セザンヌ:「近代絵画の父」の源流へ(2)
感受性が強く、臆病ではにかみや、性格が弱かったが、時にわけもなく怒り出す、烈しい気質を秘めた少年だった。得意だった絵は学校では評価されず。エミール・ゾラらと「三人組」と呼ばれ、詩を読みながらプロヴァンスを散策する日々。パリでは落選
▶(1)からの続き:19世紀半ば飢饉がつづくなか父ルイ・オーギュストの銀行業は金利を吸収しつづけましたが、つねに倹約を強いるセザンヌ家には贅沢な生活はありません。少年セザンヌは寄宿生として小学校に入学しています。この頃になると、後のセザンヌの「気質」が見事にあらわれだします。「病的なほど鋭い感受性をもっていたので騒々しいと同時に臆病だったり、無関心なのかと思うと熱中してみたり、はにかみ屋かと思うと親しみ深かったり」と振り子の様な気質でした。そうした気質は、「人や物事など、外からの影響をあまりに受けやすい」「あまりにも気が変わりやすい」という性格を生み出し、教師からは「性格が弱い」と映っていました。
とにかく男子生徒にしては「闘争的なところ」がほとんどなく、ムキになってもすぐに譲歩するのがふつうで、時折、突然頑固になりわけもなく怒り出し強情を張れば周りを驚かせたようです。不可解な怒りの奔出は、烈しい気性がその心根にあることを予感させはしましたが。幼少期は「性格」だけで判断してしまわないようにしなくてはいけません。「気質=気性」こそが、その奥で発露しはじめているのですから。
この小学校にはデッサンを教えるスペイン人の修行僧がいました。5歳からデッサン遊びをしてきた少年セザンヌはこの授業が大好きになります(空想に耽り易い気質の母は、息子ポールが将来、偉大な芸術家になると断言していた)。厳しい父もそんな息子に、古道具のなかに偶然水彩絵具箱を見つけた時、息子ポールが喜ぶだろうと家に持ち帰ったのでした(銀行家の父は、時に古物や傷んだ品物を買ってはまた高く売ったりと利益を出すものには目がなかった)。
少年セザンヌは、家で定期的に購入されていた「マガザン・ピトレスク」誌の挿し絵に、水彩絵具で夢中に色を塗りだしています。学校の成績はよかったのですが、それは天賦の能力などでなく着実な勉強の成果だったようで、決して神童と呼ばれるような生徒ではありませんでした。
13歳、少年セザンヌは良家の子弟が通うブルボン中学校に入学(ここでも寄宿生だった)。まだ過去が生きていたプロヴァンスゆえ、ロマンチックな過去を扱う歴史ややラテン語作文は他の学科よりも興味は湧いたようですが、それほど好きでない算術と同じ熱心さで規則正しく取り組んだといいます(血は争えず算術の成績は優秀)。ただこの頃、大人になるまでずっと続くことになる接触恐怖症にかかってしまうのです(他人からの接触に恐怖を感じる症状。学校である少年がしでかした悪戯から)。
少年セザンヌは2学年下のエミール・ゾラと友達になるまで、ずっと除け者扱いされていたといいます。銀行業で兎皮商人から成り上がった父でしたが、エクスのブルジョア達からは受け入れられず、それが子供たちの世界でも同様の扱いだったのです。父は妬みや恨みの火の粉を気持ちで払いのけていましたが少年セザンヌにとっては学校は過酷な現実で、「人生というものは恐ろしい」という思いを撥ね除けることはできなかったようです。ために友人たちの前では自然に振る舞えず、つねに臆病になりくすんでいました。自尊心が傷つけられた時だけ時々荒々しく爆発したようです(少年時代のことは、アンリ・ペリュショ著『セザンヌ』みすず書房が、厖大な資料をベースに見事に描き出している)。
2学年下のエミール・ゾラ(年齢的にはセザンヌより1歳年下)もまたほとんどの生徒から敵意の的になっていました。少年ゾラは近眼でおかしなアクセントをした貧乏な「パリっ子」でした(ゾラの父は技師でヨーロッパで最初の鉄道建設の一つに加わり、パリで陸上輸送の機械を発明し、エクスでダムと運河を造ったが破産していた)。
セザンヌはそんなゾラに同情し話しかけたのです。セザンヌに助けられたゾラは感謝の印に林檎籠をセザンヌの家に持っていき、2人の間に強い友情が芽生えました(後のセザンヌの林檎のモチーフには、親友ゾラとの友情が込められていたとも言われる。ゾラはセザンヌの友情に助けられ勉強に熱を入れ最優秀賞をとるまでになり、歴史小説を書こうと企てるまでになっていく)。2人で大冒険小説を大量に読み印象を語りあったり2人して郊外を巡り歩くようになっていきます。そこに第三の仲間として2歳年下のバイユ(後に理工科学校ーエコール・ポリテクニクの教授になる)がくわわります。
少年セザンヌとゾラとバイユは、いつも一緒で「三人組」と呼ばれるようになります。この三人組は学校ではかなり孤立していましたが、3人とも古い修道院が醸し出す陰気な校舎よりも戸外の空気と光に包まれているのが好きでした。
「詩人の魂」をもった3人は、同じ書物を読み、同じ夢想に陶酔し、同じ行動をとりつづけました。スケッチブックを持ちリュックサックを背負いオリーブや松の木、糸杉の生えた重なりあうエクスの丘を上り、ユーゴーやミュッセ、ラマルティーヌの本をもって大声で朗読して歩き、アルク川では水遊びをし(後に作品「水浴の男たち」に描かれる)、絶えず散策を繰り返しました。日曜日になれば葡萄畑を抜け、光と影が織りなす小径や田園のなかへ渓谷へと入りこみ、石切り場やゾラの父が設計したダムへ、そして「サント・ヴィクトワール山」の麓に行き、石灰岩がつきでた山腹をよじ登ったりしたのです。そんな3人組にとっては町中は色褪せてみえました。3人はカフェを軽蔑し、街路すら忌み嫌い、金銭は憎しみの対象でしかありませんでした。
この時期、少年セザンヌが魅了されていたのは一番にはラテン詩で、1時間ぶっとおしで詩を書きつづけることができたといいます。ウェルギリウスやアルフレッド・ド・ヴィニーやヘラクレスの詩や古典文学がセザンヌの心をとらえていました。一方で、気持ちはかなり不安定で、物事への熱中と意気消沈が繰り返し襲ってきたようです。消沈すると「僕の未来の空は真っ暗だ」と叫んぶことがあったといいます。16歳の時、得意だったデッサンの授業で、バイユは一等賞、ゾラは二等賞をとるほどでしたが、セザンヌはどんな賞状もとることはなかったのです。
後に「近代絵画の父」とも言われるセザンヌでしたが、学校の絵画の授業ではさっぱりだったのです(学校の美術の授業では、とかく模写が上手いほど高評価に)。5歳の時には上手だと言われつづけた絵でしたが、気づけば友達よりも劣るようになっていました。もっとデッサンがうまくなるようにとおもったのでしょう。セザンヌはエクスの小さな美術館となった古い修道院に付設されたデッサン学校で無料で催されていた夜の講義に通いだしたのです。そこで芸術的職業をめざす若者たちと知り合い刺激を受けています。そして10代後半、「三人組」も別れの時がきます。
ゾラ18歳の時、生まれ故郷のパリへ。書店の配送部で働きながら印象派の絵画を擁護する評論を書きだす。後に実験小説や自然主義文学と呼ばれることになる作品を生み出していくことに。第二帝政時代のルーゴン・マッカール家の運命を描いた『ルーゴン・マッカール叢書』全20巻や(36歳時の作品『居酒屋』や39歳時に著した『ナナ』はそのシリーズ中の作品)や映画『嘆きのテレーズ』(マレーネ・デートリッヒ主演)の原作『テレーズ・ラカン』(27歳時の作品)など膨大な作品を著していった。46歳の時に出版された『ルーゴン・マッカール叢書』の1冊『制作』で、セザンヌに見立てた画家を自殺させ、それが引き金となり長い友情にあった2人は決別。
セザンヌには非凡な「記憶力」があったといわれています。実際に直接見学したことも旅をしたこともなかったがヨーロッパ中の美術館に精通し、どの絵がどこから来たとか、どこの美術館やギャラリーで「写し(レプリカ)」が見られるとかすべて知っていた。読書は自分の裡に深く埋め刻みこんでいくように非常にゆっくりとした速度だったという。
Paul Cezanne: 1839-1906: Nature into Art (Big Art)
さてセザンヌですが、パリに出たゾラと文通を重ねながら、セザンヌは意志に反しながらも父の強制で地元エクス大学の法科に入学します。
一方で、絵を諦めきれないセザンヌはエクスでデッサンの授業を受けつづけ、22歳の時にとうとう法律の勉学を放棄、パリに出てゾラとあちこちのサロンやルーブル美術館などを訪れた後、参加費を払ってモデルを描けるアカデミー・スイスに通いだします(後に大きな影響を受けるピサロと知り合う)。が、この時は成果がみえず落胆しエクスに戻り、父の銀行で働くことに。翌年、銀行を辞め、再び絵に向かいます(最低限の生活費は父がもつことに。23歳の時)。再度パリへ。が、国立美術学校の入学試験は失敗。ルーブルなどで巨匠の作品を模写しつづけ、絵画を制作しつづけますが落選がつづきます。
それから11年後、タンギー親爺の画材店(セザンヌはここでかなりの借金を膨らませていた)に出入りし店内に若手の作品が陳列され、翌年1873年(35歳)、ピサロに支持され第一回「印象派」展(発明家で写真家でもあったナダールの邸宅で開催)へ出品することに。「首吊りの家」などが出品されますが、後に印象派との交流は途絶えていきます(「光」をとらえんがためにそれ以外の一切を犠牲にした印象派に対し、セザンヌは光の分析は重視しながらも、「大地」とつながっている「現実」のさまざまな要素が一つの全体として融合している様をとらえようとしていた。「色であって形でもある絵具の置き方」はその考えから生み出された)。そして39歳の時、ずっと内緒にしていたモデルだったオルタンス・フィケとの交際と生まれた子供のことが発覚。父との確執が生じ父が亡くなるまで47歳まで経済的に困窮状態がつづきます。
セザンヌが、身体的にも精神的にも帰る先は、光と影が綾なすプロヴァンスの生地だったことは重要です。パリの近郊で古い公園に立ち並んでいる繊細に木々のある風景や川べりの粘土質の土手では、セザンヌの想像力が放たれることはありませんでした。セザンヌの「心の樹」に木霊(こだま)することはなかったのです。「全体が同時に生じてこなかった」のです。都会パリではセザンヌは”根なし草”のようになってしまうばかりでした。幼少期からセザンヌと連れ立って歩いていたのは、エクスの光と影が織りなす小径であり、アルク川の丘陵やオリーブや松の木であり、トローネの赤い土壌やサント・ヴィクトワールの青味がかった姿であり、プロヴァンスの青い空気だったのです。
「自然は表面にはない。深さにある。色彩は表面にありながら、深さの表現である。色彩は世界の根から立ち昇ってくる。世界の生命であり、思想の生命である。デッサンはというと、それはまったくの抽象なのだ。それゆえに、デッサンはけっして色彩と分けられない」(ポール・セザンヌ)
「色彩」の深さー世界の<根>につながっているーを再発見させてくれたのは、セザンヌの生地プロヴァンスでした。そこは「世界の根」であるとともに、「自身の根」が深く張った場所でもありました。そしておそらくはセザンヌの「色彩」は、自身の気質が生まれ出てくるところと分離しえないような、<心根>の奥深くから”照射”されでてくるものでもあったにちがいありません。最後に詩人ジョアシャン・ガスケとの対話で語ったセザンヌの言葉。
「われわれのプロヴァンス、私の想像するようなギリシア、イタリアといった古典的な偉大な国では、光が精神性をもって、風景は鋭い知性のかすかな笑みとなっている……。われわれの国の大気の繊細さは、われわれの精神の繊細さと結びついている。それらは互いのうちに互いがある。色彩は、われわれの頭脳と宇宙が出会う場だ。だから、色彩は真の画家たちにまったく劇的なものとして現れるのだ。
……風景をうまく描くには、私はまず地質学上の地層を見つけなければならない」(ポール・セザンヌ 詩人ジョアシャン・ガスケとの対話より)
参考書籍:『セザンヌ』ジョワシャン・ガスケ著 輿謝野文子訳 求龍堂 昭和55年刊/『セザンヌ』アンリ・ペリュショ著ーHenri Perruchot みすず書房/『ポール・セザンヌーサント・ヴィクトワール山』ゴットフリート・ベーム著 三元社/ 『セザンヌ物語』吉田秀和著 中央公論社/『世界伝記双書 セザンヌ』アンリ・ギユマン、アンリ・ペリュショ、ピエール・カバンヌ他著 小学館 昭和59年刊
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