ル・コルビュジエ(2):最初の夢は「画家」だった
最初の夢は「画家」だった。なぜ画家だったのか? 建築家はあまり好きでなかった16歳のコルビュジエを「建築」に向わせた美術学校教師。祖父は理想主義を抱いた地元の革命家だった。遍歴時代がスタートした最初の旅は20歳の時
ル・コルビュジエ(1)からのつづき:
実際コルビュジエの父は実際登山の愛好家でもあり地元の山岳会の支部長をつとめていて、当時まだあまり人が登ることのなかったモンブランをも登頂しています(またアルペン・クラブの会報によく執筆していたようで、このことは回り巡ってコルビュジエの旺盛な執筆欲にも通じる)。
熱狂的登山家の父に連れられてコルビュジエは幼少の頃から山を巡り、森や谷を闊歩していました(コルビュジエの体質についていえば幼少期は虚弱体質で20代前半にも運動療法を受け、31歳の時には左目を網膜剥離から失明している)。
もっとも出身地ラ・ショー=ド=フォンは、「時計の帝都」と呼ばれるほどに、19世紀半ば頃からスイスの時計産業の中心地となっていて、タグ・ホイヤーやジラール・ペルゴが現在も本社を置いているだけでなく、オメガ(1848年)やエベル(1911年)など10数社もの時計メーカーがこの地で創設されています(20世紀初頭には世界の時計の55%がこのラ・ショー=ド=フォンで生産されていた。2009年、「ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル、時計製造業の都市計画」という登録名で、産業遺産として世界遺産リストへ正式登録された)。
「住宅は住むための機械である」というコルビュジエの言葉が木霊するようです。
コルビュジエの父もまた時計職人。時計のエナメルの文字盤の職人で、同じく文字盤職人だった祖父から継いだ職でした。
そして母シャルロット・マリーは商家の出で、ピアノ教師でした(コルビュジエの2歳年上の兄アルベールは母の影響を強く受け作曲家になっている。
コルビュジエ自身も音楽好きでサティやドビュッシーが好みで画にも音楽をモチーフにしたものも多かった。「音楽とは動く建築である」と語った現代音楽家ヤニス・クセナキスがコルビュジエの弟子だったことは今日ほぼ忘れ去られている。コルビュジエも後に現代音楽家にエドガー・ヴァーレーズと共に映像詩「電子詩典」を制作している)。
*50秒後からコルビュジエの「電子詩典」聴けます
父と比べあまり語られることのない母ですが、じつはコルビュジエの気質への影響は極めて大きいものがありました。
音楽以外にも、独立的で苦難に耐え意見がはっきりし、進歩ということを信じ、没我的でないほどに公共の利益を重視する、といった気質です。これはラ・ショー=ド=フォンの人々に共通する気質のようですが、母にはそれが濃くあらわれていたといいます。
ただ、コルビュジエは兄ほどにはピアノへ興味は示さず、父からの影響が勝っていたようです。学校では博物学に化学、物理、宇宙誌に興味を覚え、13歳で普通教育を終えるとラ・ショー=ド=フォン美術学校に入学します。その美術学校は時計の装飾職人や彫金師を育成する学校でもありました。コルビュジエは父の跡継ぎとなることを期待されたのです。
ラ・ショー=ド=フォン美術学校でコルビュジエはすぐに頭角をあらわします。製作した装飾時計がある国際展覧会で賞を受けたのです。じつはこの頃のコルビュジエの夢は「画家」になることでした。時計の文字盤職人ではなく、なぜ「画家」だったのか。じつは文字盤職人だった父が、そして祖父も担っていたのは、文字盤そのもの細工をつくりだすことではなく、文字盤のエナメル部分に細かな「絵」を描くことだったのです。つまり「絵付け職人」だったのです。
「自然」をこよなく愛していた父は、文字盤に「自然」の絵を描き込んでいたにちがいありません。加えて美術学校の教師シャルル・レプラトニエとの出会いでコルビュジエのデッサンや水彩画の絵好きはさらに深化していきます。
当時26歳だったレプラトニエ先生はパリの国立高等美術学校で絵画を修めた後に郷里に戻っていいて、生徒たちをジェラ山脈の森や草原に連れ出して「絵」を描かせるのでした(幾何学的、合理的な形態を求めた「ピュリスム」を標榜する以前は、美しい山や樹木を好んで描いていた。シュルレアリスムの影響から貝殻や木の根、骨など詩的感情を喚起する温もりのある静物を描くようになり、40代半ばからはモチーフは生命力溢れる女性に)。
イギリスのジョン・ラスキンの考えを通じ、真実があらわれている「自然」こそ霊感を与えてくれること、自然をめぐる因果を学び、それをもとに統合をつくりだすんだとレプラトニエ先生は教えます(レプラトニエ先生の教えの許、コルビュジエは19世紀後半以降の西欧各地で形成されていた様々なアヴァンギャルドな改革運動の思想や目的意識にはじめて触れている)。その一方、レプラトニエ自身、美術学校の教育方針に不満を抱きだし、工芸と「建築」を結びつける新たな教科を設けることになるのです。
そしてレプラトニエ先生は、絵に向っていたコルビュジエを引き込んで「建築家」に仕立てようと目論んだのです。じつはコルビュジエ自身、当時、建築や建築家は好きというより、嫌いの範疇に入っていたというのですから、レプラトニエ先生の目論みがなければコルビュジエが建築家になる可能性はかなり低かったにちがいありません。
コルビュジエが師レプラトニエのプランに反応し建築の世界へと足を踏み出したのが16歳の時。18歳の時には、師レプラトニエが創設した上級講座にすすみ「建築」と装飾の教育をたっぷり受けます。コルビュジエ最初の建築作品といわれるファレ邸(ファレ氏は宝飾商で美術学校の理事会のメンバー)は、この時に地元の建築家とともに設計したものでした(モミの木を図案化した装飾部分と多彩色の屋根にアール・ヌーヴォー装飾を好んでいた当時のコルビュジエがあらわれているという)。
その間、コルビュジエは郷土「ジュラ地方の自然」を考えぬきます。新しい地方的な建築は、独自の装飾に基づき、ジュラ地方の「固有性」にしたがうものでなくてはならないとし、コルビュジエは次のように語っています。
「…私たちは植物の芽から地平線の山々のリズミカルな起伏に至るまで、自分たちが生きているこの地方を熱心に探求して歩いた。私たちは人の心に語りかけるかたちに関して、感動的な素晴らしい辞書をつくる。私たちのつくった様式は、やがて私たちの土地の様式、土地に根ざした詩となるだろう」(コルビュジエ)
コルビュジエ(3)に続く
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