伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

スタンリー・キューブリック(1):父が教えた「写真」と「読書」と「チェス」

映画『2001年宇宙の旅』や『時計仕掛けのオレンジ』『博士の異常な愛情』など、映画の境界線を押し広げた名作をうみだした映画監督スタンリー・キューブリック。作家J.D.サリンジャートマス・ピンチョンのように、社交を拒否し、映画の表舞台にけっして姿をあらわさなかった映画的天才。

映画への”異常な愛情”、”時計仕掛け”のような完璧主義、そして映画という”宇宙の旅”。キューブリックにおいては、人生と映画と魂が、まさに<三位一体>と化したかのようです。

 


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映画とともに生きたキューブリックは、多くの映画青年のように当初から映画監督をめざしていたわけではありませんでした。キューブリック少年は、小学生の頃から「写真」にのめり込んでいて、ニュース・カメラマンのウィジーに触発され、高校時代にはすでに『ルック』誌のプロ・カメラマンとして活動しはじめていました。

一方で、小学校時代には学校をさぼってばかりで、友達と交流をもつことが苦手で、孤立するタイプでした。

そんなキューブリック少年が、どのように鋭い感性をたたえたフォトグラファーになったのか、そして世界をあっといわせる映画をつくりだすようになっていったのでしょう。


では、孤立したキューブリック少年の魂がどのように「発現」していったのか、一緒にみてみましょう。

 

小学校入学当時から学校をさぼりだす


スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)は、1928年7月26日にマンハッタンの最高の医療設備のあるライイングイン病院で生まれています。父ジェイコブ(通称ジャック)・キューブリックニューヨーク大学に通い、後にニューヨーク毒医療法医科大学を卒業した医者でした(ニューヨーク毒医療法医科大学は現在のニューヨーク病院の産科)。

息子スタンリーが誕生した時、父ジャックはまだ25歳の時でした(母ガートルート・パーベラーは主婦だったようです)。父は映画のアイドル並みのハンサムボーイだったといいます。

その後、父はマンハッタンのメルローズで開業。その病院は以降30年余にわたって労働者階級や低所得者の人々のために医療を施しました。


キューブリック少年は、ブロンクスの公立第三小学校に入学。しかしはなっから学校はさぼりがちで、入学当時は半分しか登校していません。その登校拒否癖は結局、小学校の最終学年まで続いています。病気がちというのではなく、学校生活に適応できなかったためでした。8歳の時、家庭教師がつき自宅で教科を勉強するようになります。

 

 

その年の秋から再び学校に通いはじめ、出席率はぐんと上がりはじめ10歳の頃には毎日登校するようになりました。ただ社会性がまるで無いのは相変わらずで、「性格、協調性、勤勉さ、注意力、他人の尊重、会話の明瞭さ」のすべてにおいて改善の余地ありという評価でした。


生活環境を変えるためカリフォルニアに一年送られる


12歳になろうという時、キューブリックは入学したばかりの中学校(公立第90中学校)から、退学を突きつけられます。医師だった父は、生活環境を変えると良い影響がでるかもしれないと判断し、息子を叔父と叔母のいるカリフォルニアのパサディナに送り預けます。パサディナは映画の都ハリウッドに比較的近くに位置しています。

 

キューブリックは少年期に、約1年間を空気が踊るようなカリフォルニアで過ごすことになります。10余年後にキューブリックは再び、この地に向うことになります。

キューブリックの「心の樹」はカリフォルニアの空気を吸い込み、新たな「芽」(それは「眼」でもあった)を準備させたようです。キューブリック少年は、ブロンクスに戻り元の中学校に復学します。


父が教えた「写真」と「読書」と「チェス」

 

 

父ジャックは、何かが変わろうとしている息子に、3つのことを教えました。「写真」と「読書」と「チェス」でした。

 

一つ目は「写真」です。写真撮影が趣味だった父は息子に自分のグラフレックス・カメラを渡し、使ってみるようすすめました。外に出て周りの世界に興味をもって欲しいという願いからでした。

 

二つ目は「読書」でした。

父ジャックは自分と同じように息子キューブリックが読書好きになるようにと蔵書をいつでも読めるようにしておきました。

 

三つ目は、「チェス」でした。

 

父は息子とチェスをうつことで時を共有しました。父から教えられた「写真」(のちに「映画」に代わります。

表現としては異なりますが原理的には同じです)と「読書」と「チェス」の三つとも、キューブリックの生涯にわたる趣味となり仕事となったのです。

キューブリックの「マインド・ツリー(心の樹)」は、3つの大きな幹に別れつつ、それらが緊密に影響し合いながら力強く成長していきます。

 


写真が趣味の友達ができる。「暗室」に入り浸る


父ジャックはよい環境を求めしばしば転居します。キューブリックが14歳の時の転居は、キューブリック少年に決定的な影響を与えることになります。キューブリック家は、ブロンクスのグランドコンコースにある6階建ての「マジェスティック・コート」最上階に移り住みました。この界隈はユダヤ人(キューブリック家はユダヤ人です)やアイルランド人、イタリア人が住んでいました。


マジェスティック・コート」の1階下にマーヴィン・トローブという同年の少年(同じくユダヤ人)が住んでいて、キューブリックは彼といつも一緒に過ごすようになります。

マーヴィンも「写真好き」だったのです。マーヴィンは前年の13歳のユダヤ教式成人式の日に、祖父から二眼レフレックス・カメラを贈られていました(キューブリックの父しかり、ユダヤ人は写真・カメラを仕事や趣味にする者が多く、2人の様に一族や家族内での影響がおおきい)。

マーヴィンはすでに小学6年生の頃には専用の暗室をもっていて、白黒写真の撮影・現像もはじめていました。「写真」を通じて2人はすっかり仲良くなります。

そしてキューブリックは「暗室」にすっかり魅了され、時間があれば階下に降りていってマーヴィンの暗室に入り浸っていました。

 

 

運動クラブはパス。明けても暮れても写真撮影


暗室にいない時は、キューブリックはまるでフォトジャーナリストになった気分で、ストリートに出ては撮影していました。この時期、ブロンクスの少年たちのほとんどはもっぱら野球好きで、地域の運動クラブに所属し、毎週金曜日に野球をするのが恒例でした。

小学校高学年になると、もう誰もキューブリックをスポーツに誘おうとせず、背が低くずんぐり体型で、運動神経が鈍そうなキューブリックをチームに入れようと考える者もいませんでした。おかげでキューブリックとマーヴィンの2人は地域の運動クラブと接触することなく(6つの運動クラブがあるほど盛んだった)、明けても暮れても写真撮影ばかりすることができました。


この頃も、キューブリック少年は大勢の人と一緒にいることを好まず、基本的に一人でいることを好み、学校の友達のグループには絶対に加わろうとしませでした。

といっていじめられ役ではなく、逆に、いつも何かを詮索するような目つきをして、すきがない印象で、攻撃的な印象を与えるワシ顔で、それでいて喧嘩をするタイプではなく、少年にしていつもどこか謎めいていたといいます。自分の殻に閉じこもってばかりいるというタイプでもなかったようです。

スタンリー・キューブリック(2)に続く:

 

フリーダ・カーロ(2):フリーダの知的好奇心を刺激しつづけた父

父はたえずフリーダの知的好奇心を刺激しつづけた/写真スタジオの蔵書

 


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フリーダ・カーロ(1)から

「棒足フリーダ」とからかわれ、内向的に


小児麻痺から萎えた右足の機能を回復させるため、父はフリーダに、足を使うように木登りやボート漕ぎ、ボール遊ぶにはじまり、水泳やサッカーだけでなく、ボクシングやレスリングまでいろんなスポーツをさせました。

けれども右足は棒のように痩せたままで、細いふくらはぎに何枚もの靴下を履いたりしましたが、かつて日本では野口英世が火傷をおい「手ん棒」とからかわれたように、フリーダは「棒足フリーダ」とからかわれ、除け者にすらされたこともあったようです。

学校でそのことでからかわれるようになり心が傷つきはじめます。その反動で、フリーダは内向的になったと後に語っています。


父は6人の娘の中でフリーダが、<内省的性格>と<鋭い感性>を受け継いでいるとみていたので、てんかんの持病があった自身と同じようにひっそり苦しんでいるフリーダを、なんとか支えようとします。

 

 

ほとんど感情を表に出さない父でしたが、フリーダといる時だけは別で「リベール・フリーダ」とドイツ語で語りかけるのでした。フリーダは娘のうちで一番知的だで自分に似ているというのが口癖だったといいます

 


父はたえずフリーダの知的好奇心を刺激しつづけた。

写真スタジオの蔵書


父はそんなフリーダの知的好奇心を刺激するかのように花や植物、石や貝、動物や鳥、昆虫など自然のものへの関心を高めさせます。しばしば一緒に公園に行けば、父が水彩画を描いている間(父はプライベートではアマチュア画家だった)、フリーダは珍しい植物を採集し、持ち帰って顕微鏡で覗いたり、図鑑で調べたりするのだった。

こうした緻密な作業は、フリーダが若い頃、苦手だっただけに、後の絵画にあらわれてくるようになる緻密な作業や凝り性は、直接教えられた(父譲りの)ものともいえます。

 

 

2人は、フリーダが大事故にあってからも関係は緊密で、カメラの使い方や現像・着色の技法を伝授したり、メキシコ芸術やメキシコ考古学への関心をたえず深めあったりしたことは、大きな財産になっていきます。とくに後のフリーダの絵にみられるようになる細やかで緻密な筆使いは、父からならった写真修正からくるものだったといわれます。

 

この頃にはすでに父は再び写真の仕事に戻っていて(以前の様に時の政府委嘱の撮影とはいかなくなります。写真スタジオは以前勤めていた宝石店の2階)、一日をまるで規則に則るように過ごしだしていました。スタジオには、仕事場や写真装置類、暗室以外に、ゲーテやシラーなど数多くのドイツ語の原書などを揃えた書庫がありました。

この蔵書は何度もフリーダにだけ貸し与えられています。机の上には父が親愛ショーペンハウエルの写真が飾られてあったのをフリーダはしっかり見ています。父はある日、「哲学は人間を思慮深くし、義務を果たすための助けになる」とフリーダに語ったそうです。

 

 


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父は毎晩決まった時間に戻り、家族に礼儀正しく挨拶すると、ドイツ製ピアノのある部屋にきまって1時間こもるのだ。独り静かにベートーベンやヨハン・シュトラウスを聴いたりピアノを弾いたりし、妻が付き添い独り黙して夕食をとると、再びピアノに向かい、1日の最後は読書をして寝るというのが日課だったといいます。

 

フリーダの肖像画は、父のぎこちない「肖像写真」の影響があらわれている


父はその性格から、仕事柄スタジオで肖像写真を撮る時は、どこかぎこちなく形式ばる風にしか撮れなかったそうです。その感覚は、フリーダが描く肖像画にもあらわれているといわれています。フリーダも父が制作した人物撮影が多いカレンダー写真と自分の肖像画が似ていると語っています。

ただ父は目に見える人や現実の風景を撮影したけれど、フリーダは「マインド・イメージ」(心に浮かぶもの)を描いたのだと。アマチュア画家だった父の影響(その絵は静物画と農村の風景画で、緻密で写実的なもの)はまったくあらわれませんでした。

 

 

フリーダは父の写真と絵画の両方を見ているはずなのに、不思議なことに「写真」からだけ影響を受けたわけです。それは自己を見つめる内省的なフリーダのスピリット、「マインド・イメージ」に合ったためでした。


じつはフリーダと父の関係は、フリーダの病気以降、さらに深くなっていったといいます。それは父も10代後半に転倒して脳にダメージを受け、それ以降てんかんの発作があらわれるようになっていたからで、夜中就寝前や写真撮影で戸外に出る時、突然てんかんを起こして(1カ月半ごとに起こる持病)卒倒する父に、フリーダはアルコールやエーテルを嗅がせていました。少女フリーダにとって父は「謎の存在で、かわいそうな人であり、よき理解者であり、最高の模範」だったと語っています。周りからはつねに自制し寡黙な男ととらえられた父は、フリーダにはおだやかな人と映ったといいます。


13、4歳になってくると、フリーダは再び、向こっ気が強く、バイタリティあるお転婆娘に戻ってきます。髪は黒髪、額で真横に切りそろえられた男の子風オカッパ頭で、コヨアカン中を青いオーバーオールを羽織って、男の子たちとスリルいっぱいに自転車を飛ばしている姿は、ブルジョワ家庭の母親たちの噂の種になっていました。

いつも背にかついでいたのは男の子用のナップザック(中には教科書やノート以外に、いつもスケッチ帖やドライフラワーや絵具や父の蔵書、それに蝶がはいっていたという)でした。


15歳、メキシコ最高の教育機関の国立予科高等学校に入学


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15歳のとき(1922年)、フリーダはこの世代のメキシコ最高の教育機関の国立予科高等学校(メキシコ国立大学の付属高等学校)に入学します。フリーダの知性と感性は、父や一族から直接的に血のように流れ来たもの以外は、当時のメキシコの活気と情熱、文化や教育体制や学校の風潮がフリーダを育む母体(マトリックス)となります。

 

フリーダは家族のいるコヨアカンの生活からメキシコ市の中心地へと、トロリー電車で1時間かけて通いました(3年後に悲劇の衝突事故となるトロリー電車です。その時フリーダはバスに乗っていましたが)。母は当時の母親なりの理由で(予科高等学校は男子ばかりであまりに危険な場所だと)反対しましたが、父は若い頃挫折した学問への途を娘に託しました。

 

フリーダが入学した当時、女性の入学が認められたばかりの時で、全生徒数約2000人の内女性は35人だけだったといいます。そこでフリーダはメキシコ中から集まってくる前途有望な男子生徒と同じく知的専門職をめざして学問を学ぶことになります(5年後に医学部への進学が可能となるコースをこの時すでに選択している)。

 

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ところがフリーダの悪戯好きとスリル好きは、ここでも発揮されることになります。父から継いだ内省的なスピリットは、文学グループ「コンテムポラネオス」に加わることで維持されたようです(ディエゴ・リベーラの2番目の妻評論家のホルヘ・クエスタや後に著名な詩人となるカルロス・ペリィセールと親友になっている)。

また政治色の強いサークル「マイストロス」にも顔をだしていましたが、最もフリーダのお転婆な性格と機転、”反逆的姿勢”を心から楽しむことができたのは、「カチュチャス」(全員帽子を被り、男子7人と女子2人)というグループでの活動でした。

フリーダ・カーロ(3)に続く

フリーダ・カーロ(1):インディオの女性の「乳」で育ったフリーダ

フリーダは、インディオの女性の「乳」で育った。3歳の時、カーロ家の運命が暗転 


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はじめに
フリーダ・カーロは、18歳の時、バスの事故で足腰を串刺しにされて以降、47歳で亡くなるまで32回もの手術(主に背骨と右足)をしています。それだけでも大変な人生であるのにフリーダは、病と闘いながら22歳の時にメキシコの大人物で天才的な壁画家ディエゴ・リベーラと結婚(10代の時の予言通り巨大なメキシコのカエル王子を手に入れるのだ)。

後に後遺症となった萎えた足を長いメキシコ・スカートで隠し、トロツキーイサム・ノグチとも浮き名を流します。その情熱的な愛の遍歴はラテンアメリカの女性の憧れの的になったほどです。

フリーダは、つねに出会った「命」につねに「愛」をこめることのできた女性でした。自己の苦痛は芸術へと「転化」されたとはフリーダの中心テーマである「自画像」に対していわれますが、「マインド・ツリー(心の樹)」的に言えば、事故に会う以前にフリーダの内に得体の知れない根深くも錯綜した大きな「自意識」が準備されていなければ、なにも「転化」はされません。

 


鋭い機知と感性、権威を覆そうとする反逆的姿勢で、フリーダは一度退学処分すら受けているほどでした。また限りなく広がっていた内なる夢想の世界、男の子と一緒になって遊んできた奔放なお転婆娘、アマチュア画家になった父との知的交流、バイセクシャルな性など、フリーダの内界を旅することはなかなか容易ではなりません。フリーダの中心主題の「自画像(セルフ・ポートレイト)」はどのように生まれてきたのでしょうか。どうしても思春期からはじまってしまい、また父を「写真家」だったとしか扱わない映画『フリーダ・カーロ』ではなかなか見えてこない、フリーダ・カーロの心の「地図」と前代未聞の形をした「樹」を一緒にみてみましょう。

 

フリーダは、インディオの女性の「乳」で育った


フリーダ・カーロ(マグダレーナ・カルメンフリーダ・カーロ=イ=カルデロン:Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderon)は、1907年7月6日に、メキシコ市郊外の古い住宅街に誕生しています。マグダレーナ・カルメンは洗礼名で、フリーダが呼び名となりました。フリーダとはドイツ語で「平和(フリーデ)」を意味しています。

その名づけは机の上に敬愛するショーペンハウエルの写真を飾っていた父の直感だったようです。きっと内省的で鋭い感性をもつようになり、娘のうちで一番自分に似るだろうという予感は当ります。長い苦しみに耐えぬき、驚くほど活動的で相当のお転婆だということを除いて。

 


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誕生後すぐに、フリーダの「マインド・ツリー(心の樹)」を形成するうえで、重要なことが起こりました。母マティルデが病気になったため、インディオ女性が乳母として雇い入れられたのです。フリーダはインディオ女性の「乳」で育てられたことで、後年もより強くそのことを重要視しています(絵にも描かれた)。

肉体的にも精神的にも、フリーダの「マインド・ツリー」の「樹液」は、メキシコの古(いにしえ)の大地とメキシコ的血脈につながりをみせることになります。母マティルデの母方の祖父はインディオででしたが、祖母イザベルはスペイン人だったためインディオの血は流れているものの、カーロ家の者が直接インディオの女性の「乳」で育ったことは、フリーダが初めてだったのです。


母の父(祖父)が、フリーダの父に「写真術」を教えた


フリーダの顔の中で最も特徴的な、あの一本につながった太い眉毛の来歴は、インディオからではなく、父の母から受け継いでいるといわれます。父ギリェリモ・カーロ(ウィルヘルム・カーロ:ギリェリモは、ウィルヘルムのスペイン語読み)は、ドイツのバーデン・バーデンで生まれ、ニュールンベルグ大学を卒業してすぐ19歳の時にメキシコにやってきました。

母が亡くなった後すぐにギリェリモの父が再婚し、その継母とまったそりがあわず、メキシコ行きの旅費を渡され旅立ったのでした(それ以降、父は一度もドイツには帰国していません。つまり移民となった)。父ギリェリモの両親は宝石商を営むハンガリー系のユダヤ人で、当時世間の関心を高めていた写真関連の商材も扱っていました。

 

 

この「写真」が、メキシコに来てからのギリェリモの人生を大きく拓くきっかけになっていきます。また同時に、人生の浮き沈みを痛い程知ることにもなります。ただ、父ギリェリモが写真家になる直接のきっかけは、母マティルダの薦めでした。

 

フリーダの父と母の出会いは、父ギリェリモが最初の妻を2度目の出産の折りに亡くした後に、職場を同じくする宝石店での恋でした。母マティルダカルデロンは、その母がスペイン人将軍の娘にして修道院育ち、その父はインディオの血をひく写真家アントニオ・カルデロンだった。フリーダからすれば母方の祖父にあたる写真家アントニオが、父ギリェリモにカメラを貸し与え撮影技術を教え込んだのでした。

 

インディオの人間が、写真発祥の地のヨーロッパから移民してきた人間に、「写真」術を伝えるとはなかなか興味深い襷(たすき)がけのような人生の構図です。

フリーダが29歳の時に描いた作品『祖父母・父母・私』はまさに<家系樹>となっており、フリーダ自身、どんな家系のなかにいるのか強く自覚していました。

 


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フリーダ3歳の時、カーロ家の運命が暗転する。家は抵当に

 

父ギリェリモは、写真家アントニオと一緒に、植民地時代・イディオ時代の建築物を撮るためメキシコ中を旅します。メキシコ市に写真スタジオを開設しました。

そしてどのような経緯かはわかりませんが、この時期に撮影された写真は、メキシコ独立百年記念祝典にあわせて出版される豪華写真集に掲載されます(大蔵大臣からの委嘱で、400枚ものガラス乾板でメキシコの伝統的建築が記録された。そしてギリェリモは「政府委嘱メキシコ文化遺産写真家第一号」の栄誉をうけることになります)

 

フリーダだけでなく、父ギリェリモもある人の手引きをきっかけに自身予想しえないような仕事を生み出すことになるのです。しかし、フリーダが事故の後で人生が転位したように、父ギリェリモは逆に、メキシコ文化遺産写真家第一号として刻まれてから人生がうまく立ちいかなくなります。

 

Frida Kahlo: Making Her Self Up

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それはディアス独裁政権からの委託の仕事だったため、独裁政権が崩壊(1910年に勃発したメキシコ革命による)すれば政府委嘱の仕事は幻のように消えてしまったのです。その後10年間続く内戦の間、父ギリェリモは写真からの収入はまったくゼロになってしまいます。


フリーダが生まれて3年後には、家は抵当に入れられ、立派なフランス製家具は売り払われ、多少の収入にと下宿人を家に住まわせたりしていたほどです。あまりの暗転に父ギリェルモはすっかり言葉数が少なくなり、人間嫌いにすらなっていったといいます。所帯をなんとか切り回すようになったのは母でしたた。

フリーダによれば、「母は読み書きができず、金勘定だけしか知らなかった」ようです。が、母マティルダは娘たちに編み物や刺繍、家事に掃除、礼儀作法をしっかり教え込んだため、三つ子の魂百までの通り、フリーダの家の美しさと整頓ぶりは生涯通じてのものになりました。また毎日、娘たちを教会に通わせ信仰心をもたせました(フリーダと妹は、古めかしく信心ぶることには反発しますが)。

 


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フリーダは母にアンビバレントな感情をもっていました。母には残忍といわれるほど思いやりに欠ける部分と、知的に優れアクティブな面がありました。残忍な面とは、悪戯好きのフリーダに激怒する時、「お前はお父さんの子でもお母さんの子でもない。くず籠から拾ってきたのよ」と言ったり、15歳の時ボーイフレンドと駆け落ちした姉マティルデ(フリーダより8歳年上)がその後、何度もお土産をもって謝りに訪れたが母は会おうとしませんでした(2人が和解したのはなんと12年後)。そんな母をフリーダは「私の上官」と呼んでいました。


フリーダは幼児期、丸ぽちゃで元気で悪戯好きな子供でしたが、6歳を機に一変します。小児麻痺罹り、9カ月間部屋に伏せざるを得なくなります。体調は回復し、ようやく部屋から出られた頃には、顔つきも痩せてひょろ長くなり、表情は陰鬱に、気質は内向的に成り代わっていたといいます。フリーダの「マインド・ツリー(心の樹)」に明らかに変質があったようです。

「イマジナリー・フレンド(心の中の友)」といいますが、「空想」の中に同じ年頃の少女が現れて強い友情をもったりしはじめたのもこの時のことです(ニルヴァーナカート・コバーンのケースとよく似ています。カートの場合、男の子が現れ両親はその子の食卓の席まで用意していた)。その「空想」の世界は、自分の部屋の窓ガラスに息を吹きかけくもらせ、そこに「ドア」を書き、その「ドア」の向こう側にある世界だったといいます。あるいは乳製品の工場の名前だったという「PINZON(ひよ鳥)」の文字の「O」も「空想」の世界へのもう一つの入口でした。心の中の友は、陽気でよく笑う女の子で、2人はいつもの杉の木の下の同じ場所に行き一緒に笑ったといいます。

フリーダ・カーロ(2)に続く:

 

チェ・ゲバラ(4):南米の旅が「チェ・ゲバラ」と化す旅に

25歳、2度目の南米の旅こそ、「チェ・ゲバラ」と化す旅となる

 


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チェ・ゲバラ(3)から:

ペルーに入ったエルネストはチチカカ湖畔を抜けて目的地の一つクスコに入りました。クスコはエルネストが少年の頃から夢想してきた古えのインカ帝国が栄えた場所です。

そして今では世界遺産となった空中都市マチュピチュに圧倒され、心を揺さぶられます。同時に、この地の先住民に対する酷い人種差別と虐待を目撃しています。こうした一つ一つの体験が後の「チェ・ゲバラ」を誕生させるのです。


ペルーの首都リマでは予定地の一つだったハンセン病院に立ち寄っています(マルクス主義者でもあったハンセン病院の医師は2人をあたたかく迎え入れ、病院で宿泊し食事を摂れるようもてなしている)。

 

エルネストはその病院で看護婦とかなりいい関係になりますが、振り切るようにアマゾンに向かいます。アマゾンといってもかなりの上流ですが、険しい山岳とジャングルがエルネストたちを苦しめます。何度も喘息の発作にみまわれアドレナリン注射がかかせない状態だったようです。ハンセン病院があるプカルパの町は、ジャングルの中にありましたが、エルネストは診察だけでなく釣りをしたり患者とサッカーをして楽しんでいます。

エルネストはアマゾンで24歳をむかえます。アマゾン川を泳ぎ渡り(流れをよんで泳ぐと片道だけで4キロにもなる)、少年の頃のような危険をかえりみない行動で皆の度肝を抜いています。そして「マンボ=タンゴ号」という筏(ハンセン病患者たちがつくってくれた)で3日間アマゾン川を下ります。


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【青年期:旅でのTopics】

エルネストは、アマゾン川を下っていく途中、コロンビアに入国。そこでスポーツの才能があることを知らしめサッカークラブの臨時コーチに。またコロンビアの歴史や地理、政治、農民の状況などをおさえるため勉強し情報を蓄積。コロンビアでもマラリア関係の病院に出向き、病院内の部屋を寝床にして日々を過ごす。

一転、軍の輸送機でコロンビアの首都ボゴタへ向った折り、手持ちナイフ(旅人には必要なもの)を理由に一方的に逮捕されるが、釈放されると再びサッカーの試合を観て楽しんだりしている。エルネストの日々も不思議に満ちているが、南米各地の状況も不安定でありながらどこか楽天さも感じられる。続くベネズエラへ入国した時は、物価の高さや貧富の格差、首都カラカス周辺の日干しレンガ造りの粗末な小屋に驚いている。

ベネズエラでもハンセン病院で少しの仕事をえているが、資格の問題でどの病院でも仕事は限られたため、アルゼンチンに戻ったのち医学部を卒業しておこうと考えるようになった。

 

ベネズエラには馬の輸送の代理業者をやっている父の親類がいて、エルネストはその親類と同行しブエノスアイレスに戻ることになります。乗り換え空港の米国マイアミで飛行機故障から20日足止めをくらいますが、この時の米国での経験もエルネストを刺激し影響を与えたようです。UPIの記者と口論になり「僕はアメリカの百万長者よりも、文盲のインディオの方が好きだ」と激しく言い返したのもこの頃でした。


8カ月にわたる最初の流浪の旅のあと、2年間をつぎの本当の「旅」の準備にあてる


「このアメリカ大陸の流浪は僕を考えていた以上に変えた」。8カ月の旅からアルゼンチンに戻ったエルネストの「マインド・ツリー(心の樹)」は、著しく逞しく成長しました。エルネストの胸のうちに確実に明確な「マインド・イメージ」が描きはじめられます。その「マインド・イメージ」には、武器を手にしている自分の姿が映し出されていました。近い将来、政治問題がエルネストの行動の射程範囲に入ってくることを予感しはじめたのはこの旅の後だったようです。ノートにはインディオら人民を搾取する者たちへの怒りから「僕は人民のために生きるだろう」と記しています。


エルネストは「旅行メモ」をまとめると、国立図書館に日々通い勉強しだします。旅から学んだことを実践し準備するためで、今後南米各地で活動をする時の資格を取得するためでした。この時期、幾つもの試験を受けていたのも、大学でアレルギーに関する研究を発表したのも、近い将来の活動を予測してのことでした。また旅の最後で別れたグラナードが働いているベネズエラハンセン病院で勤務することを考えての判断でもありました。

 

 

こうしてエルネストは近い将来の自分を自らの「マインド・イメージ」に映しだしていたのです。その「マインド・イメージ」に自己像を近づけるための準備を、エルネストはおよそ2年間余で集中的におこなっています。つぎの南米大陸への「旅」は、まさに人生を賭しての「旅」となることをエルネストは感じていたのです。次の旅が近づいた時、エルネストは恋人チチーナと別れています。

ゲバラ家の家族もそれを感じとり、2度目のエルネストの旅には複雑なものを感じていたようです。しかし、エルネストは再び旅発ちました。生まれ故郷のアルゼンチンから、”根っ子”をすべてひっこ抜き、南米大陸の奥深くに向っていきました。

 

 


25歳、2度目の南米の旅こそ、

チェ・ゲバラ」と化す旅となる


「われこそはアメリカ大陸の兵士なり!」。

こう叫んで、友人カルロス・フェレールとともに再び旅立ったのは、25歳の時(1953年)でした。ポケットには700ドル。この時はまずは電車の二等車に乗り、3000キロを一気に駆け抜けボリビアに入国しています。

ボリビアでは、農地改革や労働者による軍部への銃撃戦の情報(2000人が犠牲者に)、そして社会状況を冷静に観察します。エルネストはこの時、ボリビアの民族革命運動の詳細な動きと、3つの派閥の様子をも把握しはじめています。また弁護士のリカルド・ロホと農事省を訪問し状況の説明を受けたり、政権や各派、農民の状況と変化をかなり詳細な情報を入手していきます。

このことを知れば、ゲバラが最後に命を落とすことになったボリビアが、彼にとって唐突な戦場でなかったことがよくわかるはずです(後に3つの派閥のリーダーに会うことになるのですから)。

 


しかし、20代半ばにしてこの「状況」(同じ南米でありながらも他国である)への入り込み様は、当時の時代精神が反映していたとはいえ、やはり凄いものがあります。「われこそはアメリカ大陸の兵士なり!」という、旅立ちの言葉が軽く吐いた言葉でないことがわかってきます。


こうした政治状況への突っ込みがあったかとおもえば、エルネストは再びティウァナコ遺跡やチチカカ湖のイスラ・デル・ソルへとむかっていて、エルネスト・ゲバラという人間の面白さ、興味深さを伝えてくれます。

この時「探検家としての最も貴重な願望の一つを実現した。先住民の墓の中で小指程の大きさの女性の像を見つけた」記しています。エルネストは一方で依然「探検家」でもあったのです。


つづいてボリビアからペルーへはトラックの後ろに先住民にまじって移動。そして2年前と同じように再びクスコ、そしてマチュピチュ遺跡へ。エルネストは最初の旅の後、考古学の勉強もしていました。

 

 

「いくら感激しても足りない。僕が想像しうるもっとも素晴らしい光景の一つ」と感嘆し、2度目でも飽くことなく遺跡を見てまわっています。写真も撮り、後に遺跡について「石の不思議」という論文を著します。

エルネストに半端でない考古学者としての側面があることは、エルネストを森の奥へ、南米文化の源流へと誘い込んだでしょう。その結果、古(いにしえ)の驚嘆すべき文化を生み出した者たちの末裔のインディオたちや、”大地に根ざした”農民たちの現状を直に知ることになり、エルネストの活動の大きな動機の一つになったことは間違いありません。


ボリビアで出会った弁護士のリカルド・ロホは、エルネストの考古学狂いについていけず一人先に移動してしまいます。エルネストは独り、ペルーのリマを抜け、つづいてエクアドルベネズエラ(前の旅で同行しハンセン病院で働いているグラナードには知人に「グアテマラへ行く」という手紙を渡し知らせている)、パナマコスタリカへ。

 

 

コスタリカではキューバ人亡命者と出会い、若き弁護士フィデル・カストロのことをはじめて聞いています。またコスタリカ共産主義労働組合の指導者や政治亡命者たちにも出会っています。南米の果実を囲いだしていた米国のユナイテッド・フルーツ社への嫌悪を感じ、亡きスターリンの肖像に誓いをたてたのもこの地でした。そしてニカラグアへ入国し、さらに目的地としたグアテマラに向かいます。

 

1953年12月、グアテマラに入国。グアテマラではハコボ・アルベンスによる人民主義的政権が米国企業の独占的支配に矢を放っていた時でした。落ち着き場所と寝場所を探している間に、弁護士のリカルド・ロホにすすめられ、亡命ペルー人の女性イルダ・ガデーア(祖母はインディオ)と出会います。イルダはアメリカ革命人民同盟に属する活動家でしたが、グアテマラでは農業共同組合や農民を助成する産業振興局で働いていました。このイルダとの仲は知的な恋人に発展していくことになります。

 

 

2人ともキップリングの『イッフ』のファンで、サルトルマルクス主義についても語らうことができました。イルダも本好きでした。イルダはエルネストにホイットマンやレオン・フェリーペ、そして毛沢東の本を貸し、エルネストはファリャスの『マミータ・ユナイ』やクルシオ・マラパルテの『皮膚』のことを話して返します。

 

2人は波長があいました。イルダとともに民主青年同盟との関係は深まりますが、エルネストはしょっちゅう職探ししています。グアテマラでの滞在は徐々に長引くものの、グアテマラ医師会の圧力が強く(アルゼンチンで取得した資格が効かない)、病院で働くことができなかったため困窮しはじめたためです。ただいつものように時間があれば絶えず読書もし、寝袋の中で寝れば古代マヤの本『ポポル・ブフ』は手放せませんでした。

 

チェ 28歳の革命

チェ 28歳の革命

  • ベニチオ・デルトロ
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経済的には困窮するものの、グアテマラは中米のなかで最も民主主義が根づき外国人とも協力しようという空気がありました。キューバ人亡命者ニコ・ロペスらとも出会うなか、いよいよキューバの状況を詳しく知るようになっていきます。ビザの期限のためいったんエルサドバドルへと徒歩とヒッチハイクで出国し、国境で何冊かの本を押収されています。


アメリカ大陸は、考えていた以上にずっと重要な性格をもった冒険の舞台となる」と、エルネストはさらに認識を深めます。エルネストの「マインド・ツリー」は、いまや<南米>と<中央アメリカ>そのものを土壌として”根”を張り、深く濃いジャングルの中、空中楼閣の「マチュピチュ」のごとく、「マインド・ツリー」の頂にあるエルネストの「眼」は空中高きところから、遠き南米の歴史を感受し、沸き立つ南米の”今”を目撃するのでした。

 

 

チェ・ゲバラ(3): モーターサイクルで南米の旅に

モーターサイクルで南米の旅に


「冒険」や「旅」の本で埋まった本棚、

「一般書ABC順読書ノート」


チェ・ゲバラ(2)から続く:

第二次世界大戦がはじまった時、エルネストは12歳でした。父はアルゼンチン・アクションという組織に加わり、その時エルネストも少年ながら会員証をもらっています。友だちには自慢の会員証だったようです。実際、ある地区に住むドイツ人のなかにナチスが入りこんでいないか調査したそうです。


それよりもこの頃、エルネストが熱心だったのは、継続的な「読書」でした。エルネストの本棚は「冒険」や「旅」の本でいっぱいでした。「一般書ABC順読書ノート」という独自のノートに、読んだ本に一言コメントを付けABC順にリストにしていくのです。そうした継続的な読書術によって、エルネストは12歳の時、すでに18歳のくらいの教養を身につけていたんだと、父は語っています。

 


14歳の時、上流階級が通う学校に進まず、自由な校風で知られたコルドバのデアン・フネス学院(公立)に入学します。学校まで毎日片道だけでも35キロの列車通学でした。この年、はじめて労働してお金をもらっています。葡萄園で葡萄の収穫のアルバイトでした。また民族主義的な青年政治活動に参加したり、スポーツにも熱がはいりはじめます。

エルネストはサッカーや多くのスポーツを愛好していましたが、とりわけラグビーが大好きでした。喘息はもちろん治っていません。酸素吸入器をグラウンド脇に置き、運動中に喘息をおこすと自分で酸素吸入器を使用していました。とにかく素晴らしいプレイヤーだったようです。激しいスポーツをした後、友だちと家に帰ると、父親の蔵書を皆で借りて読んだりしていたようです。仲間うちではゲバラが一番本を読んでいたと評判でした。


翌年、妹も遠くのコルドバの学校に入学することになったため、ゲバラ家はコルドバの郊外の一軒家に引っ越し、父は市の中心部に事務所を構えました(地元の建築家とともに事業)。

 

エルネストはこの頃、文学をよく読んでいます。ボードレールマラルメ、ベルレーヌ、ロルカ、アンロニオ・マチャード、スタインベックの『怒りの葡萄』。それにネルーダやスペインの詩人たち。文学以外では、マルクスエンゲルスです。そしてガンジーを「発見」しています。

ガンジーの作品はそらんじるほどに読み込んでいます。初恋の人、従妹のラ・ネグリータにネルーダの『20の愛の詩と絶望の歌一編』のかなりの量の詩を全部口ずさんで驚かせていますから、記憶力も抜群だったようです。


音楽音痴で、ダンスもできなかったエルネスト


逆にエルネストはタンゴの国アルゼンチン人なのにまったく音楽音痴で、タンゴとポピュラー音楽の区別すらできなかったといいます。そういうアルゼンチン人もいるのかと日本人として驚きますが、アルゼンチンの大作家ボルヘスもほぼ音楽知らずだったそうですから、少年の頃から何かに深く囚われだした人にとって優先順位は低かったのでしょう。

音楽音痴にとってダンスは難関で、タンゴを聴き分けなければリズムをとって踊ることなどできません。エルネストはダンスはちょっとしたステップしかできなかったようです。それでもダンスに行くと、エルネストは踊れない人がいるといけないといって一番醜い女の子を誘っていた、とにかく自分よりもそういう人を気づかう人だったと、従妹のラ・ネグリータは記憶しています。

【青年期:Topics】

喘息によくなかったためエルネストは冷水が苦手だった。そのため生涯、風呂やシャワー嫌いが続きます。長旅やゲリラ活動にはプラスでしたが。まだこの頃は具体的な政治活動には興味をもっていません。青年期には社会的な関心はなく、生涯にわたってアルゼンチンでは政治闘争にも学生運動にもまったくかかわっていないのです(友人だった学生運動指導者が警察に弾圧された時だけ少し加わった程度)。

「スペイン内戦」の裏庭での疑似体験は、ずっと潜在していたのでしょうが、文学や哲学への関心が政治的なものへの関心を圧倒的に上回っていたのです。15歳の時の学業は、文学・哲学が「優」/英語・音楽は「不可」/歴史は「良」/苦手の数学と博物学は「可」だった。


16歳の時、体系的に読書し、考えを記録するため、「一般書ABC順読書ノート」に加え、2年間にわたって自前の「哲学辞書」をつくり続けます。エルネストは<カオス的な人間>だったのに、「読書」に関してだけは秩序だてきっちり整理しつつ前にすすんでいっています。読書記録に自ら「注」を付け、さらにはその「注」の「注」を付けて整理するといった念の入れようでした。

 

祖母が脳溢血になり半身不随に。工学を捨て、医学へ

 


ペロンが大統領就任した18歳(1946)の時、兵役に応募したエルネストは喘息で不合格になっています。この年、大学入学に際して、情熱を注いできた文学や哲学の方面でなく、工学を学ぼうと工学部に入学しています(10代半ば過ぎから一転数学が一番得意な科目に)。道路研究所の現場実習生として午前中働き、午後に勉強、路面の専門家となっって街の道路や公共施設建設のためのプロジェクトで働きだします。

すでにこの頃、政治や金銭面での潔癖さがあらわれています。建設業界は賄賂が日常茶飯事で、食事の接待もしょっちゅうでした。全員が少なくとも食事の接待を受けるなか、エルネストだけは受けませんでした。この頃、少年の頃から大きな影響を受けてきたガンジーが暗殺されていて、その意志を貫こうとしたにちがいありません。

またこの年、祖母アナが脳溢血になり半身不随になります。亡くなるまでの17日をつきっきりで面倒をみ食事の世話をしています。祖母の病気の苦しみと自分の喘息の経験から、工学でなく医学を勉強しようと決心します。


医科大学入学。23歳の時、友人と南米への長い旅

 

 


19歳、ブレノスアイレス医科大学に入学。同時に市役所やアレルギー研究所で働きはじめます。在学中に両親は離婚。22歳の時(1950年)、モーター付自転車で北部アルゼンチンを単独走破します。そして翌年、ゲバラの人生を語る上で最もよく知られるモーターバイクによる南米大陸旅行を、年上の友人グラナードとともに敢行します。先住民族インディオたちの純粋な心や暮らし、その土地はエルネストを魅了します。

バイクの方は転倒したり故障続き、有り金もあっという間になくなってしまいます。この時グラナードは、エルネストは寝袋さえあればどこででも転がって寝れることに驚いています(後の人生においてこの図太さは大いにプラスに働く)。

バイクを諦め、パブロ・ネルーダの「第三の住処」を口づさみながら徒歩とヒッチハイクでの移動に。イースター島へ渡る計画は船がすぐ出なかったため、代わりにチリに向かう船に隠れて乗り込んでいます(途中発覚)。チリの鉱山地帯では労働搾取の酷さを肌で感じとっています。そこで共産主義の労働者と知り合っています。この時点で3500キロを踏破し、疲れはピークに達していました。しかしエルネストはどうしてもその目で見ておきたいものがあったのです。


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インカ帝国遺跡、マチュピチュゲバラには考古学者の感性があった

 

エルネストがどうしても見たいもの。それはクスコのインカ帝国遺跡であり、今や世界遺産となっているマチュピチュでした。エルネストには考古学者の才があったのです。こうしてみると、ゲバラは、文学や哲学、数学に工学だけでなく、さらには医学や考古学と、そのすべてに関心を持ちつづけ、食いついたら一気に深めていける「資質」があったと思うしかありません。

文学、哲学や数学、医学などかなり突っ込んで学んでいれば、その道を極め専門家になろうとする人が多いなか、エルネストの前には見通しがきく舗装されたような安全な道はありませんでした(最後はジャングルです)。思い起こせば、エルネスト少年の書棚の多くは、「旅」と「冒険」の本でした。


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最初の頃はインカ帝国遺跡への思いもその延長にあったでしょう。そして「文学」や「哲学」は、「旅」と「冒険」をさらに豊穣に、意味あるものへと深化していったはずです。そして「工学」の後、青年期の最後に「医学」の道に入ったわけです。


「旅」の中の医師という職業


「医学」を志したことで、「旅」と「冒険」が思わぬかたちで継続させることができるようになりました。南米の数カ所の病院に知り合いもでき、現地まで辿りつけば働き口や幾らかの報酬を得ることも一時的ではありましたが可能になったのです。

エルネストも、旅を愛する人間にとって医師という職業は、またとない職業だと語っています。そして長い旅のなかで多くの出会いと体験を積み重ねていきます。搾取されるインディオたちの現状や、その原因としての各国の権力構造や土地・農業政策への関心、さらに各地で出会う亡命者たち。

 

 

こうしてチェ・ゲバラの「マインド・ツリー(心の樹)は」、モーターサイクルにのって、南米の空と土地、その「光」と「闇」を一身に浴びながら、さらに樹勢をつけていくのでした。これほどの大陸を移動し、現地と混じり会い、鍛えられ、途上で学習し、思考し、行動し、可能性が芽吹いていった「マインド・ツリー(心の樹)」は、そう多くはないはずです。そして時代や環境、関心も方法まったく異なりながらも、ゲバラの<魂の成長>から刺激を大いに受けるはずです。


まずは一緒に、ゲバラの「旅」を感じてみましょう。ゲバラの南米への長い旅(2度目は帰郷しません)は2度おこなわれます。今、一緒に辿っている「旅」は1度目の「旅」です。

チェ・ゲバラ(4)へ続く:

 

 

チェ・ゲバラ(2):「スペイン内戦」を裏庭で疑似体験、読書する少年

「スペイン内戦」を裏庭で疑似体験、読書する少年


未熟児として誕生、すぐに肺炎に罹る


チェ・ゲバラ(1)から:

エルネスト・ゲバラ(これ以降、青人するまではエルネストと表記します)は、1928年6月14日、アルゼンチンの第二の都市ロサリオで生まれています(5人姉弟の長男)。両親が商用でパナラ川を下りブエノスアイレスに行く途中のロサリオで陣痛をもよおし、ロサリオ市の大学付属100年祭記念病院で誕生しました。


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未熟児として生まれ、すぐに肺炎を患っています。2歳の時、重度の喘息の発作がおこり、最初の医者は気管支炎と診断しますが、実際には生後すぐにかかった肺炎が関係していたようで、どの医者もこれほどの重い喘息にかかった子供は見たことがないといわれていたそうです。エルネストが最初に覚えた言葉は「注射」だったともいわれているほどです。

 

エルネストは生後2年間は父がマテ茶のプランテーションを所有していたミシオネス州アラグアタイで育っています。しかしプランテーションの作物をがっさり盗まれたり不運も重なり住居がなかなか定まらない頃でもありました。未開の地の「ミシオネスのジャングル」も持っていたようですが、どうも利用できずに終わったようです。

その直後、父はパラグアイとの国境近くで今度はなんと造船所を共同経営しはじめますが、ここでも事業はあまりうまくいっていません。後年、ゲバラは「ゲバラ家はどんな事業をしても破産するんだ」と語っていたのはこうした父の事業の失敗のことを語っていたのかもしれません。

 


悪化する喘息、小学校は欠席がちに


エルネスト4歳の時、ゲバラ家はブエノスアイレスにある小さなアパートに移り住みます。5歳の時、いつも日曜には父はエルネストを連れ一緒に射撃をしています。幼少時からエルネストはピストルを扱いなれていたという記述などは、こうした背景があるからでしょう。6歳の時、妹のアナ・マリーアが誕生。妹アナは5歳位になるとエルネストが散歩する時に喘息の発作をおこした時などいつもエルネストを支えるようになります。


7歳の頃に、喘息が悪化し小学校も欠席がちになります。家では母が文字を教え、父はチェスを教えました。8歳になるまでガリシア人の乳母が雇われていてなにかと手助けしてもらっています。しかし喘息は回復せず、逆に9歳の時、喘息の合併症を起こし酷い時には痙攣をともない、つねに酸素吸入器を使用しなくてはならないほどでした。

 


「スペイン内戦」を空き地で再現し、「疑似体験」する


この頃、食事の後に、父がゲバラ一族の歴史を語るのをエルネストは夢中で聞いています。とくには地理学者となった祖父がインディオの襲撃に遭いながらチャコ地方の国境を確定していった冒険譚に惹き付けられています。後のゲバラの南米を巡る旅と冒険を知っている私たちからすれば興味のある話です。

それ以上にエルネストを刺激する大事件が海の向こうで勃発します。第二次世界大戦の前哨戦となる「スペイン内戦」です(1936〜39:ソビエト連邦とメキシコが支援した人民戦線とドイツ・イタリアのファシズムと隣国ポルトガルが支援する右派のフランコの反乱軍の戦い。戦後フランコ独裁政権を樹立)。そしてスペイン共和派の医師の子供たちが、エルネストの住む村に亡命してきたのです。

 

 

エルネストはスペイン市民戦争の情勢を、父が買ってくれたラジオと新聞を通しもらさずにチェックするようになります。それだけでなく家の裏の空き地に人民戦線の拠点・首都マドリードの包囲網を想像力をたくましくして<戦場を再現>したのです。

地面にはマドリード市民たちが協力してつくったように友だちと協力して塹壕を堀り、石やレンガを盛り壁までつくりあげました。仕上げはパチンコによる武装でした。エルネストは共和派(ソビエトが支援した人民戦線側)の将軍の名前をすべて暗記し、<再現した戦場>で「疑似戦争」を戦いました。


この「スペイン内戦」は、エルネストが8歳から11歳までの最も好奇心が強い4年間も続き、想像以上の影響を与えていったにちがいありません(<再現した戦場>は途中家が引っ越しているのでずっと続いたわけではなさそうです)。

 

影響を与えた以上に、エルネストは友だちを誘い、緻密な情報から<再現した戦場>で「疑似戦争」を行っているほどなのです。「情報」を的確に得て「判断」し、「行動」しながら「考える」後のゲバラ流の(しかもゲリラ戦のごとき)戦法が、すでに家の裏庭で繰り広げられていた。もちろんそれは少年ならではの空想的な遊びにちがいありませんが、<空想的な遊び>こそ、少年の魂を生き生きとさせるのです。


裏の空き地でのエルネスト少年の政治的立場は、スペイン共和派ー「共産主義」で、市民や労働者たちが支援した陣営でした。ここで確認しておきたいのは、アルゼンチンは19世紀初頭までスペインの植民地だったことです。

ラジオから聴こえてくる言葉(無論スペイン語)はダイレクトに少年の耳に入り、少年の心を突き動かしたにちがいありません。

 


スペインのフランコ・ファジズムは、人民戦線派5万人に死刑判決。メキシコは1万人の知識人や技術者たち亡命者を受け入れる。人民戦線政府は、1976年までメキシコの地に存続します。カストロゲバラが出会ったのもメキシコの地だった。

 

スポーツでの負けん気


<戦場を再現>しはじめた8歳の時、エルネストに相当の負けん気があらわれてきています。たとえばスポーツです(スポーツは負けん気を醸成させます)。卓球の地区試合でエルネストは何カ月も2位だった時、密かに家に卓球台をつくり一人で黙々と練習し、次の試合でずっと勝てなかった相手を負かしチャンピオンになっています。

そしてこのあたりから少年が、スポーツ少年になっていくのか、スポーツで鍛えられた少年になっていくのかの最初の分岐点がきます。勉強が好きか嫌いかではありません。学校での勉強は、およそどんな少年少女でも嫌いですから。

勉強というより、心を躍動させてくれるもの、世界を拡げてくれるものと出会いです(それは一つに限ったものではありません)。スポーツにそれを見いだした少年は、いっそうスポーツにのめり込んでいくことになります。


セルバンテスやJ.ベルヌを「原書」で読んでいた


エルネスト少年の場合、それは読書からやってきました。いつも本を読んでいるエルネストの姿が周りの人に目撃されています。この頃読んでいたのは、ジュール・ベルヌ、スティーブンソン、セルバンテス、デュマ、エミリオ・サルガーリ(イタリアとラテン諸国のジュール・ヴェルヌ的存在)らの本でした。

驚くべきことに、エルネストはこれらの本を、原書で読んでいたのです。つまり母国語のスペイン語ではなく(セルバンテスとサルガーリはスペイン語でしょうが)、フランス語や英語で読んでいたわけです。

 

 

S.ソダバーグの映画『28歳の革命』でも、キューバのジャングルの中、休憩している時、一人で本を読んでいる姿を映しています。またゲリラに参加を希望する農民たちに「文字は読めるのか」とよく聞いています。なぜなら文字が読めないといくらでも相手側に騙されてしまうことをよく知っていたからです。

 

すでにゲリラに参加している若者には暇さえあれば文字を教えたり勉強につきあったりしています。少年時代、「スペイン内戦」の実情を知ったエルネストは、ファシズムがいかに効果的な宣伝を用いて戦争を優位に戦ったか(それはナチスでも同じです)、また戦争には裏の裏があることをよく知っていたからだとおもわれます。 

 


【少年期:Topics】ゲバラ家はエルネストの喘息によい環境を求めて何度も転居している。9歳の時には新しい一戸建ての家に移る。父は喘息に効く良い薬があると聞けば手に入れ、薬草を試し、犬や猫や鳥を遠ざけ、枕の中身を替えたり、絨毯を取りはらったりあらゆることを試しますある時など祈祷師が喘息には夜にネコと一緒に寝るのがよいと言われ、ネコを布団に入れて寝たら朝ネコが死んでいたことも。

飲むサラダといわれる南米産のマテ茶も喘息には効かなかったが、後の南米の旅やゲリラ戦で食べ物に窮してもマテ茶で乗り切っている。とにかくどんな方法、どんな食事療法でもエルネストの喘息は治らなかった。新居も無理だと悟って、ゲバラ家は2年後に再び引っ越し。


9歳の時、エルネストは「変身」という趣味をみつける。あまりに治らない身体を「変身」によって忘れよう、克服しようとしたのかもしれない。エルネストが「変身」したのは、インディオガウチョ、ギリシア人や公爵でしたが、学校の劇に出たときはボクサー役だった。「変身」はエルネスト少年に限ったことでもないわけだが、気質や性格によって「変身」の仕方や方法はさまざまになる。

もともと危険を恐れない無鉄砲な気質があったエルネスト少年は、3階から飛び降りたり、チョークを食べたり、屋根から屋根へ飛び移ったり、喘息などおかまいなしだ。それが「変身」の結果の行動かどうかは分からないが、当時のガールフレンドのドローレスによれば、「彼の行動は衝動的なものでも自己顕示欲でもなく、それができるかどうか、どうやったらできるか試すためにやっていて、本当の動機は<経験>することだと感じていた」ようだ。また、その頃の友人は、エルネストには決断力があり、ゆるぎない自信と自分の意見を持っていたと記憶している。

チェ・ゲバラ(3)へ続く:

チェ・ゲバラ(1):ゲバラ家の本当の姿

ゲバラ家の本当の姿


チェ・ゲバラ」のイメージが徹底的に変わる


キューバ革命の立役者フィデルカストルの右腕として活躍しただけでなく、世界の「レヴォルーション」に欠かせないシンボルとなっているチェ・ゲバラ。数年前にもスティーブン・ソダバーグ監督が映画化し、ドキュメンタリーもの、書籍、ポスター、T-シャツ、バッジ、ウィキペディアゲバラなど、ゲバラのイメージはこのネット時代、いたるところ-ユビキュタスにあらわれます。

そしてあの独特の風貌のイメージが私たちの脳裏に残像として残ります。はて、ゲバラとは”誰”だったのか。写真集やT-シャツのアイコンと化してたゲバラらしき影を見れば見るほど、疑問は解消せずずっと残ります。若い頃は医師だった、となればきっと恵まれた家庭に育ったため、ブルジョアへの鬱憤から「革命」にのめりこんでいったのだろうか。そうした考えの中にはゲバラはいません。

 


では、友人とオートバイで南米を旅し、現地の状況を見聞するうちにマルクス主義に「共感」するようになり、ゲリラ戦に加わり次第に統率力を発揮するようになったというのはどうでしょう。大雑把な理解では近いでしょう。

しかし、中米・南米各地の腐敗した権力に対し決起した多くの若者の中で、なぜゲバラだけが、世界中の若者から「チェ・ゲバラ」と呼ばれ、「革命」を代表するヒーローのごとき存在になっていったのかは説明できません。


チェ・ゲバラ」を誕生させたもの。「自立心」や「克服力」、「探求心」「自由」「冒険心」、さらには「探求心」「希望」「共感力」「情報収集力」「分析力」なども大切な要素だったでしょう。

しかし、ゲバラを駆り立てたものを単純化、要素化してすますのは危険です。なぜならば絶え間のない「旅」の中での体験が複雑に織りなっているからで、たとえばクスコやマチュピチュ遺跡など考古学への関心は人一倍のものがありましたし、長く危険を伴う「旅」に出る前、途上であっても、ゲバラの「読書」は途切れることはありませんでした。

 

 

 

そして「チェ・ゲバラ」の核になっているもの、”根っ子”にあるものが、少年時代の「エルネスト・ゲバラ」にあったことを知ると、ゲバラにとっての絶えざる「旅」の意味や価値、「革命」戦士として生きることの意味が、<環>となって理解できるようになってきます。

今から一緒に、「エルネスト・ゲバラ」少年が、革命戦士「チェ・ゲバラ」に成り代わった<魂の旅>に出てみましょう!


米西海岸ゴールド・ラッシュに測量技師として乗り込んだ祖父。南米を南下、アルゼンチンへ


まずは「チェ・ゲバラ」の「マインド・ツリー(心の樹)」が生えている地層深くに光をあててみます。18世紀半ばのこと、父方のゲバラ家にヌエバエスパーニャ副王がいます。その副王の息子のホアキンは、米国のルイジアナの統治者から妻をさらったと記録に記されています。その子孫が19世紀半ばゴールドラッシュに湧くサンフランシスコに向かい(1848年にシエラネバダ山脈で金鉱脈が発見され大勢のインディアンが土地を奪われ虐殺されています)、その後、アメリカ大陸を南下しアルゼンチンにまで到達したといわれています。

 

 

このあたりはゲバラの伝記でも少し込み入ったところです。測量技師だった祖父がゴールドラッシュ時にサンフランシスコにいた記された伝記のとおりならば、アメリカ大陸を南下したのは祖父かとおもわれます。また父親の母方はリンチ家でアイルランド系の移民で、母親のデ・ラ・セルナ家にはファン・マルティン・デ・ラ・セルナという急進党青年同盟のリーダーを輩出している家系です。


ゲバラの父親の職業が、なぜ明確に記述されえないのか?


ゲバラの父(エルネスト・ゲバラ・リンチ)は、ゲバラの伝記本では建築技師や建設業者となっていますが、しばしば職業が明確に記述されていないこともあります。すでにこの辺りからかつて医師でブルジョアだったというゲバラのイメージがゆらぎ始めます。

実際のところ父はナショナル・カレッジの建築学科に入学し建築の勉強をしていましたが、途中、放校処分をくらいます。その理由がふつうには考えられないことで、後にアルゼンチンのみならず南米を代表する大作家になるホルヘ・ルイス・ボルヘスに授業中、勉強の邪魔ばかりしたことが原因だというのです。

 


とにかく建築学科の学生としてはあまりにも珍しいタイプで、組織や集団活動には不向きで一匹狼的な性格だったようです。そのため大人になってからも組織で仕事をすすめる建設の事業をうまくこなせなかったようです。

学校を中退した父は今でいうベンチャー起業家として仕事にありついていたようです。そして嘘か誠かその頃買った宝くじが大当たり。男たちの間でミューズ(美神)の誉れ高かったセリア・デ・ラ・セルナ(ゲバラの母になる女性)と付き合うようになり、コルドバで結婚します。


アルゼンチンで一番、イカしてた母!


スペイン系の母セリアは、情熱的な性格でした。セリアは当時の女性としては珍しく髪を短く切り、タバコを吸い、またブエノスアイレスの女性の中で、男性のように人前で足を組んでいた初めての女性だろうともいわれています。

父エルネストと出会った時はまだ未成年で、家出をしていて叔母の家に住んでいた頃でした。それでもセリアは若い頃は熱心なカトリック教徒だったようです(後に自由主義者に宗旨替え)。2人の生活感覚はボヘミアン的なものだったようです。子供たちに「冒険心」や「自由さ」を教えたのも彼らの生活感やスピリットからくるものだったようです。その上に、「文学」や読書がオーバーラップしていきました。

 

このあたりがゲバラの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根っ子”の土壌ですが、何か予感はさせるものの、必然的で、決定的なものはなにもみあたりません。しかしアメリカ大陸を縦断してきた祖先の道行きは、後のゲバラの行動の裏に「隠された古い地図」のように潜在していたかもしれません。

チェ・ゲバラ(2)へ続く: