田中一光(2):幼少期の松竹少女歌劇(OSK)体験
幼少期の松竹少女歌劇(OSK)体験が一光を「演劇」好きに。小学校高学年で「園芸」にはまる。京都での美術専門学校では図面を引く才能もなく芝居に熱中。鐘紡の意匠室をクビになり大阪産経新聞の事業部へ。「能」のポスター制作との出会い
(1)からの続き:
こんなひとり遊びをする少年はそうはいないのではないでしょうか。しかも後の「グラフィック・デザイナー」「アート・ディレクター」の田中一光を予感させるようなひとり遊びです。
けれども皆さんにも心当りがあるように、子供は皆それぞれ大人は決してやらない、また予想つかない意外で複雑なひとり遊びをしているはずです。
自身の子供時代を思い出してみて下さい(かなりの確率で今の自分を彷彿とさせることに夢中になっているはず)。
「伝記ステーション」で多くの偉人たちの「マインド・ツリー(「心の樹」)」を制作していると、どんな「一人遊び」をしていた子供だったのかが、予想以上に重要なことに気づかされるのです(後にクリエイティブな仕事に携わる者は、必ず少年・少女時代の体験や記憶、感性が無意識の土壌のなかに無尽の<球根>となって蓄積されている)。
一光少年の場合、さらに(幼少期から青年期にいたるまで永続的に)魅了されつづけたものがあったのです。「グラフィック・デザイン」とそれは、太い”根”でつながっていくのでした。
似顔絵や映画以上に一光少年を虜にしたものとは何だったのでしょう。
「少女趣味」「似顔絵書き」「映画狂」の他に、またそれ以上に、田中一光少年が魅了されつづけていたものがありました。「芝居」でした。
最初に芝居を観たのは、物心つく前からのことで、親に連れられ大阪の道頓堀での体験だったといいます。当時宝塚と人気を二分する松竹少女歌劇(OSK)がそれで、一光少年にとって遊園地や動物園より、きらびやかなレビューこそがわくわくする空間になったのです。
どれほど魅了されていたかといえば、少し後のことになりますが15歳の時の終戦1カ月後、戦後初の大阪の舞台公演がおこなわれると聞きつけ、居ても立ってもいられず、途中まで電車で行き焼け野原になった大阪を一人歩きつづけ、道頓堀に「娘道成寺」を観に行っているほどです(5、6個の裸電球が煤けた劇場内を灯しての上演だった)。
とにかく小学生で、ひとり電車に乗って観劇に行ったというのですから、相当に変わった少年だったことは間違いありません。
www.youtube.com
小学生時代の一光少年の関心と感性の”根”はこれだけに終わりません。小学校の高学年になって「園芸」の世界にもはまり込んでいきます。
母がとっていた『主婦の友』や『婦人倶楽部』の別冊「趣味の家庭園芸」を参考に、当時まだ珍しかったスイートピーやヒヤシンスを育てだしたのです。学校から帰宅し裏庭の畑に直行すると堆肥をつくったり除草したり消毒もしたといいます。
その延長で中学の奈良県立商業時代には、農業学校の校長の息子と友達になりその家で育てていた珍しい品種の水仙などにぞっこんになっています。中学に入ると作文が得意になります。夏目漱石などを生徒たちに読んで聞かせてくれた先生はいつも作文の時間に一光少年の作文をとりあげ読み上げたほどでした(英語は苦手で習いに行っていた)。
中学最終年、この頃、一光少年の心の裡では美術が好きだとか得意だいう意識はまったくなかったといいますが(描写力がなかったという)、絵画の成績はよく絵画の先生から美術学校を薦められます。終戦の翌年の春、一光少年は京都市立美術専門学校(1880年創設。
文明開化で危機に瀕した伝統芸能・地場産業を立て直すために市民の熱意で創立された美術家養成学校。京都画壇の中心地だったことも。現・京都芸術大学)の図案科を受験、合格します(美術では食えないが図案科ならつぶしがきくと親が入学を認めた)。
ところが授業は苦手なものばかりだということに気づかされるのです。図面も上手く引けず(工作も下手でプロのデザイナーとして活躍する頃でも釘一本上手に打てなかったという)、専攻の「染色」では、蠟けつ染めの屏風などを制作するのですが、蒔絵の手箱の「模写」が単調で辛いばかり。見たままを「真似る」ことが”性根”に合っていなかったのです(生徒の多くは父が日本画家や陶芸作家だったりで「模写」の重要性を肌身で理解しているようだったという)。
歌手や芝居の「物真似」好きと「模写」は一光少年にとってまったく別物だったようで、自分は実家の商売が性に合っているのではとおもったといいます。
この悩んだ美術専門学校時代に、生来の「芝居好き」が一光を救い上げるのです。入学直後に演劇部のアトリエ座に入部していましたが、その演劇活動が一光の生き甲斐になります(美術学校の演劇部のため、舞台美術の制作が晴れ舞台で新入生は役者をした。木下順二の「夕鶴」を初演、絶賛され地方巡業までした)。
ただ先輩たちのように舞台美術をやりたいという気持ちはあまりなく、といってポスター制作もほとんどしていません。では何をしていたか。自身は文字もきちんと描けなかったので、他のスタッフに「こんな感じにつくって」とアートディレクション(AD)的な役割をしていたそうです。
この頃には宝塚レビューや梅田の北野劇場にいりびたりになり、俳優座や文学座、民芸の新劇やバレエに心を奪われていきます。こんな演劇青年がどうして「グラフィック・デザイン」に向うことになったのでしょう。そしてなぜそれをなしえることができたのか。
20歳の時(1950年)、美術学校を卒業した一光は大阪の鐘淵紡績に就職しています(この時期、就職難だったが当時最も景気のよい紡績会社に入社。奇跡的だったという)。
それから13年後の1963年に独立するまで、田中一光にとって怒濤の時期となります。いってみれば幾本もの太根から樹幹が立ち上がり伸びていく時期にあたるわけですが、その”成長”の過程からは、後の見事なポスターのように、自らの人生というものは定規で線を引くように、うまく”デザイン”できるようなものではなかったことがみてとれます。一光が得意だったようにまさに”手書き”の20代でした。
田中一光(3)へ続く: