気や生長に小さな頃からつねに接していたからでした。それは農務省勤めの研究者だった父が、つねに樹木の病気や昆虫に関するさまざま実験をしていたことの影響であり、学びであり、継がれた好奇心からだったのです。

その(2)へ:

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「聴く」から「歌う」への変化の時代。1970年代初期、時をおなじくし複数の人たちが”発明”していた「カラオケ」。楽器の教則本を売るバンドマンだった男がなぜ「カラオケ」をビジネス化することができたのか。アイデアマンだった父と商売熱心な母から少年期に体得していた商売センス


カラオケを発明した男
カラオケを発明した男

誰もが手軽に歌え楽しめる「カラオケ」を”発明”し(ビジネス化)、1999年8月23日号の「タイム」誌で、「20世紀で最も影響力のあったアジアの20人」(日本人は、他に昭和天皇、豊田英二、黒澤明盛田昭夫三宅一生。他国では、ガンジータゴール孫文ダライ・ラマ14世に蠟小平、毛沢東ら)に選ばれてしまった井上大佑(だいすけ)。いまでこそカラオケは、日本にみならず東アジアを中心に世界各地で当たり前の様になっていますが、1970年代までは社交場カラオケがほとんどで、カラオケテープの曲に合わせて歌詞カードを見ながら歌うのが普通。「映像カラオケ」と一発選曲の「オートチェンジャー」、そして「カラオケボックス」がお目見えしたのは、1980年代に入ってのことでした。それ以降、時代の先端技術・ニューメディアと融合し、通信カラオケへ。様々な家電・音楽業界の大手、カラオケ専業メーカーがしのぎを削って技術やアイデア競争が繰り広げられました。
どうも「カラオケ」の”発明”そのものは、写真や映画の”発明”と同様に、時をかなり同じくして複数の人たちが”発明”していました。全国カラオケ事業者協会の歴史年表をみても、すでに軽音楽のBGM再生機として使われていたコインボックス内蔵の8トラック式小型ジュークボックスに「マイク端子」が付けられたものが存在していました。そのカラオケのルーツともいえる「マイク端子」付きジュークボックスに根岸重一氏(日電工業)らが軽音楽テープを使って歌唱するサービスが提案開発されていました。「聴く」ことから「歌う」ことへの変化でした。

「軽音楽テープが「聴くこと」を目的としているとすれば、カラオケテープは「歌うこと」を目的に作られたものでした。厳密に言えば、プロ歌手ではなく、素人に歌いやすくアレンジされていなければならないわけです。仮にこうした定義に基づくと、国民皆唱運動を展開した山下年春氏(太洋レコード創業者)が'70年に発売した伴奏テープ(8トラック式)は、初のカラオケソフトと言えます。
その翌年、井上大佑氏(クレセント創業者)がスプリングエコー、コインタイマー内蔵のマイク端子付き8トラックプレーヤーを手作りで製作。弾き語りで録音した伴奏テープ10巻(40曲)をセットして店舗へレンタルで提供しています。店舗での使用料金は1曲5分間100円でしたが、神戸市(兵庫県)の酔客の人気を博し評判になります。カラオケが業務用として誕生し、普及していったことを考えれば、カラオケ事業の始まりは'71年だと言える」(全国カラオケ事業者協会 - 歴史年表解説より)
ここで重要なのは井上大佑(だいすけ)が、「弾き語りで録音した伴奏テープ10巻(40曲)をセットして、店舗へレンタル提供」したことでした。その頃、井上はバンドマンをしていますが、同時にバンドの先輩たちがつくった楽器の教則本を売り歩く日々を送っています。そんな井上がカラオケをどうして手掛けるようになったのか。ダンスホールやキャバレーで演奏するバンドマンは神戸だけでなく、日本全国に何千人といたなか、どうして井上大佑が「カラオケ」を”発明”、ビジネス化するようになったのか。その秘密は、井上大佑という人物のなかにあったのです。
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井上大佑(だいすけ:本名 祐輔)は、昭和15年5月10日、大阪市西淀区に生まれています。カラオケの発祥、ビジネス化は関西から火がついたといわれるように、井上家もまた関西にあり、大佑少年は関西で育っています。「カラオケ」草創期、井上大佑がバンドマンとして活動していた時、神戸ならではの”あること”が、井上の”アイデア”、”イマジネーション”を刺激したといいます。”あること”とは何だったのか。
またアイデアマンだったといわれる井上大佑ですが、じつはそのルーツは幼少期にこそあり、さらには父と母もまた「アイデアマン」でした。幼少期から父母の”薫陶”を受け、刺激を受けつづけていたからこそ、「カラオケ」は「ビジネス」になると直感し、たゆまず創意工夫し続けることができたのです。まずは戦前、大阪西淀区の十三駅近くにあった井上家の様子からみてみましょう。
大佑の父・井上栄一(故郷は奈良県生駒)は、ビリヤード場に麻雀屋、レストランを経営しています。戦時下の出征時には、兵士の家族写真を撮るために写真屋も開き(最後の写真となるかも知れずお金を惜しまず家族写真を残す家庭が多くあった)、さらには融資先だった鉄工所の社長にもなっています。ビリヤード場に顔を出す海軍将校を通じて鉄工所で駆逐艦用のパイプをつくり海軍におさめ、半軍需工場となったおかげで徴兵されずにすんだとも。
父・栄一の教えがあります。「少ない資本でみな同じ条件で商売をするのだから、そこで成功するためには、同じビジネスであっても『頭を使え』ということ」でした。また祖父・栄太郎は、大阪から東京まで自転車で出掛けるような気丈夫な人物だったといい、屈っせずに物事を成し遂げていくメンタリティは祖父からも継がれていたのでしょうか。3歳の時、屋根の上で飛び回って遊んでいた時に落下、生死を彷徨っています。偶然、雲水が立ち寄り、意識が回復すれば「大佑」という名にするとよいと告げられ、その時依頼「大佑」の名になっています。その時の怪我で小学校2年までは言語障害が残っています。とにかく大佑少年はひどい悪戯ら小僧で、「ゴンタ坊主」と呼ばれていました。
カラオケ上達100の裏ワザ
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敗戦後、十三駅界隈も空襲ですべて焼け出され家も消失。こういう時は、父より母・春子の方が行動的になり、始発電車で神戸までケーキや菓子類を仕入れに行き、西宮で自分の店に菓子を並べて売るのでした。母は旅館の女将の様な存在で家事と子育てしながら一家の中心になって率先して商うのでした。母は「商売好き」だったといいます。一方、父は西宮競輪場に行って、小さな大佑と一緒にモク拾いをして混ぜ合わせてこっそり闇煙草をつくり、西宮球場甲子園球場前につづく路上で露店を開いて売ったりしています。通常はピーナッツや落花生、ラムネを売るのですが、他の露店は絶対にやらない「アイデア」で売上げをのばすのです(たとえば英文週刊誌や英文写真集でピーナッツや落花生を包んで量をかさ上げするだけでなくハイカラに見せて売ったりした。その英文週刊誌を入手するため父は大佑に山の手に住むアメリカ将校の所に行ってタダで雑誌をもらってくるよう指示。彼らは日本の子供たちには優しくするようにと命令を受けていて、子供が行けば読み終わった雑誌や写真集などをいつでもくれたという)。こうした「アイデア」を父はいつも繰り出すのでした。と同時に、どんなつれない客にも頭を下げる父に、息子大佑は「商売」の厳しさを教えられたといいます。
カラオケ進化論~カラオケはなぜ流行り続けるのか~
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そんな父のアイデアマンぶりと母の商売っ気は、たとえば小学生の大佑の遊びのなかにも次の様にあらわれたりしています。大佑の一番の遊びは武庫川での魚釣りナマズ、ウナギからコイ、フナ、どじょうなどがいた)だったのですが、魚を突くヤスを自分でつくるのは当たり前で(拾った八寸のクギを列車の線路に載せ、列車に釘を轢かせてペチャンコにし、今度は自転車屋でグラインダーを使わせてもらって削ってつくる)、次には鋭利なヤスをたくさんつくって仲間たちに売り、さらに獲れたどじょうは3軒の家に売る手はずも整えていました。小学4年の時には、子分の子供たち(10人から15人は常時集まった)に、電線関西電力の工事現場へ行き、電線の切れっ端を集めて来いと命令し、鉄クズ屋のおじさんに売り込むのです。子供ながらに朝鮮戦争特需を受けとっていたわけです。阪急電車の枕木の交換の際にも、太い釘を拾い集め、売ってはお金にかえていました。戦後、関西にも野球少年はたくさんいましたが、大佑は小学低学年の時、ボールが股間に当たった痛さを忘れることができず、ボールを怖がり野球はしなかったようです。運動らしい運動もしなかった大佑でしたが、中学時代は剣道同好会に所属。「音楽」と出会い、のめり込みだしたのは中学卒業後でした。ブラスバンドの花形だった小太鼓(ドラムセットの中のスネアドラムのこと)がどうしてもやりたくて仕方なかったのです。それからどのように「カラオケ」につながるのか。それがなかなか興味深いのです。
▶(2)に続く-未
参考書籍『カラオケを発明した男』大下英治河出書房新社

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歌がうまくなる本―カラオケ初心者からプロ志向まで
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1週間で3オクターブの声が出せるようになる本 無理な力を入れずに声域を拡げる驚きのボイス・トレーニング(CD付き)
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一人deカラオケ
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ヨーゼフ・ボイス:自然との関係こそがルーツ(1)

「私は人間などではない。私はウサギなのだ」と語り、蜜蝋や脂肪、フェルトなど「素材」に関心を向け、はたまた『自由国際大学』開設、『緑の党』結党にも関与したヨーゼフ・ボイス。生まれ育った土地の「自然」との深い関係。
「自然を観察」することを教えた母。少年時代、家で「動物園」をつくり「植物コレクション」は周囲を驚かせた。ギムナジウム時代、旅回りサーカス団の虜になって姿を消していた


「芸術教育はすべての学科に含まれなければならない。つまり基本的なことを多く学ぶ小学校が特に重要なのだ、という考えを何度も表明している。

ボイスは『成長を前もって準備することができるならば』、思春期の成長をより高次の芸術的能力へと高めることのできるひとつの段階となりうるとみている。


発達心理学的研究によれば、調和のとれた発達段階における素朴で直感的な芸術的能力は思春期に中断してしまう、というノイエンハウゼンの発言を、それは教師がなっちゃいないからそのような能力がとぎれてしまうのだ、とボイスは反撃している。


いまの教師はまるで心理学者のように、子供は人生のある一時期にすぎず、またある時期には別になるだろうし、最終的にはすべてがすばらしい成果につながるだろう、とのんきに観察しているだけなのだ。

実際、教師は創造的な活動ができる子供たちの可能性をまったく見落としてしまっている」(『評伝 ヨーゼフ・ボイス』ハイナー・シュタッヘルハウス著 山本和弘訳 美術出版)


『自由国際大学』開設、『緑の党』結党にも関与したヨーゼフ・ボイスは、まったくのっぴきならないアーティストだ。「芸術」の概念を<社会変革>や<教育>に拡張し、「社会彫刻」を打ち出した。


その「拡張された芸術概念」芸術概念は、神話と実存と自然科学とが相互作用することによって発展していくと考え、さらに動物学や医学、社会理論とも連携。

また革命的思想家ルドルフ・シュタイナーに、蜜蜂と人間との興味深い比較へと導かれはボイスは、立体作品において、蜜蝋や脂肪、フェルト、さらには銅、鉄、玄武岩といった「素材」への関心を深めていきました。

同時にそれは自身の遊牧生活やシャーマニズムへの関心からもやってきた課題でした。

よく知られているようにボイスは、ウサギ、鹿、大鹿、羊、蜜蜂、白鳥などをお気に入りの動物にしていました。「私は人間などではない。私はウサギなのだ」とすら語っていたボイス。

そうした動物は神的な性質をもち、ボイスのローイングや彫刻、アクションのなかでいろんな関連をもちながら登場してきます。

ボイスとその動物たちとのルーツはどこにあるのか知った時、ボイス芸術の”キー”に気づくことになります。

「社会彫刻」や「拡張された芸術概念」がボイスのなかでどのように生まれたのかを知った時、煙に巻いたかのようなボイスのパフォーマンスや作品に、ぐんと近づくことになるとおもいます。


「動物たちは身を捧げた。まさにそのことによって人間は現在の人間にありえたのである」ヨーゼフ・ボイス



ヨーゼフ・ボイスは、オランダに近いドイツ西部、デュッセルドルフやエッセンに近い、ライン河下流左岸の都市クレーフェルトに(人口約24万人)1921年5月12日に生まれています(同じくクレーフェルト生まれには馬具職人のエルメス、ミュージシャンでクラフトワーク創始者ラルフ・ヒュッター、フィギュアスケートイナ・バウアーらがいる)


ただ誕生したその年に、ボイスはオランダの国教までわずか10キロにある街クレーフェ(Kleve/人口5万人程)に移り住み、後にボイスは、この小さな街で誕生したと記すようになります。生まれた記憶もない土地よりも、生まれ育った記憶のある確かな土地こそ、誕生の地にするのは人間の性。


芸術と政治をめぐる対話


またそれ以上に、クレーフェの土地と自然は、ボイス少年の感性と人間形成の源泉となったのです。

後年ボイスはしばしば1歳半の頃、自然のなかにいた自分を詳細に回顧することができると語っていたといいますが、クレーフェの土地と自然がいかにボイスそのものとなったかを告げているようです。

実際に、草や樹木、茸について多くを知り、蠅や蜘蛛、魚、カエル、ハツカネズミやドブネズミを捕まえまるで小さな動物園とでもいうような迷路的展示空間を設けたのもクレーフェの地でした。





ここでボイスの家族についてみてみましょう。父ヨーゼフ・ヤコブ・ボイスは商人だったといいますが、世界大恐慌以前はクレーヴェ近くのちいさな町リンデルで酪農業共同組合の幹部だったようです。

大恐慌のあおりで共同組合はつぶれ、兄弟とともに小麦、飼料店を設立、商人だったというのは、小麦や飼料の商いでした(戦時中は地方行政の仕事に就いていた様)


小麦や飼料となれば、大地や動物とボイスとの関係をみれば、直接的ではないにしろボイスの記憶に潜在したのでしょう。

ただ、几帳面な性格で家庭的ではなかった父ヨーゼフとの関係はまったく冷え冷えとしたものだったようで、ボイスは厳格なカトリックの空気に支配された家から脱出することを願っていたといいます。


一方、ヴェーゼルのヒュルザーマン家出身の母は、少年ボイスに、芸術的な関心を与えることはありませんでしたが、芸術的な「感性」の土壌になるものを授けたようです。

ボイスが幼少から好み馴染んだ「自然を観察」することは、母から伝えられたようです。母は厳密なものではなくとも「自然科学的関心」を持っていた人でした。




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クレーフェの地は少年ボイスに「自然」だけでなく、壮大な歴史文化的「物語」をも与えます。

クレーフェのランドマーク的存在といえば、「白鳥城」とも呼ばれるシュヴァネンブルクの城で、築城の起源は聖杯王パルジファルの息子である<白鳥の騎士ローエングリン>にあるといわれています(17世紀のヨハン・モーリッツ伯爵は植物学者でもあり、白鳥城に素晴らしく美しい庭園をつくりだした)



ボイスの初期ドローイングに「白鳥」が多く描かれているのは、動物としての白鳥と郷土の歴史物語への深い思いからだったのです。また後にボイスがヴァーグナーの楽劇を好んだのもこれが精神的土壌でした。さらに近郊にたつグナーデンタール城はボイス少年のお気に入りの遊び場で、その城にかつて暮らしていたクローツ男爵に憧れていました。

男爵はなんとフランス革命時にパリに出向き、ジャコバン党に与し、フランス国民集会で人類の普遍的理想を説き、スパイとして捕獲されロベスピエールによって処刑されます。

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フェルメール:独特すぎる環境に生を受けた人生

絹織物業者であり「画商」でもあった父。実家でもある宿屋「メーヘレン」には、デルフトの名立たる画家たちが画商の父と交渉するため訪れていた。家のすぐ裏手にあった「素描学校」。『真珠の耳飾りの少女』の少女と東方海洋貿易の中心地デルフトとの関係

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フェルメールといえば、レンブラントゴッホと並び今やオランダを代表する画家である。2012年初夏に、『真珠の耳飾りの少女(制作1665年頃)が来日し、各メディアでも大いに話題になったあのフェルメールである。
フェルメールの絵と認められているのは今日、32〜35点だと言われ、作品点数の少なさと当時、金と同じほど稀少だった「青色=ウルトラマリン」を少女たちの衣装にもちいたミステリー、そして清らかな光や特徴的な<静謐な絵>の謎などが絡み合い、フェルメールはほとんど「神話」の様に扱われてきました。

作品「真珠の首飾りの女」「手紙を詠む青衣の女」「牛乳を注ぐ女」「赤い帽子の少女」「恋文」「音楽のレッスン」「小径」「デルフトの眺望」「地理学者」「天文学者」「信仰の寓意アレゴリー」などの作品に垂れ込めて「神話」は、制作背景や意図など謎はまだまだ残しつつも、幾つものベールは開けられていきます。

フェルメールの生涯に光があてられはじめたのは、ようやく1970年代の後半からだったといいます。それは17世紀のオランダ・デルフトの芸術家・職人の経済社会的地位に関する古文書にあたって研究をかさねていた経済史家が、その過程でフェルメールに関する未発表資料を偶然見つけたのです(光は美術史ではなく経済史の研究からやってきた)。その発見から従来のフェルメール像や絵画に検証が加えられ、神話からリアルなフェルメールがようやく語られるようになっていったのでした。

また、フェルメールの写実的な絵の制作には、「カメラ・オブスクラ」(カメラ発明以前の光学装置)がもちいられているという研究もなされていますが、重要なことはフェルメールこそが、当時「写実」第一だった絵画の世界に、色彩や対象の引き算など「創作」を加えたものこそがフェルメールの絵画世界だったということです(「デルフトの眺望」ですら)


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フェルメールに光学的知識を与えたのは、望遠鏡や顕微鏡の製作者たちとも情報を交換しあっていた音楽家で詩人のコンスタンティンホイヘンスや、フェルメールの死後、財産管理人に指名されたデルフト生まれの有名な顕微鏡製作者アントニー・ファン・レーウェンフックでした。このこともまたフェルメール絵画の興味深いパースペクティブに興味を付加しています。

真珠の耳飾りの少女』に心奪われた多くの人もフェルメールがどの様に絵画世界にかかわっていったかを知った時、さらに関心は深まり、フェルメールのえもいわれない「静謐」な絵画空間の秘密により迫れるとおもいます。ただそれでもフェルメールの生涯は、とくにその幼少期や、性格や気質、自身11人もの子供をもった家庭環境など、ベールに包まれた部分は多くあり、フェルメールの決定的「伝記本」と銘打たれた書籍は存在していません。
が、幾冊ものフェルメール研究書や論文、アート本などから新たな研究の光を受けたフェルメールに接近することができます。それではフェルメールが生まれる前のオランダ・デルフトの町とデルフトの町の変化からみてみましょう。

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:ヤン・フェルメールとも)は、1632年10月31日(1675年に43歳で死去)に、オランダのデルフトの町に生まれています。デルフトは17世紀半ば頃、商業の中心ではあったもののいち地方都市にすぎなかったと言われていますが、じつはデルフトはオランダの建国にとって極めて重要な役割を果たすことになった土地だったのです。
17世紀、デルフトはオラニエ公の宮廷との緊密な関係にありました(海辺のハーグから内陸のデルフトへ宮殿を移す。死後4年後に息子のマウリッツがスペインの無敵艦隊を撃破しオランダは実質的独立を果たす)

ラニエ家から出現したのが、「オランダ建国の父」と呼ばれるのウィレム沈黙公で、彼こそスペインとオランダとの80年戦争で北ネーデルランド諸州をまとめ陣頭指揮をとった人物でした(北が現在のオランダ、南部の現在のベルギーをめぐるハプルブルク家スペインとの領土問題)

オラニエ公家やそのかかわりのある人たちが、宮殿の内部装飾として欲したのが、「肖像画」や「歴史画」だったのです。そのためデルフトには、画家たちに多くの絵を発注し活況を呈することになりますが、オラニエ公家が好んだのはイタリア古典主義的伝統にそった絵画で、貴族趣味的なものでした。

またウィレム沈黙公の暗殺で、オラニエ公家からの絵画の注文は減少、「肖像画」や「歴史画」で腕をあげることは、デルフトの画家たちにとって栄誉と報酬とともに制作しがいのあるジャンルではなくなっていったのです(オランダ芸術の中心地であったアムステルダムでは新たな絵画も展開されつつあり、後にフェルメールは一時期アムステルダムに絵の修業に出ます)

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つけ加えれば、デルフトには時を同じくする17世紀に、東方海洋貿易を一手に担った東インド会社の中核的支部があり、あの『真珠の耳飾りの少女』の少女が身にまとっているとされる日本の着物や中国の磁器など東洋の文物が描きこまれたり、部屋の壁にかかる地図が多く描きこまれたことなど、海洋交易国家オランダを映しだしているのです。

フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡 (NHKブックス)

フェルメールの父レイニール・フェルメールは、デルフト広場に面した「メーヘレン」という名の宿屋を経営していただけでなく、絹織物業者であり、画商でもありました(画家、画商、職人が所属した同業組合「聖ルカ組合」のメンバー。
父レイニエルの本姓は、フェルメールではなく、ヤンスゾーン・フォス[Vosは英語の狐(Fox)]で、アムステルダムの同姓同名者に間違われないように、後にファン・デル・メール→フェルメールへと変更)

じつは父が画商をはじめた契機は、フェルメールの母方の祖父が、かなりの額にのぼる(当時で評価額2000〜3000ギルダー。点数としては17点)絵画コレクションを所有し、死後、フェルメールの母に相続され、そして父へと手渡されます。父が「聖ルカ組合」のメンバーだったのは、画家ではなく画商だったのですから。父レイニールが画商になったのは、フェルメールが生まれる1年前のことでした。

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父は宿屋を経営する傍ら「画商」だったことはよく知られていますが、どのような絵画を扱う画商だったかを知れば、フェルメール誕生の背景としてさらに興味がましてきます。まず重要なのは、フェルメールの幼少期、すでに身近に「絵画」が存在していたことです。そこにあったのは後にフェルメールの師匠筋ともなる(また結婚の証人)画家ブラーメルは、フェルメールの父が所蔵する絵をコピーしたり、フェルメール家とは近い関係になりました。

そして宿屋「メーヘレン」には、画商の父と交渉するためデルフトの一線の画家たちが訪れ、子供心にフェルメールは多くの画家たちを見知ったり、画家という職業があることを早くから感じ取っていました。とくにデルフトで有数の画家ブラーメルとの交流は、少年期から青年時代にかけてフェルメールに大きな影響を与えつづけたといいます。

さらにフェルメールの絵画への関心の芽を育てたのは、宿屋「メーヘレン」のすぐ裏手にある「素描学校」(画家コールネーリス・リートウェイクが主宰)があり、幼少期にフェルメールはそこで絵画の手ほどきを受けたのだろうと推測されています(『フェルメール論』小林頼子著 八坂書店 p.42)
宿屋「メーヘレン」はフェルメールが8歳の時から、その住居兼の建物に一家で引っ越していますが、生まれた「空飛ぶ狐」と呼ばれる家もその近くにありました。


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Vermeer~色彩の音色

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