伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

サティ(3):「中世音楽」に魅了される

サティ6歳、母が病死。父の両親の許へ。祖父がサティの「音楽好き」に気づき宗教音楽の教師を養成する音楽学校に入れる。「グレゴリオ聖歌」と読書に夢中に、風変わりな詩人と出会う。22歳、「ジムノペディ」を作曲。その楽譜を出版したのは楽譜出版を事業にしていた父だった


1960年代になるまで40年余り完全ともいえるほど見捨てられていたサティ。脚光を浴びるきっかけは、この映像で演奏しているアルド・チッコリーニがサティの作品をリサイタルにのせたことだったといわれている。下に紹介したのはそのアルド・チッコリーニ演奏のサティ作品集


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サティ(2)からの続き:

「…とはいえこの音楽(『ジムノペディ』)には描写的なところは全くない。もし『ジムノペディ』がイメージを形作るとしたら、そのイメージは本質的に発動的なものなのだ。まず最初に自分がゆれ動く地面を歩いているような感じがし、なんの解説もないその彷徨から、想像力がゆり動かされる。これは聴くものの頭のなかでしか終わらない音楽なのだ。

ジムノペディ』は、いささかクリスタルの球体に似た働きをする。人は自らもたらすものをそこに見出す。それはカンバスとなり、人々は自分自身の気分と連想によってそこに刺繍するよう求められる。聞き入るよりも耳にするための曲なのだ。
壁を消す音楽、地平に建てられたばかりの真新しい空間を描き出す音楽。それは旅や異国趣味への誘いではなく、標識もなければ目的もない散歩への誘いなのだ。よしなしごとを考えている自分に耳を傾けるために歩くことへの誘いなのだ」
(『エリック・サティ』マルク・ブルデル著 アールヴィヴァン選書 p143)


少年サティがノルマンディーに住む祖父ジュールの許に連れて行かれたのは、母ジェインが病死したためでした。一家でパリに出て2年後のことでした(サティ6歳)。パリでは「散歩者」ボードレールの後裔たちが目的もなく舗道を散歩していたはずです(サティはボードレールが亡くなった1867年の前年に生まれている)

そんなパリの散歩者たちを幼いサティも少なからず見ていたことでしょう。とにかく母を亡くした3人の子供たちのうちエリックと弟コンラッドの男兄弟が父方の祖父母の許に預けられることになったのです(英国教会で洗礼を受けていたエリックは、カトリックとして再洗礼を受ける)
サティはこの祖父母の許で公立小学校に通い寄宿舎に入ります(小学校は父母の住む家から300メートルと隔たっていなかったが寄宿舎生活は6年続く)。学校の成績はまったく凡庸、規律を守ることはなく、成績に関しては記述することはまるでなしの状態だったようです(第8年級の時、一度だけラテン語で一番になった)

孫のサティの「音楽好き」に気づいたのが祖父ジュールでした。少年サティは教会のパイプオルガンの虜になっていました。祖父は孫を「音楽学校」に入れます。その音楽学校の指導者が、(ニーダーマイヤー創立の古典宗教音楽学校の出身で)聖レオナルド教会のオルガン奏者であり聖歌隊長を務めていたヴィノーでした。
この学校は宗教音楽の教師の養成を目的としていて、地方の教会に聖歌隊長やオルガン演奏者を送り出していました(この音楽学校の影響であろう。サティは後に聖歌隊長になろうとし、また自身の教会を設立しようとしている)。ただ教師ヴィノーはプライヴェートともなれば「軽音楽」を演奏し、「ワルツ」を即興演奏し楽しむ人物だったようです。「秘教的」なものと「ポピュラー的なもの」。教師ヴィノーとサティとはほとんど2重映しとなります。

実際ワルツこそ、サティが作曲家として最初に繰り出した音楽だったのです。学校嫌いで独学者を貫いていたといわれるサティもこうした勉学の時代を過ごしていたのです。父のマニアックな音楽好きの環境でできあがった少年サティの「耳」はこうして耕かされ養われていったようです。

その一方、サティの「音楽の変わり者」の原因になる出来事が起こっていました。父が息子の同意もなく再婚したのです。相手は正統派の音楽をよくするコンセルヴァトワール出身のピアニストで、新たな家庭生活には少年サティの居る場所はありませんでした。サティの心の裡で嫌悪感だけがつのるばかり。

それは音楽の正統派コンセルヴァトワールに対する嫌悪の<転移>をともなうものだったようです。そして海運業者の株を整理した父アルフレッドが乗り出したのは、なんと「音楽講座」や「楽譜出版」の事業だったのです。
この父の新たな事業(とくに「楽譜出版」)が、独自の軌道を描いて音楽の世界に入り込んでいったサティの人生と交叉してくるのです。

居場所を見失った少年サティは読書へと逃げ込んでいたようですが、同時に「中世音楽」の知識を身につけはじめていました(繰り返しの音楽はこの中世の美学から発展させたものだった。「反復の音楽」は宗教音楽と同じ機能をはたすと言われる)

そして風変わりな詩人コンタミーヌ・ド・ラトゥールと出会います。このフロベールジョゼファン・ペラダン剽窃する神秘主義者とサティは波長が合い、共鳴しはじめるのです(2人は作品を共作しだす。またサティはこの詩人を通じペラダンと知り合い薔薇十字教団の聖歌隊長になっている)

一転、サティは嫌悪を抱いていたコンセルヴァトワールに通いつつも、最初の重要な作品(4つの「オジーヴ」)を作曲しはじめています。
グレゴリオ聖歌に熱中しノートルダム寺院で霊感を受け、フロベールヴィオレ・ル・デュクを読みこみ国立図書館で知識を養った日々の後、サティは詩人コンタミーヌと連れ立ってモンマルトルを徘徊しはじめます。

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モンマルトルの丘の麓に住み着き、一時期軍隊生活を送った後、21歳の年、有名なカフェ「黒猫」で第二ピアニストの職を得ています。この頃、作曲した「ワルツ・バレエ」が『家庭音楽』誌に掲載されています。「ジムノペディ」や「サラバンド」の想を練りはじめたのもこの頃でした(翌年ーサティ22歳の時、父アルフレッド・サティが『三つのジムノペディ』を出版。
さらに翌年『グノシエンヌ』と『四つのオジーヴ』を出版している。弟コンラッドがサティの音楽の最初の支持者でもあった。サティ音楽の最初の支持母体はサティ一家だった)

4歳年上のドビュッシーを魅了したのも、モンマルトルで雇われピアノ弾きとしてキャバレーをわたり歩いていたこの時期、そして少年だったモーリス・ラヴェル(『ボレロ』を作曲)と知り合っていきます。

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ちなみに「ジムノペディ」の人気は、ドビュッシーの名声と無関係ではないようです。「ジムノペディ」がより広く知られるようになったのは、ドビュッシーが自身のオーケストラによる「ジムノペディ」の編曲を好んで演奏していたためといわれています。

ピアノ弾きとしてキャバレーをわたり歩いていたサティ。グレゴリオ聖歌に熱中しフロベールヴィオレ・ル・デュクを読み込み霊感を得、「中世音楽」の知識を身につけたサティ。山高帽を被り髭を生やし魔法使いの弟子を演じたサティ。そんなサティの裡からしか、ジョン・ケージブライアン・イーノらの「環境音楽」にも大きな影響を与えたあのネオ・クラシカルで幻視的な「家具の音楽」は生まれ得なかったにちがいありません。

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「中世好きなサティと工業製品としての音楽の創始者ーその断絶は、一見そう見えるほど明白ではない…。事実は神秘主義的な作品も『家具の音楽』も、同じ効果を狙っているのだ。
 …じつを言えば『家具の音楽』は、散文的なものに適用された霊的技術にすぎず、日常的なものへの、ちょっとした実際的な魔術の一種、音の愛好家によって冷静に調節し直された古い魔術なのである」(『エリック・サティ』マルク・ブルデル著 アールヴィヴァン選書)

参考書籍:『エリック・サティ』マルク・ブルデル著 高橋悠治岩崎力訳 アールヴィヴァン選書 1984

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