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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

尾崎豊(2):9歳の時にあらわれていた奇妙な「悟り感」

9歳の時にあらわれていた奇妙な「悟り感」。両親の希望にそって「医師」か「弁護士」になると言って安心させる一方、「ギター」にのめり込んでいく。社交的な母は、家の中では驚くほどに「悲観的」な気持ちに苛まされる。母の「不安感」に父の「思索好き」が尾崎のなかで化学反応をおこす

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尾崎豊(1)からの続き:span class="deco" style="color:#330099;font-size:medium;">尾崎豊の愛読書の1冊だった『共同幻想論』の著者・吉本隆明は、尾崎豊の歌詞には、五七五七七、五七七などの短歌や詩の影響がある、と語っています(『尾崎豊 永遠の愛と孤独』Gakken p.68。最も最初のラッパーじゃないの、という人もいます。その真は皆さん各自に詩にあたっていただくのがよいでしょう)

さしあたり尾崎豊の音楽と歌詞(言葉)とは切り離すことができないことは誰もが共通に感じることだとおもいます。また前掲の豊少年の短歌は奥多摩の山から下る様子を歌ったものですが、この写実主義的な短歌は、「実相に観入して写生をおこなう(=実相観入)アララギ派の歌風で、まさに父は「写実的で生活密着的」な歌風をこよなく愛していました(父・尾崎健一は、アララギ派の頂点正岡子規門下の齋藤茂吉の高弟の直弟子であり、結社「表現」の主宰者・蟻幾造に付いて、15、6歳の頃より熱心に短歌を習っていた。当初は石川啄木調の短歌をつくっていた父の兄の影響からだったという)。 


「写実的で生活密着的」な歌風、そしてアララギ的「実相観入」は、まさに尾崎豊・曲「15の夜」の表現そのものといってもいいかもしれません。

「落書きの教科書と 外ばかり見てる俺 
 超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
 やり場のない気持ちの扉破りたい
 校舎の裏 煙草をふかして 見つかれば逃げ場もない
 しゃがんでかたまり背を向けながら 
 心のひとつも解りあえない 大人達をにらむ
 そして仲間達は今夜 家出の計画をたてる
 とにかくもう学校や家には 帰りたくない
 自分の存在がなんなのかさえ 解らず震えている 15の夜 ……」
             尾崎豊・曲「15の夜」より)


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こと「表現」においては興味深いものがあります。「短歌」の世界に入り込み、その創作に慣れるということは、<自分の瞳と心>に映り込んだものまさに歌いあげること、それこそが肝要になるため、少年期の「短歌」の継続的創作は創る者の心に強く作用しつづけるということです。

尾崎豊のすべての歌詞が、自分の眼と心に映じたものでしかありえなかったことと、おそらくは繋がっていきます。さらにいえば尾崎豊が描いた小説(『誰かのクラクション』『普通の愛』『LOVE WAY』など)の主人公のすべてが尾崎自身を投影した存在であったこととも無関係ではないでしょう(ある意味、その視点の移動の不可能さが、精神のバランスを失った時に、それがすべて歌に反映されざるをえず、「壊れた扉」を通って脱出することができなくなったとも考えられる)

「若者は拳ふりあげ共に歌うロックコンサート我もその一人」
「じんじんとドラムの音は身に響く絶叫の如し吾子の歌声」

ロックコンサートの光景を歌ったこの「短歌」の歌い手は誰か。歌われているのは尾崎豊です。
ということは歌の主は無論尾崎豊ではありません。父でもありません。なんと尾崎豊の母・尾崎絹枝の歌なのです(『尾崎豊 目覚めゆく魂ー母と子の物語』春秋社)尾崎家は想像以上に「短歌」の「家」だったのです

母絹枝は、若い頃は実家のある飛騨高山で素人演劇グループ(地方予選を勝ち抜いて東京まで遠征したという)に参加する一方、俳句の会にも所属し賞をとるほどだったといいます(俳号は絹女。後に名古屋川柳会にも入会)

「短歌」や民謡(いろんな大会に出場)をはじめたのは埼玉に来てからのようですが、かなりの数の作品をのこしているといいます。
また仲間うちでは母はエンターテイナーだったといわれ、つねにステージは母にとってもワクワクする場所だったようです。
確かに「短歌」を歌う家庭は、今日よりは多かったことは確かで、必ずしも尾崎家特有というわけではありませんが、少なくとも少年尾崎の言葉への感性を研ぎすませたことはまちないないでしょう(ちなみに尾崎家では父も母も豊自身も「日記」を付けている。両親が短歌を歌い、日記を付け、またその子も同じようにする。そんな家庭は今どのくらいあるのでしょうか。観念的、思索的だった父との語らいにくわえ、そうした環境は、少年尾崎の「言葉」への感性をいやがおうにも研ぎすまさざおえなかった、といえるかもしれません)

ロック・アーチスト「尾崎豊」が9歳の時に将来なりたいもののことを次のように日記に書き記しています。

「大きくなったら尺八と躰道の先生になり、市ヶ谷自衛隊へ行き、三番隊長になることが希望だ」(『尾崎豊 少年時代』尾崎健一著 角川文庫 p.88 昭和49年3月21日、尾崎豊9歳の時の日記より)

「尺八の先生」と「躰道の先生」と「自衛隊の三番隊長」のどれかではなく、そのどれもになることが9歳の少年尾崎の希望(夢)でした。「自衛隊の三番隊長」とは自衛官だった父を豊少年がイメージしたものだったようです(父は太平洋戦争による飛騨高山の実家から上京する前は農林省の公務員だったが、豊が生まれた頃は自衛官だった。通常、尾崎豊は練馬誕生とあるが、産声をあげたのは世田谷区池尻大橋と三宿の南方、世田谷公園脇にある自衛隊中央病院。その頃町田から市ヶ谷駐屯地に通っていたが産後の母と豊が退院後、一家は練馬区春日町の6畳2間の都営住宅へ移り住む)。要するに9歳の時の少年尾崎の夢の3つともが父健一氏がやっていたことだったのです。この時期、まだ体調を崩して学校を休めば母に添い寝してもらっているので、子供らしい子供ともいえますが、先の日記のわずか1カ月後に次のように日記に記しているのを知った時、ちょっと背筋が寒くなるのは私だけではないでしょう。

「おまえの今日の思い出は、こうして書いておかなければ何も残らないであろう。といって、今日、格別のことが起こったわけではない。ごく平凡な日曜日は、しかしながら極めて平和で人間的な一日であったともいえよう。朝五時、兄ちゃんが躰道出場のため早起きして、その音でわりに早く目が覚めた。起きて、顔を洗わず、歯を磨かず、食す……『マジンガーZ』を見て、入浴して、早く寝る。明日は母と兄と僕でマザー牧場へ行くので、朝早いのだ。……さて、僕はいまのところ何になるのかと言われれば、躰道の先生と自衛隊の三番隊長と尺八の先生になりたいと言うことにしている」(『尾崎豊 少年時代』尾崎健一著 角川文庫 p.90 昭和49年4月28日、尾崎豊9歳の時の日記より)

9歳にしてのこの悟り感はどうだろう(別人格なのではというほどの)。自分を突き放し客観的に自身をみているだけでなく、このわずか1カ月後に、「希望」と記していた「尺八の先生」と「躰道の先生」と「自衛隊の三番隊長」は、「希望と言うことにしている」と本音を露にしている(ただデビュー以降に、2階を躰道の道場に、1階を兄の学習塾とする建物をつくりたいという希望が実際にあった。父にそうした物件を探してもらおうと要望もしている)
この時期から2、3年後の次の中学1年の時の日記を以下にあげてみます。

「午後、全科にわたって父の指導あり。後、ギター練習(テープレコーダー使用)。さて、本年より練東中1年生。中学生の自覚にもようやく目覚め、中間試験には平均約八十点の好レコードをつくった。目下、余暇はギターの練習に凝っている。塾にも喜んで通っている。できれば七月にはAクラスに進みたいものだ(現在Bクラス)。将来はよく決めていないが、両親には医師か弁護士になると言って安心させることにしている。ラジオのアナウンサーにもなりたいと思っている」

ギター弾き語り 尾崎豊 Songbook

この時期には、「医師」か「弁護士」が両親の希望だったようで、「勘」の鋭い少年尾崎は、表面的にはそう取り繕って両親を安心させておいたのでしょう。じつは父・健一氏の著作ではあまり描かれていませんが、兄・尾崎康氏の著書(『弟・尾崎豊の愛と死』講談社には、母は父とは対極的に怒り出したら恐ろしいほどの剣幕で、息子たちに厳しく接していたようです(外では外向的で快活な母は、家では内攻的になり、不安になり自身を苛み、悲観的になり、勢い時にヒステリックになるほど)。母の気象・気質・性格は、兄よりも弟・豊に受け継がれたようです。尾崎豊の「心の樹」は、尾崎ファミリーそれぞれと強く重なりながらも、とくに母親と最も深く重なっていたとおもわれます。母の死後4カ月後に尾崎豊が突然不慮の死を遂げたのも母の死と決して無縁ではないと父や兄は考えているようです。
母はどんな心情を持ったひとだったのでしょう。息子豊が高校を停学するようになった時の母の日記からその一端が伺えます。

「毎日毎日心の重い日が続く。朝起きると、大きく不安が広がる。心の重さは仕事を何倍もの重さにする。疲れる。身も心も疲れ果てるのに眠れない。これが地獄の辛さかと思う。私の性格でもあろう。業が深いことだ。豊をにくむ気になれない。母親の業なのだ。可愛さあまってか、自分が辛いのだ。学校なんか、中退でもいいのではないか。豊には豊のこれからの人生がある。中退だから不幸になると考える必要はない。しかし。教養人として、よりよく世の中で生きる為に、私は(親として)学校を出したい。私の考えは間違っているだろうか……」

「毎日毎日、日誌だけをつけさせて、教育を放棄しているのではないか。そもそも停学とは教育の放棄ではないのか。悪い事をしたからと学校から放逐して家庭におしつける。そして子供も親も苦しみのどん底に落とし込む。希望を与えないでおいて、日誌をつけさせる。…そしてまたある日突然、訪問をうける。復学の望みは、またもたたれる。こうした繰り返しの停学三ヶ月の豊や私の苦しみ、悲しみを先生方は考えたことがありますか……」

「豊。とうとう三学年の文化祭に参加できなかった。逃げ出したいと思い、かくれたいと思い、この世から消えたいと思いながら、不安におののく日々の何と多かったことか。もっともっと極悪非道の子に泣く親もあることだろうと思うが、私には私なりの性格からくる悲しさがあった。親の育て方が悪かったのでもあろうと思う。それに対して、親として反省をし、また許しも乞わなくてはならないと思う。いま、少しずつ良くなってゆく豊をみる。今の停学が、豊の人間性を良質のものに変えてゆくのなら、このことは彼の一生にとってよかったのではないかとも思う」(『尾崎豊デビュー』尾崎健一著 角川書店 1993刊 p.38〜44)

尾崎家の中で停学中出口が見えず最も苦しんでいたのは母でした。母は停学のことで一人カウンセリングに何度も足を運び、次第に不眠症に陥り、コップ一杯のウィスキーを一気飲みする寝酒が欠かせなくなり、睡眠薬にも頼るようになっていきます(デビュー以降、尾崎豊不眠症に陥っていく)。一方、どこか楽観的で恬淡とした父は、停学でレコーディングに必要な時間がとれるだろうからといった心持ちだったようです(後に父は、母が遺した日記を読みその悩みの深さに驚くことになる)
尾崎豊の歌に漂う深い孤独感と真実の愛への渇望は、深淵をのぞきこむこほどに内面的に深く強く求める母の魂をどこか映しだしているようです。そこに父が好む哲学や思想が流れ込んでいきましたCBSソニーのオーディション時、尾崎が鞄に入れていた本は、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。父と豊は高校時代をのぞき、よく哲学や思想、宗教、芸術のことを語り合ったという)
愛するということ
愛するということ

また、父によれば、息子豊が歌う「愛に飢えた孤独感」の根元には、(母が3カ月間入院し)1歳4カ月の時に信州高山の祖父母の家に預けられたことと、なついた頃には婆ちゃんとの急な別れとなったことが無意識の裡の心の深い傷になっていたのではと語ります。実際、尾崎豊自身も遠いその時の記憶によく思いを馳せていたほどでした(祖母が亡くなった時に、実家の寝室で祖母の霊を感じとっている)。次回は、尾崎豊が4歳の時、毎日のように父や母のところに持っていって読んで欲しいとねだったある「絵本」について紹介しようとおもいます。その絵本は豊少年の柔らかな感性に刺激を与えたようなのです。
▶(3)に続く-未

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