靴屋の息子だったシェーンベルグ。両親は音楽が好きで自らも演奏していた。少年時代に家にあった「モーツァルトの伝記」を読み、音楽へのめり込む。父が死去、実科中学校を中退。家計が逼迫し16歳で銀行員に。仕事に耐え難くなり「音楽家になる!」と叫んだ
偏愛するシェーンベルクの作品を演奏するグレン・グールドとメニューイン
「十二音技法」を生み出し<現代音楽の巨匠>と呼ばれるアルノルト・シェーンベルク。調性の破棄と不協和音を徹底的に解放した革新者シェーンベルクは、じつのところ「私は急進派の人間とならざるをえないように仕向けられた保守的な人間です」と自身をみていました。新しい音楽の表現の可能性は、すべての音響の<均等化>を押し進めた結果であり、研ぎすまされた技法的なものからでなく、<内面の声>から「生成」されたものだったといいます。ドイツ=オーストリア音楽の伝統の道を歩んでいたと信じながらも、その伝統文化からはつねに拒絶にあいつづけました。それなのに保守的な人間だったとはどういうことなのでしょう。シェーンベルクの生涯を通して、「現代音楽」のはじまりの頃を少しのぞいてみましょう。
アルノルト・シェーンベルクは、1874年ヴィーンの第二区レオポルドスタッド(ユダヤ人の初期のゲットーがあった場所)に生まれています。ユダヤ人だった父ザムエル・シェーンベルクは、14歳の年にチェコスロヴァキアからヴィーンに出てきて商いの見習いをつづけ、プラハ生まれのユダヤ人パウリーネ・ナホトと結婚。結婚後は小さな靴店を構えています。シェーンベルクは靴屋の息子だったのです。暮らし向きは下層中流階級に共通するつつましやかでかたい家風、子供たちにはヴィーンの一般的な教育を受けさせています。シェーンベルクは両親のことや家のことについてほとんど語らなかったので、どの伝記でも幼少期は、極めてあっさりとしか描かれていません。後年になってもその姿勢は変わらず親しい友人にも、幼少の頃のことについて口を閉ざしたままだったといいます。そのことが音楽史に突如としてあらわれた才能、天から降ってきた者といったイメージを与えることになったようです。
両親はオーストリアに暮らす人々なら誰でもがそうであったであろう程度に歌を愛し楽しんでいたとされ、自分では芸術活動にたずさわってはいなかったと伝えられていますますが、父は若い頃に合唱団に入っていましたし、ある伝記(『シェーンベルク』シュトゥッケンシュミット著 音楽之友社)では、両親は自分でも演奏していたとさえています。それでも「音楽に関する限り、私の家の中には、神童たちが育てられた家のような熱狂といったものはなかった」とシェーンベルクは語っています。8歳の時ヴァイオリンを習いはじめ、同じ頃に曲をつくりだすと、両親や母方の叔父はアルノルトには音楽の才能があるのではないかと話題にするようになったといいます。シェーンベルク自身は「父はオーストリア人なら誰でももちあわせている音楽の才能をなんらかの点で凌いでいたとは決して言えない」とみていますが、シェーンベルク一族からアルノルト・シェーンベルク以外に2人も音楽界で活躍しているので音楽的環境が整っていなかったことは事実としても、”音楽的土壌”はそれなりにあったはずです。アルノルトの実の弟ハインリッヒ・シェーンベルクは、プラハのドイツ劇場のバス歌手として活躍していますし、母方の従兄弟ハンス・ナーホットはシェーンベルクの作品『グレの歌』の初演時ヴァルデマール王を歌っています。
また母方の叔父フリッツから少年シェーンベルクは、音楽を補完するようなさまざまな精神的な刺激を受けています。叔父はシラーの詩を朗読して聴かせたり叙情詩をつくるかとおもえばフランス語の手ほどきをしたりしています。物事に熱中する性格だった叔父は、少年シェーンベルクに物事に熱中して何かをつくることを植え付けたようです。
こうした環境にそだった少年シェーンベルクが、ある重要な本と出会っています。それはモーツァルトの『伝記』でした。調性を破壊したシェーンベルクと古典派音楽の代表格モーツァルト。いっけん奇妙な出会いに感じられます。「私は急進派の人間とならざるをえないように仕向けられた保守的な人間です」と語ったシェーンベルクの言葉が木霊します。そのモーツァルトの『伝記』は家にあったと言っていますから、父か母がかつて買い求めていたものだったはずです。となれば子供用のそれではなく当時の本格のモーツァルトの『伝記』だったにちがいありません。少年シェーンベルクはその伝記に刺激され、楽器を使わずにいろんな曲をつくりだしたと語っています(楽器を使わずと語っているので、ヴァイオリンを手にした8歳の時以前だった可能性がありますが確かな年はわかっていません)。
モーツァルトの『伝記』が心身に染み込んだ少年シェーンベルクは瞬く間に音楽へのめりこんでいきます。9歳の時、2つのヴァイオリンのための曲を作曲、ヴァイオリンの先生や従兄弟と一緒に弾いていた曲を模範にし、はやくも大きなスケールの曲をつくりだしています。ヴィオッティやブレイエルらの作曲家のヴァイオリン二重奏曲を弾けるまで腕があがると、そのスタイルをまずは徹底的に「真似」していきます。17歳以前までは身近に親しめた音楽をつねに真似たといいます(その頃ヴァイオリンのデュエットとオペラ曲を作曲の源としていて、それらをあれこれつなぎ合わせて2つのヴァイオリンのために編曲)。そしてフリードリッヒ・シラーの戯曲『群盗』を基にした交響詩(『群盗幻想曲』と名づけられた)をつくるほどになっていきます。
15歳の時、父が肺インフルエンザで死去。翌年シェーンベルクは実科中学校を中退、家の経済的必要性に迫られウィーンの民間銀行の社員となっています。ところが仕事はシェーンベルクにとってあまりにも耐えがたかったようです。「僕はもういやだ! もう会社になんか行かない。僕は音楽家になるんだ!」の一言はシェーンベルク家を激震させるに充分でした。親族会議でもまっとうな市民の道に戻るようにシェーンベルクをまるめこもうとします。しばらくするとその銀行が倒産。シェーンベルクはこれ幸いにすぐに銀行から退散しています。
シェーンベルク (大作曲家)
すっかり音楽に飢えていたシェーンベルクは21歳の時、ウィーン音楽院を出たばかりの若き指揮者ツェムリンスキーのオーケストラ「ポリヒムニア」の団員になります(音楽好きの学生が組織していたオーケストラ協会。当時はこうした楽団が町のあちこちにできていていた)。毎週1度集まりひたすら音楽を楽しむ、それが目的の小さなオーケストラでした。このツェムリンスキーからシェーンベルクは、作曲技術など無数の知識を得ています。ツェムリンスキーはシェーンベルクの最初にして唯一の音楽教師で、このツェムリンスキーがブラームスとヴァーグナーに魅了されていたこともあり、シェーンベルクもその2人の信奉者になります。またシェーンベルクは「絵画」への意識も高く展覧会を催すほどで(36歳の時。31歳頃から絵を描きだしている)、とりわけカンディンスキーとは同調するものが多く、和声学と<青騎士>派の新たな絵画の様式が響き合っていきます。関係が深かったゲストルスもエゴン・シーレもシェーンベルクの肖像を描いています。シェーンベルクの音楽と絵画はさらに興味つきないテーマで、興味をのばしたい方は『シェーンベルク/カンディンスキー 出会い:書簡・写真・記録』(土肥美夫訳 みすず書房 1985刊)にあたることをお薦めします。
▶Art Bird Books : Websiteへ「伝記station」 http://artbirdbook.com
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http://d.hatena.ne.jp/syncrokun2/
グレン・グールドといっしょにシェーンベルクを聴こう
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