伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

児童養護施設の「遺棄窓口」から里親の許へ。育てられた家は「教会」と「学校」にはさまれていた。冒険物語の本など「学校図書館」の本をすべて読む、内気な心を明かさない成績優秀な「読書」好きな少年だった


ジュネ伝〈上〉

「創造するとは、つねに幼年時代について語ることだ。それはつねに懐古的(ノスタルジーなのだ。とにかく私の書くもの、それに現代の作品の大多数はそうだ。…13歳まで公立の小学校に行ったが…作家がどのようなものか、私はまだ知らなかった。世界を観察するうという立場に自分を置いていた。つまり、世界を変革することができなかったので、世界を『観察』したのだ。12歳か14歳の頃には、すでに自分の中に将来の<観察者>、つまり自分が将来なる作家を作り上げていた…」(『ジュネ伝』エドマンド・ホワイト河出書房新社 p.32)

「泥棒」「凶悪犯」「追放者」「男娼」と、最も伝説が似合う作家の一人ジャン・ジュネ。ジュネの名は日本にいるととかく回顧録に入ってしまう感じですが、西欧ではその存在と作品力は絶えず過去から木霊してくるようで、プルースト以降の20世紀フランス文学の分野で、こんにち最も議論の対象となるのがセリーヌとジュネだそうです(イギリスやイタリアなど各地でシンポジウムが開催されるという)。なるほど映画『ポワゾン』(監督トッド・ヘインズはジュネの『薔薇の名前』が原作でした。西洋でのジュネ人気。それはかたちづくられたジュネ伝説や神話の裏側へと潜り込む作業から再浮上してきたもののようです。
ジャン・ジュネの「天才的泥棒作家」伝説。このジュネ自身もかかわりつくりだした伝説は、ジャン・コクトーサルトル(『聖ジュネ』1952刊)が祭壇に祀りあげたことで「神話」へとなっていきました。ジュネの神話は、児童養護施設救済院の「遺棄窓口」からはじまったといっても過言でありません(母はリヨンの労働者の娘で縫い子で、父は作業員、ジュネ誕生時には父は死去している。擁護施設出身者はつねに売女の子供というレッテルが貼られる)。生後半年後に「遺棄窓口」(この100年余後に日本でも話題になった「赤ちゃんポスト」)に入れられたジュネは、施設到着後すぐに登録されてある里親へと送り届けられました。ちなみにジュネは21歳の時、初めて自分の出生証明書を見ています。認識番号192101。「遺棄児童」に分類されていました。
ジュネが幼少期に育った地は、パリの南東250キロの中央山塊の麓、林業と農業が盛んなアリニィ村で(当時人口1650人)、里親は50歳をこえていたレニエ夫妻でした。このアリニィ村があるモルヴァン地方は、パリの金持ちの赤ん坊の面倒をみる乳母の輩出地として当時名をはせ、あちこちに「乳の家」と呼ばれる豪華な家が建てられました(裕福な家で乳母をすると地元の農林業のじつに40倍もの稼ぎを得ることができ里親成金が続出していた)。フランス全土の孤児のなんと3分の1がこの地方に受け入れられていたのです。壊滅した石炭産業の代わりに「里親業」が”地域産業”として促進されたのがその理由でした。ウィキペディア日本語版は、レニエ夫妻のことを単に木こりとして紹介していますが(英語版はcarpenterー大工)、実際にはレニエ夫妻の家は、「教会」と「学校」(この2つは少年ジュネになんと大きな影響を与えたことか!)の間に挟まれて建っていた大きな家でした。しかもレニエ夫妻は若い頃二人ともパリに住んでいて(夫はヴェルサイユの兵役に就き、妻はサン=ジェルマン優雅な家の女中)、パリの文化の匂いをたっぷり吸い込んでいた人物だったのです。これが幼いジュネに影響を与えなかったとは考えられません。立派な屋敷とまではいかなかったようですが、マリー・アントワネットの胸像やマホガニーの立派な家具も設えられた家で育ったことを知れば、いっかいの樵ーきこりーの家と天と地の差があるのではないでしょうか。
そして少年ジュネが高貴な生まれに魅惑されていたのは、本当は自分は優れた血筋の子供なのではないかという密かなおもいがあり(実際そうしたケースもよくあった)、またそう思わせるような環境や匂いに満ちてもいたのです。この里親があまりにも立派だったため、ジュネは後年、里親には鞭でよく折檻されたものだと「伝説づくり」をしなくてはならないほどでした(『泥棒日記』にも当初、里親のことを立派な人たちだったと書いたが後に削除している)。実際に養父は食器棚づくりに長け、思いやりのある口数が少ない職人で、村の誰からも尊敬された人物だったといいます。
泥棒日記 (新潮文庫)

他の多くの里子と比べ、ジュネはその幼少期、3つ程の点で幸運だったようです。一つは、一日中忙しい農家ではなく職人の家が里親で、しかも比較的裕福で本を読んだり勉強する時間がたっぷりあった(養母はジュネが聖職者になることを望んでいた)。二つめは家の隣が学校だったこと(人によっては誠に不運だが)。そのため学校の図書館が自分の部屋の本棚のような感じで、好きな先生にもよく会いに行きいろいろ刺激を受けることができたことでした。ジュネは学校の図書館の本をすべて読んだというほど読書好きだったようです。とくに熱中したのは当時人気のあった少年向けの冒険物語(ポール・ファヴァル著)で異国を舞台にしたものでした。このファヴァル、ことパリを舞台にすると大胆不敵な犯罪者をヒーローにしたて、血が騒ぐ犯罪の話を次々に繰り出していました。なにやらジュネの行く末を予感させるではありませんか。また、ある友人は家の屋根裏部屋にジュネが、箱の中に綺麗な挿絵の入った何冊もの本を大切に入れていたのを目撃していました。
少年ジュネは小学生の頃は、養父のように口数が少なく、引っ込み思案で女々しく滅多に笑わなず、心を明かそうとしない不思議な雰囲気の子供だったといいます。実際当時は、大きくなったら教師になろうと思っていたようです。全科目でクラスで一番の成績をとりその地方でトップの成績で卒業した少年はじつにまともな「夢」を思い描いていたようです。が、自分の「家」を描写するようにと言われ提出した文章が思わぬ事態を引き起こします。先生にはクラスで一番よいできの文章だと誉められましたが、あるクラスの子が「描かれたのはこの子の家のことでないよ。こいつは捨て子だから」と嘲けったのです。その瞬間、少年ジュネの裡で、空虚が広がり、”根”がもがれ、漂いだしていったのです。
さらに期を同じくするように、里子は小学校を終えると(13歳)、養家から引き離されることになっていたため、いくら成績がよくとも上の教育を受けることは制度上叶わないことになっていました。職業訓練校に入学したジュネは(擁護施設出身者として滅多にない栄誉と考えられていたという)すぐに失踪事件を起こし退校処分をくらいます。そして送られたパリで、ジュネは過激に変わっていくのです。▶(2)に続く
参考書籍:『ジュネ伝』エドマンド・ホワイト河出書房新社 2003刊/『ジャン・ジュネ伝』J=B.モラリー著 Libroport 1994刊
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澁澤龍彦翻訳全集〈10〉 ジャン・ジュネ全集 第2巻 ブレストの乱暴者,美神の館 他
花のノートルダム (光文社古典新訳文庫)