生涯にわたって自身の「評伝」を著しつづけた太宰の幼少期には父と母の姿はなかった。小学校に上がる前からなぜ「本」が読めたのか?
戦後わずか3年後の1948(昭和23年)に玉川上水で愛人と入水自殺を図って、39歳で亡くなった太宰治。没後、映画や舞台、TVドラマなどで『人間失格』などが取りあげられ、その度ごとにリバイバル・ブームになる「太宰文学」。無頼派と称されたり数度に及ぶ自殺未遂など破滅的な生涯が必ずある時代精神を照射するからです。リバイバルごとに「太宰文学」につきあったひとも多いのではないでしょうか。
そうした読み方もきっと今回で断ち切ることができるのではないかとおもいます。後は自分の理解の歩と幅に合わせて、自分の速度と流れで「太宰文学」とつきあっていくことが可能になるのです。
そのためにまずしておくべきことがあります。それは太宰家の家歴と環境、太宰治(本名:津島修治。1909年生まれ)の幼少期・少年期をきっちりとおさえておくことです。すると「太宰文学」の行間の暗闇が、襖を少しあけるような感じでみえてくるのです。太宰治も「マインド・ツリー(心の樹)」の本編で、取り上げる予定になっていますので、ここでは詳細に立ち入ることはできませんが(直ちに知りたい方は参照書籍をぜひご覧になって下さい)、肝要な部分をご紹介したいとおもいます。
生家の津島家のことは、父・津島源右衛門が多額納税者になって以降、衆議院議員や貴族院議員をつとめ地元の名士(ほとんど大名か殿様)だったことは夙(つと)に知られています。
太宰治は「苦悩の年鑑」(昭和21年)のなかで生家津島家を以下の様に記述しています。
「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた 」
誇るべき系図も何も無いと太宰治は語っていますが、どうも本当に無かったのにも拘らず、津島家には立派な「檀家累代記」が蔵されているのです。津島家は地元青森の金木原野を開拓し功労のあった源氏の血をひく伝説の豪族・対馬氏であると。ところがそれは高利貸しで成り上がった曾祖父が、地元の有力寺社の南台寺住職と謀って捏造し、由緒ある家柄に仕立て上げたものだったのです。
太宰も書いているように、名が県下に知られ始めたのは曾祖父の時代からであったというように、曾祖父は金木銀行を設立し頭取となり、凶作の度に津島家は貸し付けた農家から土地を手に入れ膨張しつづけ、ついに青森県内の長者番付4位になっています。その大地主となった津島家と金の成る事業を太宰治の父がそっくり引き継いだなかで、太宰治は6男(長男と次兄は早世したため事実上4男)として誕生します。この父は津島家よりも豪族で由緒ある旧家の松木家から17歳で津島家に婿養子に入っている人物で、曾祖父が政治は金がかかると避けていたことに反駁、津島家の家風を壊すように政界に出ていくのです。太宰治の生家で後に「斜陽館」(現在太宰治記念館)と呼称されるようになる建物の周りに役場から警察、小学校、郵便局、病院が配して建てたほどで、どれほどの権勢だったかわかろうものです。
本書の著者・相馬正一氏によれば、太宰治の性格は、金の乱費癖や道化じみた行動や意表をつく発想、虚栄心の強さは父から、無気力な自信の無さや含羞の優しさ、虚弱さ軟弱さ暗さは母から継いだものといいます。しかし、その両親との思い出や記憶は、太宰治にはほとんどといってよいほどありません。父も母も東京(東大久保に家を構えている)に出ずっぱりで、文壇処女作とされる「思い出」(24歳の時)でも、5、6歳になるまで叔母の記憶しかなかったと記しています。この作「思い出」は、当初は自伝的小説とは考えられていなかったようで(太宰治は生涯にわたって自身の「評伝」ー自伝的作品を著しつづけた作家だといわれてきていたが)、相馬正一氏が幼少期の太宰治の実生活を調査し裏づけていき間違いなく自伝的小説だったことが判明したものだといいます。その作より5年前に書いた「無間奈落」についても、幼児期から少年期にかけての太宰治の心情が吐露されたものだったことも合わせて明らかになったようです。
太宰治の誕生直後から、津島家における父・母と子の特殊な関係がはじまります。誕生直後、母は母乳を乳母にたくし、物心つく頃にはすぐに乳母から叔母にスイッチ、文壇処女作の「思い出」で描かれるのがこの叔母です。大人数の者が住んでいるはずなのに広い屋敷のなか、この叔母としかほとんど交流がないままの幼少期だったようです。さて、ここから肝要なところです。そんな太宰治が文学の世界になぜはいっていったか、その”根っ子”がみえてくるのです。叔母が治少年によくしていたこと。それは蚊帳の中で添い寝しながら昔話(舌切り雀や金太郎など)をたくさんしたことでした。そして治少年が3歳になると、その叔母に専任女中がつきます(当時14歳の小間使い役。借金の返済ができず小作米を納める代わりに住み込んで女中や子守りをすることが零作小作農家のつねだった。地主の家で働く人々とはそうして零落した家の者たちだった)。
この14歳の女中が治少年の家庭教師の様な存在と化していくのです。治少年は毎晩のように彼女の所に行ってしていたこと。それは「文字」を覚えることだったのです。まだ小学校に上がらないうちから治少年が「本」を読めるようになったのは14歳の女中の手ほどきだったのです。「本」が読めるようになった治少年が、叔母の前で読んで聞かせると叔母は昔話をまた教えてくれるので、治少年はそれが嬉しくてしょうがなかく、それでまた「本」を読んでやろうという気になっていったといいます。治少年はどんなに悲しくて泣いている時でも、「昔話」を聞かせるとすぐに泣き止んでニコニコする性格だったようです。たまに怖い存在だった父と会う時、父も綺麗な「本」を褒美にくれ、その時だけ父が好きになったといいます。一方、治少年にとって母はまったく疎んじられた存在で、母の前で一生懸命「本」を読んでも、頭をなでてはくれるものの祖母のようにお菓子もくれず、ただ「一番をとれよ」というだけだったといいます。▶(2)へつづく-未
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