無性に学校嫌いだった少年マーラー。通信簿はクラス最低。しかし家では本を沢山集めてきた。女中たちのうたうボヘミア民謡や近所の兵営から聞こえる軍楽やラッパの音がマーラーの「耳」を育てる。両親の不和。幼少期、音楽は「夢の世界」への逃避でもあった。
ヴィスコンティ映画『ヴェニスに死す』。マーラー交響曲第5番アダージョが全面的に用いられてているだけでなく、マーラーへのオマージュから、トーマス・マンの原作にある主人公が、小説家から作曲家・指揮者へと変わっている
マーラー—未来の同時代者
▶作曲家グスタフ・マーラーにとってトランペットの音は「自然の音」でした。風や波の音、昆虫や動物の鳴き声と同様、西欧人は「音楽脳」とも呼ばれる右脳で聴くということなので、西欧人の脳機能的にはなんらおかしなことはありませんが(ちなみに日本人は音楽や楽器の音は右脳で、風や昆虫の鳴き声など自然の音は言語脳の左脳で聴く)、「自然の音」という目録の中にあえてトランペットの音を数え入れるということは西欧人でもそれほど一般的なことではないのではないでしょうか。マーラーはなぜそうしていたのでしょう。その秘密はマーラーの幼少期にありました。
まずマーラー家のことに少し触れておきます。映画『マーラー』(監督ケン・ラッセル)でも匂いたつように描かれていたように、父ベルンハルト・マーラーはブランデーの製造をしていました(それまではブランデー酒場の主人)。映画では頑固でかなり気性が荒く、金にはうるさい野卑な土地の男として描かれた父ベルンハルトでしたが、若い頃荷馬車の御者していた頃のあだ名は「御者台の学者先生」で(行商で暮らしをたてていた生家を助けるため馬と車で御者を利用した)、御者台でゆられながらもさまざまな種類の本を読み漁り、後に何軒もの家庭教師として働くようになったといいます。先取の気性のあった父は、30歳になる前にボヘミアの故郷カリシュトに小さな家をもつまでになり、そうした底辺から成り上がっていった父ベルンハルトの気質と欲望はマーラー家の空気となっていたようです。
ところがマーラー家の<酵母>は母マリーにありました。マーラーの心の奥底にある感傷さは母の存在を抜きにして語られません。石鹸製造業者の娘だった母マリーと、ベルンハルト・マーラーの結婚は、ベルンハルトと母の両親との結託で一方的に決めてしまったものでした(お互いの性格もまるで知らなかった)。夫婦仲の不和は解消されることはありませんでした。ただ足と心臓が悪かったにも拘らず母マリーでしたが絶え間なく子供を生んでいます(12人の子供を生み、内5人は幼児期に死亡。グスタフ・マーラーは次男だったが長男が幼児で亡くなっているので事実上の長男となる)。マーラーにとって年がら年中心労でやつれた母への思い、心的密着には大きなものがありました(マーラーは後に妻となるアルマ・マリーアを知った時、母の名マリーと呼びたがった。また音楽的才能の片鱗をみせていたアルマはマーラーと結婚するにあたって作曲を断念。が、アルマは禁じられた作曲活動は「人格の拘束」と感じるようになり夫婦の間には緊張がつねにあったようだ。映画『マーラー』にはその状況が見事に描かれている)。後に精神分析学者フロイトは、マーラーとの対話からあらわれてくる心的状況を次のように語っています。
グスタフ・マーラー—愛と苦悩の回想 (中公文庫)
「…愛に対する彼の個人的条件、とくに彼の聖母マリア複合(マザー・コンプレックス)を発見した。この天才が優れた心理的理解力を持っていることに、私はたびたび敬服した。当時、彼の抑圧神経症の外的症状を解明できる手掛かりはなかった。それは、まるで謎に包まれた建物のなかをまさぐりながら一筋の深い竪杭を掘りすすむような気持ちだった」(『大作曲家の生涯(下)』H.C.ショーンバーグ著 共同通信社)
マーラーのピアノとの出会いも、母マリーの実家でのことでした。マーラー4歳の時、家族で母の両親を訪問していた時、屋根裏部屋にある古ピアノを見つけたのです。鍵盤を叩くことに夢中になっている孫を見て祖父母はほめそやします。母の父(祖父)はブルジョワとしての体面にこだわる人で、父ベルンハルトも成り上がり者だったので、少年マーラーがピアノ、そして音楽への道にすすむことは一族として了解されていたようです。それでも父が最初に買い与えたのはアコーディオンで、すぐ後にピアノを買い求めます。ピアノはブルジョア階級の一つのシンボルだったからです(父は「イーグラウ日曜新聞」に営業広告を出せるまでに出世した商人として体面を重視した)。
小学校(ギムナジウム)時代、少年マーラーは学校ではつねに落ち着きがなく、真面目な生徒ではなかったようです。無性に学校嫌いだったのです。とにかく義務としてやらせられる課題や授業に対し、どうしようもなく反感を抱いてしまう気質でした。物事への理解力も高く、音楽的感性には著しく優れていました。ボヘミア民謡やドイツ民謡など「民謡」を数多く暗誦してしまうほどだったといいます(こうした民謡は後にマーラーの交響曲や歌曲の源泉になっていった)。それら民謡はおもにマーラー家で雇っていたチェコ人の女中たちが歌っていたもので、地元イーグラウの青年たちが踊るダンスのメロディーへも関心を示していました。また近所のオーストリア軍の兵営からたえず聞こえてきていた軍楽やラッパの合図、太鼓の轟もまた、「マーラーの耳」をつくりあげていました。マーラーがトランペットの音を「自然の音」の目録に入れていた理由がここにあります(マーラーの交響曲にはトランペット音がかなり目立つ)。少年マーラーは楽器を手にするようになるとそれらの音をすべて「再現」しようと試みていたといいます。
マーラーと世紀末ウィーン (岩波現代文庫)
ピアノの腕が急速にあがりだすと、マーラー家の知人たちは神童ピアニストの演奏を聴くために彼を招待し次第に噂は広まっていきました。イーグラウ劇場の楽長までもが小学生だった少年マーラーの教育を引き受けたいと申し出るほどになります(さらに別の優れたピアノの先生についている)。「神童」と呼ばれるようになったマーラーは、10歳の時イーグラウ劇場で演奏、地元地方紙で高く評価され、気をよくした父はさらに優れた音楽環境に息子をいれようとプラハの音楽一家の許へと送りだします。ただ学校教育だけは、少年マーラーにとって悪夢で通信簿の成績はクラス最低を記録。プラハでは父の期待通りの音楽の才能は芽吹かずイーグラウへ戻っています。少年マーラーは一歳年下の弟エルンストをとくに可愛がりいつも一緒に遊んでいましたが13歳で病気で亡くなっています。こうした辛い別れも、少年マーラーが子供の頃から「夢の世界」へ逃げ込もうとする要因になっていったにちがいありません(不平不満を言わずつねに耐えようとする性格は母譲り)。
学校嫌いだった少年マーラーが、小さな「図書館」といえるほどの本を集めていたことはちょっとした驚きかも知れません(父も若い頃「御者台の学者先生」と呼ばれていたことを思いだされたい)。故郷イーグラウの貸出図書館には、少年マーラーが知りたいと思う曲はほとんど揃っていて、「音の世界」でなら自由に羽ばたけることを覚えるのです。そして15歳になった少年マーラーは、父に連れられウィーンへ。ブラームスの友人のピアニストにテストされ音楽院に推薦され入学します。音楽院では熱烈なヴァグネリアンとなり、教授だったブルックナーを敬愛し音楽の道を突き進んでいくのです。しかし音楽家としてのマーラーは心の奥底の感傷的な部分を、気難しく圧制的で神経質にして不遜な態度で覆い隠していきます。そして精神的な根源的トラブルに陥っていきます。「…まるで謎に包まれた建物のなかをまさぐりながら一筋の深い竪杭を掘りすすむような気持ちだった」という先にあげたフロイトの言葉がその様子の一端をあらわしています。
参考書籍:『マーラー未来の同時代者』(クルト・ブラウコプフ著 白水社 1998刊)/『大作曲家の生涯(下)』H.C.ショーンバーグ著 共同通信社/『グスタフ・マーラーー現代音楽への道』(柴田南雄著 岩波新書)
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