ル・コルビュジエ(1): 父も祖父も時計職人、跡継ぎを期待された
生地はジュラ山地にあるスイス時計産業の中心地ラ・ショー=ド=フォン。父も祖父も「時計の帝都」の時計職人。コルビュジエも父の跡継ぎを期待されていた。父は熱狂的な登山家でもあった。独立的で苦難に耐え進歩を信じたピアノ教師の母からの影響。
「……打ち解けず、厳格で近寄り難く、すべての個人的なものを拒否し、疑い深く、山岳農民のような感じだった。彼がいったい何者なのか、誰にもわからない」(ジークフリート・ギーディオンの言葉『ル・コルビュジエ』パルコ美術新書 ノルベルト・フーゼ著 1995刊 p.7)
ル・コルビュジエ(Le Corbusier)は、フランク・ロイド・ライトとミース・ファン・デル・ローエとともに「近代(モダニズム)建築の三大巨匠」と呼ばれたり、そこにヴァルター・グロピウスとアントニオ・ガウディを加え20世紀の建築界に聳え立つ5人とも目される人物ですが(藤森照信 談)、コルビュジエ自身は建築の領域にとどまらず、都市計画家であり、画家であり、デザイナーであり、著述家でもありました(日本語版ウィキペディアでは肩書きは建築家だけである)。
生涯、建築家だけではなかったことが、群を抜く発想力と構想力、スケールをもたらし、建築家というメジャーだけでは図り得ない存在となっていったようです。
たとえばコルビュジエの死後10年後に開館したポンピドゥー・センターを生み出した「20世紀美術館構想」です。
これはコルビュジエの「無限に成長する美術館」の考えを源泉とするもので、アンドレ・マルローの「空想の美術館」構想とも共鳴しつづけていました。
コルビュジエ建築群の一つとして世界文化遺産暫定リストにあげられている東京・上野の森にある国立西洋美術館本館(1959年)は、「無限に成長する美術館」を思考していたコルビュジエの美術館の思考実験がスモールサイズで実現したものでした(現地視察のためコルビュジエは1955年に一度だけ来日。
コルビュジエは基本設計のみで設計実務を担ったのはパリのコルビュジエのアトリエで学んだ前川国男、坂倉準三、吉阪隆正の3人の弟子。
上野の森にはコルビュジエの許に最初に学んだ前川國男が設計した東京都美術館、国立西洋美術館、東京都文化会館があり、まさにコルビュジエの森である)。
コルビュジエはその思考のスケールの大きさと同時に20世紀初頭の近代建築の勃興期に様々な要素や方法を吸収していったため、コルビュジエ建築をひとづかみにとってみることは困難を極めます。
コルビュジエの建築のなかで最も知られ、「白の時代」の代表作でもある「サヴォワ邸」(屋上庭園に水平連続窓、自由なファサード、ピロティ、スロープなどコルビュジエの理想都市の縮図ともいわれる。一時期ナチス所有の納屋になったがアンドレ・マルローの肝煎りで保存が決まった)が多くのひとを魅了する一方、ニューヨークの摩天楼の垂直のスカイラインにみられるような「鉄とコンクリートとガラス」からなる「インターナショナル・スタイル」もコルビュジエ建築の代表なのです(わけても「コンクリート」のコルビュジエと言われ、ミース・ファン・デル・ローエが「鉄とガラス」の巨人といわれる)。
そしてこの「インターナショナル・スタイル」はこれまでもしばしば批判の対象ともなり、今日のフランス建築界の中心人物の一人クロード・パランやポール・ヴィリリオ(メディアやテクノロジー研究者である前に建築家であり都市計画家であった)からも、水平性と垂直性に還元したコルビュジエの「ドミノ・システム」や「近代建築の5原則」は、旧体制の建築方法として批判されています。
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またコルビュジエの建築の神髄の「サヴォワ邸」にしても、あまりに機能主義的で男性原理的すぎるとみられましたが、邸内に緩やかな斜めのスロープを差し込み水平性と垂直性にだけ還元できえないエレメントを取り込んでいたのです。
さらには建築デザインを探求していくなかでコルビュジエは、「自然石」がそっくりそのまま露出した組積壁を採用した建築すらつくりだしていました(自然石を意匠としてもちいた)。また「マトの家」(1935年)は、自然石によるデザイン建築としては最も有名なものとなっています(40代半ば頃からその土地の自然素材としての石や煉瓦ーレンガによる表層をそのままにするのを好みだす。
素材の触覚的効果を有効に打ち出した頃、プライヴェートではコルビュジエは幾何学的な「ピュリスム」から離れ、生命感溢れる女性を描きだしている)。それはもはや「住宅は住むための機械である」と宣言したコルビュジエの建築からははみだしています。コルビュジエの機能主義とその相対する自然石の利用。この矛盾するような部分はコルビュジエのなかでなぜ生じえたのでしょう。
それはコルビュジエの「マインド・ツリー(心の樹)」を通じてみて初めてみえてきます。またそこが伝記読みの面白さでもあります。
その前にコルビュジエの日本の建築に対する影響をみておきましょう。戦後の日本の建築デザインの源流は、ル・コルビュジエにあるといわれるほど、コルビュジエの日本の近代建築に対する影響は大きなものがあります。
昭和初期に日本の若き3人の建築家、前川国男(東京帝大の卒業式の日にコルビュジエのアトリエに向った伝説をもっている)、坂倉準三、吉阪隆正がコルビュジエの許で学んだことがその嚆矢となります。
磯崎新も最も影響を受けた建築家は、「丹下健三を通してのコルビュジエ」と語り、「メタボリズム」建築の菊竹清訓(きよのり)や伊藤豊男にも影響を与え、打ち放しコンクリートに幾何学的フォルムを与えた安藤忠雄もその影響下にあることはよく知られているところです(安藤忠雄の愛犬の名は「コルビュジエ」)。
そして日本人の建築家で最もコルビュジエに近い者は丹下健三です(丹下が建築家をめざす契機がコルビュジエのモダニズム建築の斬新なデザイン「ソヴィエトパレス」で、コルビュジエを真似て自然石を壁に盛り込んだ作品が、バウハウス色の濃厚だった東京帝大建築科で物議になった。
丹下健三の自邸の造形は建物を空中に浮遊させた「サヴォワ邸」を彷彿とさせる。また丹下健三が構想した広島平和記念資料館のコンクリートのピロティは正倉院や桂離宮などを範にコルビュジエの方法を繋げたもの)。
つけ加えるならば日本武道館や京都タワーの設計者・山田守もコルビュジエの建築に影響されているようです(コルビュジエは日本には1923年8月号「建築世界」誌で初めて紹介されている。バウハウス建築が主流だった日本ではまだ周縁的な存在だった)。
ちなみに安藤忠雄らによる「打ち放しコンクリート」(後期コルビュジエ・スタイル)ですが、最初期にみられた極めて高い評価の背景にはどうも日本人の好みに合ったからではないかといわれています。
打ち放しのザラッとした素材感が、素木や土塗りの壁の素材感を好む日本人の好みに合ったというのです(打ち放しコンクリートをつくる木製の形枠づくりに日本の大工の腕が活かされている)。コルビュジエはコンクリートについて次の様に語っています。
「コンクリートは再生された石と考えてもいいくらいに、そのままの姿であらわにするに値する可能性を考えていいようです。……打ち放しコンクリートには型枠のあらゆる状況が表れます。板の継ぎ目、板の肌理(きめ)、板の節等々。これらは眺めて素晴らしいし、観察して面白いし、少しでも想像力のある人には豊かな材料を提供してくれるのです」
このようにコルビュジエは「コンクリート」を、再生された自然の石を、純粋で合理的な形態「ピュリスム」の絵を3次元で描きだすように、型枠に流し込んで造り出していたようです。コルビュジエにとって、コンクリートも「絵の具」の様に再生された「自然素材」だったのでしょう。ゆえに板の継ぎ目や肌理、節を眺めると素晴らしいと。「見るということも、触れることのひとつ」(コルビュジエ)。「視覚」のひとコルビュジエは、「触覚」のひとでもありました。
さて、ル・コルビュジエです(1887年10月6日生まれ)。コルビュジエは本名ではありません。シャルル・エドゥアール・ジャンヌレというのが本名です。
友人と執筆・編集した「エスプリ・ヌーヴォー」誌でル・コルビュジエのペンネームの一つとして使うようになる28歳までは、シャルル・エドゥアール・ジャンヌレが彼の名前でした(ここでは分かり易くするため、広く知られた名前の「ル・コルビュジエ」で通します)。コルビュジエの生地は、スイスの北西ジュラ地方ラ・ショー=ド=フォンです(La Chaux de Fonds ジュラ山脈の中にある標高1000メートル程の地。ヌーシャルテ湖の北方20キロ、当時の人口は2万7000人程。現在はジュネーブとローザンヌに次ぐスイス第3の都市。
それでも人口3万7000人程)。
この町は16世紀の宗教戦争の際に南フランスを追われた者たちによって人里離れた山中に築かれたとされ(1656年にコミューンが成立。1780年には時計製造業や金属細工が盛んに)、コルビュジエに会ったギーディオンが受けた印象が「山岳農民」のようだったというのは正鵠を得ています。
実際コルビュジエの父は実際登山の愛好家でもあり地元の山岳会の支部長をつとめていて、当時まだあまり人が登ることのなかったモンブランをも登頂しています(またアルペン・クラブの会報によく執筆していたようで、このことは回り巡ってコルビュジエの旺盛な執筆欲にも通じる)。熱狂的登山家の父に連れられてコルビュジエは幼少の頃から山を巡り、森や谷を闊歩していました(コルビュジエの体質についていえば幼少期は虚弱体質で20代前半にも運動療法を受け、31歳の時には左目を網膜剥離から失明している)。
もっとも出身地ラ・ショー=ド=フォンは、「時計の帝都」と呼ばれるほどに、19世紀半ば頃からスイスの時計産業の中心地となっていて、タグ・ホイヤーやジラール・ペルゴが現在も本社を置いているだけでなく、オメガ(1848年)やエベル(1911年)など10数社もの時計メーカーがこの地で創設されています(20世紀初頭には世界の時計の55%がこのラ・ショー=ド=フォンで生産されていた。2009年、「ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル、時計製造業の都市計画」という登録名で、産業遺産として世界遺産リストへ正式登録された)。
「住宅は住むための機械である」というコルビュジエの言葉が木霊するようです。
コルビュジエの父もまた時計職人。時計のエナメルの文字盤の職人で、同じく文字盤職人だった祖父から継いだ職でした。
そして母シャルロット・マリーは商家の出で、ピアノ教師でした(コルビュジエの2歳年上の兄アルベールは母の影響を強く受け作曲家になっている。
コルビュジエ自身も音楽好きでサティやドビュッシーが好みで画にも音楽をモチーフにしたものも多かった。「音楽とは動く建築である」と語った現代音楽家ヤニス・クセナキスがコルビュジエの弟子だったことは今日ほぼ忘れ去られている。コルビュジエも後に現代音楽家にエドガー・ヴァーレーズと共に映像詩「電子詩典」を制作している)。
*50秒後からコルビュジエの「電子詩典」聴けます
父と比べあまり語られることのない母ですが、じつはコルビュジエの気質への影響は極めて大きいものがありました。
音楽以外にも、独立的で苦難に耐え意見がはっきりし、進歩ということを信じ、没我的でないほどに公共の利益を重視する、といった気質です。これはラ・ショー=ド=フォンの人々に共通する気質のようですが、母にはそれが濃くあらわれていたといいます。
ただ、コルビュジエは兄ほどにはピアノへ興味は示さず、父からの影響が勝っていたようです。学校では博物学に化学、物理、宇宙誌に興味を覚え、13歳で普通教育を終えるとラ・ショー=ド=フォン美術学校に入学します。その美術学校は時計の装飾職人や彫金師を育成する学校でもありました。コルビュジエは父の跡継ぎとなることを期待されたのです。
ル・コルビュジエ(2)に続く
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