伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

イサム・ノグチ(1):自分は母の<想像力>の落とし子?

「自分は、母の<想像力>の落とし子なのかもしれない。米国人の母レオニーから与えられた日本伝統文化という”ミルク”。最後の大仕事、札幌モレエ沼公園に結実するまで半世紀にわたって「遊園地」を理想の国として構想しつづけた理由とは。

世界に誇れる公園として観光の新名所として構想していた札幌市が、公園候補地の一つにあげたのがモエレ沼だった。当時モエレ沼は廃棄物最終処分場となっていたが、緑地公園化への方向性が打ち出されており、北海道という移民の地であり、三日月湖(かてつの豊平川の蛇行の跡が映像の冒頭で分かる)のある立地に魅了されたイサム・ノグチは一気に設計にとりかかったといいます。公園の中心には半世紀にわたって実現可能性を探っていた「遊び山」がもうけられました。その年の暮れにイサムは死去。84歳。17年後の2005年、モエレ公園はグランド・オープン

モエレ沼公園ウェブサイト:http://www.sapporo-park.or.jp/moere/index.php
イサム・ノグチ(上)——宿命の越境者 (講談社文庫)
イサム・ノグチ(上)——宿命の越境者 (講談社文庫)

「母は日本文化に深く傾倒していた。日本伝統文化という”ミルク”を、ぼくはあの時期に母からたっぷりとあたえられた。ぼくは、母の想像力の落とし子なのかもしれない。母は自分が感動した日本美をぼくに伝えようとした。そのなかでも、ぼくが母からしっかりと受け継いだのが、日本庭園への憧憬である」(『イサム・ノグチー宿命の越境者』ドウス昌代講談社

「母」とは映画『レオニー』(監督:松井久子 2010公開)でその波乱の生にスポットライトをあてられた米国人女性レオニー・ギルモアのことです。日本の伝統文化を息子イサムに与えたのは実父・野口米次郎でなく、米国人女性の母レオニーだった。そして母と息子は一緒に父の影しかない<日本の空間>で暮らした。
この事実はイサム・ノグチ(1904年11.17誕生)の「心の樹」にあまりに劇的な刻印を与えます。しかしその「心の樹」の”根っ子”は、一つ土地に”根”を下ろして育つことはありませんでした(2歳、あるいは3歳の時に母と共に日本に来て、13歳の時に一人アメリカに戻らされる)

後年イサム・ノグチのアーティストとしての”根”は、生まれ暮らした国や土地に限らないことがあきらかになります。20代半ばに知り合い永く付き合った、同じ波長をもつ才人バックミンスター・フラーが語った「宇宙船地球号」そのものにイサムは”根”を張っていったのです。アメリカ、ヨーロッパ、アジア(とくに東アジアとインド、さらには中東)、そしてメキシコとまさに「地球が庭」のごとき行動は(フラーに刺激を受けた「全地球的」視点だった。

「地球そのものが彫刻だ」というひらめきは1933年、29歳の時に生じたという)、芸術的ヴィジョンを実現させるための探求でした。そのヴィジョンはイサム・ノグチが洋の東と西の遺伝子をもったことの反照であり、引き裂かれた心の統合をはかろうとした結果でもあったようです。

その年の末に亡くなる84歳の年(1988年)に着手されることになった巨大な彫刻的風景としての<遊園地>ー札幌モレエ沼公園(死去時、未完)も、まさにイサムの心の奥深くにある断層を修正すると同時に、引き裂かれることのない”理想の国”を創造するものだったのです。モレエ沼公園とはイサムにとってどんな意味をもったものだったのでしょう。『イサム・ノグチー宿命の越境者』ドウス昌代著)は生前のイサムの言葉をひろってその解を出しています。その巨大な公園を走り回るのは訪れる子供たちではなくイサム自身だったと。

「私にとって遊園地は、ひとつの世界を作りだすことを意味する。いわば理想の国を、縮小した形で建設することなのだ。それは、子供の背丈で、駆け回れる国である……幼い子供が楽しむ普通のもろもろのものを、ぼくは与えられずにきた。…一カ所に定住し、落ちついて一貫した教育を受けられなかったことで、逆に、ぼくは既成概念に洗脳されず、子供の世界へも自由にもどっていくことができるのかもしれない。頭のなかで自分の体を三センチほどに縮小して、模型の遊び場のなかを走り回ることができる」(『イサム・ノグチー宿命の越境者』下巻 p334)

これが、子供のいないイサムにとって、また周りからはイサムは子供好きだとはおもわれていなかったイサムにとって、巨大な<遊園地>を創造した意味だったのです。遊園地の核にある「遊び山ーPlay Maountain」は、半世紀にわたり実現の可能性を密かに探っていたものだったのです(もう一つ実現に向け執念を燃やし続けたのが「原爆慰霊碑ー世界平和モニュメント」)
北海道札幌郊外をはじめて訪れたイサムは、札幌の街並にアメリカを感じ(実際、明治初期にアメリカ人技師によって設計された)、日本の中の”移民地”であった北海道は、イサムの原風景と重なるものがあったようです。


www.youtube.com

同時にその巨大な公園にイサムは「全体をひとつの彫刻とみなし、<宇宙の庭>になるような公園」の可能性をみてとったといいます。「空間を彫刻」するヴィジョンの一粒の”種”は、子供時代に宿ったとしても、その”種”は、どのように発芽していったのでしょう。映画『レオニー』で、物語の時々に挿入される巨きな石を削る異質の彫刻家イサム・ノグチ(キャストは勅使河原三郎)になるまでの”アイノコ”の少年イサムの生涯は、母レオニー、そして詩人の父・野口米次郎の波乱万丈の生涯をさらに複雑多面に極めたようなものと化していきます。
以下に、イサム・ノグチのおおまかな動きと好奇心のうごめきをあげてみます。

14歳の時、日本からひとりアメリカ・インディアナ州にあるスクールに送られた後の事象です。通学するスクールが閉鎖されラムリー氏が父代わりとなり別の高校に入学。アメリカで通学していたスクールの校長の斡旋で彫刻家のアシスタントに。19歳、母レオニーと妹とニューヨークで同居。
コロンビア大学医学部で医学生だった時、知遇を得た野口英世に芸術の道について激励され、通っていた夜間のレオナルド・ダ・ヴィンチ・アート・スクールの校長にも励まされ彫刻家になろうと決意(芸術は国境を取り払うことができるという母の教えが木霊しつづけていた)

アート・スクールのロビーで催された初個展で「イサム・ノグチ」と名乗る(それまではイサム・ギルモア)。アルフレッド・スティーグリッツのギャラリー「American Place」などをみてまわり、ブランクーシの彫刻に魅了される。ニューヨークの日本人舞踏家・伊藤道郎と仕事をともにし(仮面など制作。21歳)、パリでは彫刻家ブランクーシのアシスタントとなり石の彫刻に目覚め(23歳)、ダンサーのマーサ・グラハムとの深い交流(22回に及ぶ舞台制作)バックミンスター・フラーとの全幅的な交流(終生熱烈な個人主義者だったこと、またアメリカとの鉾はフラーを通してつながっていた)、アーシル・ゴーキーとの仲とプリミティブ彫刻。

27歳の時、12年ぶりに父と再会。京都に滞在し「日本庭園」に魅了される。日系人強制収容所での志願拘留ユートピア的環境作品を制作する目的)、「ノグチ・テーブル」を制作イームズ夫妻を見出したハーマン・ミラー社のジョージ・ネルソンからの依頼)。古代文化・考古学的関心「季節のピラミッド」構想。「遊び場」への関心(禅の芸術論)ー遊園地としての「遊び山」を設計しはじめる。メキシコ滞在など費用を捻出するため肖像彫刻を数多く制作。メキシコの壁画アーティストのオロスコやロシアのダヴィッド・ブルリュークへの関心。ニューヨーク万博フォード自動車やAP通信社のコンペで入選(最初の噴水制作)。山口淑子李香蘭との結婚やフリーダ・カーロアナイス・ニンらとのアヴァンチュール(とにかく数多くの美女と不倫や情事を楽しんでいる。実父の野口米次郎のDNAだろう。とにかく惚れやすい)

そして毎年のインド訪問、イギリスやフランスの先史時代の洞窟やバリ島への関心、インドネシア・ジャワ島のボロブドゥール遺跡で上ることの重要性を体感。和風の照明「Akari」の制作、雪舟良寛芭蕉デュシャンについて(長谷川三郎らとの旅や会話)
ユネスコ・プロジェクト。ジョセフ・キャンベルの起源神話やプレ・ジャパン(縄文)雅楽、ハワイへの関心、さらには鎌倉で魯山人に陶芸を学び、広島平和記念公園のモニュメントに選ばれアメリカ側の人間ということで最終的に外され丹下健三の推挙で氏が設計した「原爆慰霊碑」に活かされた)、広場の彫刻や噴水制作(広場の設計へ)香川県牟礼町にアトリエを構え、大阪万博で噴水を制作、勅使河原宏武満徹との交流。

アトリエを構えていたニューヨークのロングアイランドイサム・ノグチ「ガーデン・ミュージアム」がつくられ、土門拳記念館の庭園や草月会館内の天国、札幌モレエ沼公園の計画に取り組んでいた折りに死去(1988年、84歳)しています。死後にもかつてアトリエのあった香川県牟礼に「イサム・ノグチ庭園美術館」がオープン(1999年)、アースワークとしてのモレエ沼公園が2004年に完成し多くの人々を迎え入れています。

これですらイサム・ノグチという大樹の一姿にしか過ぎません。イサム・ノグチの伝記映画をつくるとなるとインドの映画監督サタジット・レイが制作した『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』の3つのシリーズとなってようやく少しはかたちになるのではというほどの波瀾の生涯です。
イサム・ノグチ(2)に続く:

参考書籍:『イサム・ノグチー宿命の越境者』上・下巻 ドウス昌代講談社/『評伝イサム・ノグチ』ドーレ・アシュトン著 笹谷純雄訳 白水社 1997刊