サティ(1):ノルマンディー地方の船乗りの家系
ノルマンディー地方の船乗りの家系だったサティ一族。父は数カ国語を操るものの学校が大嫌いな「音楽マニア」だった。母はスコットランド出身、嫁姑問題勃発。「変わり者」の遺伝子は奇人変人の叔父から受け継いだとも。母方の大叔父もまた変人。サティは大真面目に変人を纏っていく
「…実際、一般聴衆は、サティと彼の作品について、極めて部分的なイメージしか持っていない。晩年のサティは、苦々しい気持ちと苛立ちを隠さなかった…。『私が<ジムノペディ>を書いたのは、1888年、22歳の時だ。悪口を言う連中が、私の作品で感心するのはそれだけだ』。人々は彼の作品中、これらの3曲しか記憶にとどめず、残りは無視しようとした。9分間の音楽と引きかえに、探求と試練に明け暮れた生涯全体が無視されたのだ!」(『エリック・サティ』マルク・ブルデル著 アールヴィヴァン選書 p138)
エリック・サティと聞けば、(上記でサティ本人が危惧した様に)、ほとんどの人はたちまちにしてあの名作「ジムノペティ Gymnopédie」の瞑想的にしてどこか軽やかな音階がすぐに頭の中で鳴りだすのではないでしょうか。
現代音楽に詳しい方ならばさらに、ジョン・ケージやブライアン・イーノらの「環境音楽」に多大な影響を与えた「家具の音楽」(”そこにあるだけ”の音楽とされる。今日の「イージーリスニング」のルーツ的作品とも)、スティーブ・ライヒらの「ミニマル・ミュージック」(何百回も永遠に繰り返す音楽)に先駆け革新的なアイデアを導入した人物であることを知っておられることでしょう。
西欧音楽のメインストリームでもドビュッシーやモーリス・ラヴェルの作曲技法に影響を与え、記譜法も革新的な「図形楽譜」の発想の発火点となったほどです。あるいは「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「健忘症患者の回想」「梨の形をした3つの小品」「本物の無気力な前奏曲」といったあまりにもユーモラスな題名を思い起こす人もいるでしょう。
それでも頭の中で「ジムノペティ」が鳴り止むことはきっとありません。しかし、サティは1866年生まれなのです(日本で言えば明治維新直前となる。ということはあの「ジムノペティ」は1888年、なんと明治20年に作曲したことになる! その年、後に深く交流することになるピカソはまだ7歳で、コクトーはまだこの世に産まれてわずか1年しかたっていない時の作品でした)。
サティは「探求と試練に明け暮れた生涯全体が無視されたのだ!」と怒り心頭にきていますが、確かに幾つかのあの心地よい作品以外、わたしたちはサティの何を知っているのでしょうか。
「音楽界の変わり者」や「音楽界のユーモリスト」はレッテルに過ぎません。パリのカフェ「黒猫」で来客の邪魔にならない、椅子のように”そこにあるだけ”の聞き流すような曲を演奏していたサティ。モンマルトルで雇われピアニストとしてキャバレーを渡り歩いたサティ。薔薇十字教団の聖歌隊長となったサティ。導師イエスの芸術首都教会を設立したサティ。
黒い上着に山高帽、シャンソン歌手ヴァンサン・イスパの伴奏ピアニストとして生計をたてていたサティ。それらはサティの時々の顔でしかありません。が、そうしたサティも確かにいたことも事実です。
そんなサティがどのようにして「ミニマル・ミュージック」的な音楽的発想や「永遠に繰り返す」というアイデアー音楽的革新をもなしうるようになったのか。なぜ特別の数曲以外、忘却されてしまったのか。それはこの時代に生きる私たちのせいだけといえないようで、1960年代になるまで完全ともいえるほど見捨てられていたといわれています(脚光を浴びるきっかけは、アルド・チッコリーニがサティの作品をリサイタルにのせたことだったといわれている)。
1925年に59歳で亡くなった時、27年にもおよぶ貧乏暮らしが続いていたサティのあばら小屋に足を踏み入れた人は、古道具で埋まったあまりの乱雑で汚い倉庫の様な部屋、寝床も見分けがつかなかったその様子に言葉を失ったと伝えられています(断捨離など絶対にできないタイプだったようで、すべてのものが捨てられず堆積していた。若い頃はいざ知らず晩年は身だしなみはきちんとしていたため驚きが大きかったようだ)。
まずはエリック・サティとはどんな人物だったのか、その出自から少し探ってみましょう。
サティ家はフランス北西部ノルマンディー地方の船乗りの家柄だったようです。生まれはセーヌ川河口のオンフールという港町。オンフールといえば印象派のクロード・モネが『印象ー日の出』を描いた港町として今日では知られています(「印象派」は1873年の第一回印象派展に出品されたこの『印象ー日の出』という題名からと名付けられた。パリ生まれのモネは5歳の時、サティ家と逆にパリからノルマンディー地方のル・アーヴルに一家で移り住んでいる。
ル・アーヴルからオンフールまでは海岸沿いにわずか10キロ)。祖先の一人に帝政時代に海軍大佐にまでなった人物がいてサティ家に代々伝えられていたといいます。その曽孫がアルフレッド・サティでエリック・サティの父となる人物です。
スコットランド出の英国人娘と結婚したのですが(無給で働いている住み込み娘だったという)、嫁姑問題でややこしくなりアルフレッドは海運業者の株を整理、パリへ移り住みます(1870年、エリック・サティ4歳の時)。
サティ(2)へ続く:
参考書籍:『エリック・サティ』マルク・ブルデル著 高橋悠治、岩崎力訳 アールヴィヴァン選書 1984刊
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