東京杉並生まれだが1歳から毎夏に北軽井沢で過ごす。深く記憶された自然体験。アリや蚊一匹殺さない子供。幼稚園の時に意識しはじめた「別の世界」の存在。眠る前に母や父が死なないように神さまに祈る習慣があった。哲学者の父の書斎と宮沢賢治からの影
「二十億光年の孤独」の処女詩集を1952年に刊行後、現代もなお詩作を発表し続けている詩人、谷川俊太郎。「二十億光年の孤独」では、ひとりの少年が広い宇宙と対峙しています。その孤独は絶望ではなく、さわやかで心地よいものです。60年程たった今でもこの詩は、一番の代表作として読者にとても愛されています。
どうして、ひとりの少年・谷川少年はごく自然に自己を宇宙へと投影する感覚を持つことができたのでしょうか。そして、その「孤独」と「詩のことば」はどのようにしてうまれてきたのでしょうか。この詩の与える強烈なイメージから、谷川俊太郎の根っこを探っていくことにしましょう。
二十億光年の孤独
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万有引力とは ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる それ故みんなもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした
昭和6年12月15日、谷川俊太郎は、哲学者である父・谷川徹三(1895〜1989)と音楽学校出身の母・多喜子(1897〜1984)のもと、東京府の慶応病院で帝王切開手術によって生まれました(「帝王切開で生まれた子は利口だが、我慢強さに欠けるところがあると俗説にいう。信じるに足る。…」と谷川自身が書いている)。一人っ子として、母親から強い愛情を受け、経済的にも恵まれた環境で育てられていきます。谷川少年が詩人として自立するまで、この環境は変わることがありませんでした。
1歳になる頃から、夏になると北軽井沢の別荘で過ごすようになります。都会に生まれ故郷というものをもたなかった谷川少年にとっては、北軽井沢を唯一の自然体験として記憶しているようです(実際には住んでいた杉並も田畑や小川があり、そこで遊んでいたので、自然体験を持ちえたと思うが、北軽井沢の自然に惹かれたのは、自分にふるさとがないというコンプレックスがあったからだろう)。谷川少年はとても気がやさしい気象で、家の中にアリがはいってきても殺さないで逃がし、嫌っていたクモでさえ殺すことができなかったといいます。また、オスの蚊は刺さないことを理科で教わると、オスかメスかを判断しオスと分かると逃がしていたそうです。その一方、手をつなぎたくない子とは断固として手をつながないという、強い自意識も持っていました。
また眠るまえには、おかあさんおとうさんが死なないように、おばあちゃんおじいちゃんが死なないようにと、神さまにお祈りをしていたといいます。強い感受性と想像力をもつがゆえ、無意識のうちに死を意識して、深い愛情を失うことにはかりしれない恐ろしさを感じていたのでしょう。
幼稚園は高円寺にあるミッション系の幼稚園に通っていますが、そこで見た天国行き地獄行きを決める「善悪のはかりの掛け図」は、谷川少年の「心の樹」に深く刻み込まれます。この世ではない「別の世界」の存在を幼な心に感じとったのです。
小学校に入学すると早くから学校嫌いが始まります。学校がつまらない谷川少年は、模型飛行機作りやラジオの組み立てに没頭します。小学校5年生には、何度も失敗していた模型飛行機作りに成功し、飛んだ瞬間の感動と喜びを素直な言葉で詩にしています。
小学生の頃書かれた日記には、次のものがあります。
「今日、生まれて初めて、朝を美しいと思った」(自伝風の断片/谷川俊太郎より)
はじめて、いつもの朝のいつもの庭で感じた体験でした。はじめ感動し、はじめての感情がおこり、沈黙し、しばらくして「言葉」がうまれたといいます。まだ小さな頃に、朝を、世界を、美しいと感じ、その実感を言葉にして書き記したことは将来の「詩人」にとって絶対的な体験でした。
中学校に進級すると、戦争で空襲が激しくなり、母の出身である京都府淀町へ母とともに疎開し転校しますが、新しい中学にはなかなか馴染めず学校にはあまり行かなかったようです。東京に戻り、高校に進学すると、ある出会いがありました。文学青年で詩人岩佐東一郎を愛した、北川幸比古(児童文学者、1930〜2004)との出会いです。北川青年に勧められ、谷川青年は詩作をはじめ、校友会誌に発表していきます。模型飛行機やラジオを組み立てるように、言葉を組み合わせると<世界のひな型>みたいなものが見えてきたといいます。この頃から書きためた大学ノート二冊に記された130の詩を、後に父親に見せたことがきっかけになり、「二十億年の孤独」が文學界に発表されることになります。
=宇宙的な意識と「孤独」について=
この世ではない「別の世界」があることへの「気づき」は、幼稚園のときに見たキリスト教の「天国と地獄の掛け図」が最初だったといいます。京都府淀町の母親の実家の仏間でお線香をあげて拝むという経験がそれに重なっていきます。父と母は無宗教だったため、キリスト教も仏教も神教もすべてが合わさって谷川俊太郎の心の裡に流れこみ、そこに独自の「神さま」が宿ったのです。こちらではない「あちらの世界」への意識や死への意識が濃かったので、その意識が<宇宙の方>へ向うのは時間の問題でした。
当初、<宇宙の方>へ向ったのも、都会にうまれ都会に育ったため、大地の自然の中に自己を投影するには自分の経験が不充分と感じるところがあったのかもしれません。そのため「宇宙」を見つめることが、「自己」を見つめることになるのです。またこの「宇宙」への強い意識は、宮沢賢治からの影響もありました(東北の地に生まれ育った宮澤賢治の意識と目には、大地の自然と宇宙は途切れることなくつながっていたが)。当時の谷川自身のノートには、日記に混じり宮沢賢治の文章が残されていました。じつは父の谷川徹三は、宮沢賢治の研究者でもあったのです。父の書斎は谷川少年のもう一つの「宇宙」、<本の宇宙>だったのです。谷川少年はたっぷりとその<本の宇宙>に身も心も浸していったのです。
谷川少年の「孤独」については、母親の「愛情」からうまれたものかもしれません。谷川少年と母は、強い絆(きずな)で結ばれていました(谷川が独り暮らしを始めると切り出したところ、母親が家出をしたくらいだった)。谷川少年にとって母は「はじめて感じた宇宙であり世界であり他者であり自分」でもありました。それゆえにその愛情を失うことそのものに、えも言われぬ<恐ろしさ>を感じていたのです。母を失う自分を想像すればするほど、自分が独りであることの意識が濃くなり、そこから「孤独」感が生まれ育っていきます(それが谷川俊太郎の”根っ子”にあります)。その恐れを克服していくなかで自意識が生まれ、「孤独」を見つめることができるようになっていきます。感受性が豊かであるがゆえの「怖れ」「不安」。母と深い愛情で繋がっていたがゆえの、その反転としての「孤独」感(宇宙的な孤独でもある)。どうもそれは18歳になった谷川俊太郎が感じた「孤独」とは異なる種類のものだったようです。谷川は次のように18歳に感じた孤独感を語っています。そしてその孤独感から「言葉」が溢れ出し、それが「詩」となっていったのです。 ◉文・荻久保愛子
一人っ子で親に守られて育ったため、18歳になっても人間関係に悩まされることで感じる孤独を知らなかった。だから自分のことを無限の宇宙のなかに投げだされた一つの有機体みたいに思っていたんじゃないでしょうか。そんな少年の孤独感だから、抽象的な宇宙のなかに自分を投影できたんだとおもいますね。(『ぼくはこうやって詩を書いてきた』/谷川俊太郎・山田馨より)