伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

祖父はタクシー会社や複数の「映画館」所有する実業家だった。1929年の世界大恐慌で一文無しになり父はブルックリンの露店をはじめる。5歳にしてあらわれた憂鬱な気質。はてしなく口論のつづく家庭環境。映画『ラジオ・デイズ』に描かれた少年時代


ウディ・アレン バイオグラフィー
ウディ・アレン バイオグラフィー


▶「アレンの憂鬱な気質は、早いうちから現れていた。5歳にしてすでに、漠然とながらも根本的な部分で、世を捨てたようなふさぎがちの性格になっていった『何かがうまくいかなくなってしまったの』と母親は語っている。アレン自身はそうした変化を記憶していないが、物心ついたころからよくひとりでいたことは認めている。両親は言い争ってばかりいるし、母親はすぐにカッとして平手打ちを食らわせるので、逃げ出して自室にこもっていたらしい。『毎日毎日、お袋に叩かれていたんだよ』……。母親のネイティは、アレンがませていて生意気で頑固な子だったため、つい耳をひっぱたいたりしてイライラをぶつけてしまうことがあったと白状している。
……その後、アレンがたどった感情の経緯は、ほったらかしにされて育った子供によく見られるものである。相手と親密になりたいと望みながら、親しみを示されると疑いを抱き、『何が狙いだ?』と考えて距離を置いてしまう」(『ウディ・アレンーバイオグラフィ』ジョン・バクスター著 作品社 p.33)


アラン・スチュアート・コグニスバーグ。これがウディ・アレンの本名です(ここでは幼少期からウッディ・アレンの名前を用います)ウディ・アレンといえば、ニューヨーク、わけてもマンハッタンをイメージしますが、生まれはブロンクス(1935年12月1日生まれ)で、育ちはブルックリンです(後年、恋人ミア・ファローを連れブルックリンの実家を訪れた時、『僕がこの出身なんて、信じられるかい?』と聞いている)ウディ・アレンの映画にとって欠かせないエリアは、アレン自身演じる主人公が屯(たむろ)するタイムズ・スクウェアとアッパー・イーストサイドの二カ所だといわれていますが、実際には育った地ブルックリンで起こったエピソードが沢山描かれているといわれます(アッパー・イーストサイドは、映画でアレン演じる主人公が住む場所。アレン自身はセントラルパークとイーストリバーが一望できるアッパー・イーストサイドの一等地にある高級アパートに住んでいる)。ブルックリン育ちこそが、「皮肉たっぷりの描写」や「ウィットに富んだ会話」を次々に繰り出す、したたかなコメディアン「ウディ・アレン」を生み出したともいえます。

それでは伝記本『ウディ・アレンーバイオグラフィ』ジョン・バクスター著 作品社)を中心に、「ウディ・アレン」の”根っ子”と裏側に迫ってみましょう。
ウディ・アレンは生まれてから7年間、ブロンクスにはじまりブルックリンでも転々と引っ越していますが(10回以上)、その理由は父が定職にありつけなかったことと、母ネティの姉やヒトラーの迫害から逃れてきた親類たちと部屋を共有したためでした。根っからのユダヤ人だったコグニスバーグ家での日常語は、英語ではなくドイツ語で、ウディ・アレンも子供の頃はドイツ語しか話さなかった時期があったといいます。「絶望はありふれ、どうにか絶望と折り合いをつけながらの低所得者層の家庭」の一つだったコグニスバーグ家。そんなコグニスバーグ家に強盗が入り一家の運命はさらに下流へ流されていったようです(家への強盗は映画『アニー・ホール』の冒頭に描きだされた)。ブルックリン時代、露店からはじまった父の仕事は、警官の使い走り(父の兄の一人がニューヨーク市警本部の警官になった時)から、宝石細工に通信販売での宝石売り、グリーティングカード売り(自伝的映画『ラジオ・デイズ』でもいろいろ紹介される)、タクシー運転手、バーデンダーやビリヤード場などなかなか定まりません。
じつはコグニスバーグ家はもともと低所得者層などでなく、祖父のアイザック・コグニスバーグは、タクシーを何台も抱える会社を経営し、なんと「映画館」も数館持つほどで裕福な家柄だったのです。それが1929年の世界大恐慌で落ちぶれ、ブルックリンの市場の露店からの再出発を余儀なくされていたのです。
ラジオ・デイズ [DVD]

極めて自伝的な映画といわれる『ラジオ・デイズ(1987年)で、ウディ・アレンは自身のブルックリン時代のエピソードをちりばめて描きだしています(映画では大西洋岸に面したコニーアイランド近くに設定されているが)。映画を観ると、ラジオの語りと音楽(とくにジャズ)と、家族内と親類たちのうるさいほどの言葉のやり取り(太平洋と大西洋の大きさだけでも口論になる。たわいのない内容の「果てしなく繰り返される口論」の数々)のなかで、アレン少年が生まれ育ったことがよく分かります(映画では大きな部屋のある比較的大きな家が登場するが、部屋内での撮影上の広さを確保するためで、実際には家のなかには家財道具も、装飾品も、芸術も書物も何もない環境が長くつづいたようです)

つまりは、ラジオから流れ来る「音」と、家族や親類のうるさい喋りのなかこそが、アレン少年の生育環境であり、その”根っ子”は、四六時中「口」と「耳」と「音」に浸されていたといえます。そんなコグニスバーグ家は、「書物」とは縁もゆかりもなかったそうで、ウディ・アレンが「読書」に目覚め、読書の習慣を身につけたのは10代もほとんど終わりかけていた頃だといいます。10代を通じてアレン少年がどっぷり浸かっていたのは、「コミック雑誌」と「映画」で、この「大衆文化」こそがウディ・アレンの陣地になっていくのです(純粋芸術に触れる機会がほとんど無かったという)

コミック雑誌が好きなんだ……15歳になるまで、ほかのものは一切読まなかった。どんな漫画でもいい。超人ものでも、アヒルとネズミの冒険ものでもね」ウディ・アレン談)

冒頭に記したように、「アレンの憂鬱な気質は、早いうちから現れていた。5歳にしてすでに、漠然とながらも根本的な部分で、世を捨てたようなふさぎがちの性格になっていった」原因の一つは、入学したパブリックスクールでもみられたようです。背丈はひょろりとしてクラスでは存在感がなく、孤立していて(髪の色のせいで「赤毛ーレッド」というあだ名)、嫌なことはなるべく避けたがる性格は濃くなるばかり。「空想」が得意なアレンにとって丸暗記中心の授業は苦痛でしかありません。少し長じ、アレンにとって、作文の時間は「ジョーク」の時間となり、先生からは目をつけられます。そんなアレンでしたが最初の夢は、スポーツこそがすべてのブルックリン生まれの他の少年と違わず、大リーグのプレイヤーになることでした。
アレンがはじめてブルックリン橋の向こう側の世界「マンハッタン」を体験したのは6歳の時でした(父に連れられて行った。この時代、ブルックリン生まれ子供たちにとってマンハッタンは通常両親から禁じられた別世界だった)。アレン少年は「マンハッタン」の漲る活気や華やかな装い、映画館や劇場、ネオンに立て看板に魅せられ、数年もたたないうちに親の目を盗んではマンハッタン詣でをするようになっていきます。そして7歳の頃から、アレンは「映画」の世界にどんどん引き込まれていったようですが、その大きなきっかけは年上の従姉のリタでした。近所に住んでいた従姉リタの部屋は、ティーンエイジャーの乙女心で埋めつくされるように、壁一面にハリウッドの映画スターのスチール写真が所狭しと貼られ、映画に夢中のリタはアレンをしょっちゅう映画館に連れて行ったのです(アレン12歳の時に、コグニスバーグ家はその従姉の家族と同居するようになり、2人は時々寝室を同じくするように)
アニー・ホール [DVD]

1977年公開の映画『アニー・ホール』の脚本は当初、フェデリコ・フェリーニの映画『8 1/2』に倣って、実際の自分の人生に関係した女性たちとの関係を描いたものだったようで、初稿には実際の従姉リタも登場させていました。色気むんむんの従姉がアレン少年に漫画本を読んで聞かせるあいだ、アレンは従姉に見とれヨダレを流すシーンがあったといいます。ウディ・アレン映画にさまざまに盛り込まれるセックスのテーマの源流は、元をたどれば少年時代の従姉への感情があったようです。伝記本『ウディ・アレンーバイオグラフィ』(冒頭に紹介した書籍)にはその事を次の様に記しています。

「……どちらにも性的な感情はなかったとアレンはくり返し主張している。しかしアレンのその後のセックスライフを考えると、この言い分はどうにも疑わしい。……アレンが従姉に対する性的な感情を否定するのは、子供時代から逃げだそうとする気持ちのあらわれではないだろうか。彼は数十年というもの、精神科医の助けを借りながら過去を切り捨てようとしてきたのだ。……大人になって表面的には著しい変貌を遂げたとはいえ、アレンが長いあいだ引きずっていたさまざまな憤りの源が子供時代にあるのは明らかだ。子供のころの自分から抜け出したときの心理状態が、大人になってからの性格にも浸透している。こうした矛盾はアレンの実生活とコメディにも深く入り込むことになる」(『ウディ・アレンーバイオグラフィ』ジョン・バクスター著 作品社 p.46-47)

従姉リタを介してアレンの「映画」への関心が著しくなったのですが、「映画」への関心はその少し前にアレン少年の裡に芽生えていたようです。それは7歳の時に観た『海の征服者』タイロン・パワー主演)という冒険映画で、アレン少年は感激し圧倒されるのですが、同時におよそ同年の他の子供たちが思いもよらない感覚を持ったのです。それは「僕にもできるかな」という感覚だったらしく、それ以降そんな思いをどこかに持ち続けることになります。しかし小学校1、2年の時に、自分でも映画をつくる(演じることかもしれないが)ことができるかな、と考える子供は当時は極めて稀ではないでしょうか。
そしてこの思いが強化される出来事がアレン8歳の時に起こります(おそらくはかつて「映画館」を所有していた祖父の話は家族から聞いていたであろうが)。コグニスバーグ家が、かつてブルックリンの一角に祖父が所有していた「映画館」の真裏、つまり映画館と背中合わせのアパートに引っ越したのです。
▶(2)に続く-未
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ウディ・アレン映画の中の人生
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ウディ・アレンの映画術
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ウディ・アレンの浮気を終わらせる3つの方法
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ウディ・アレンの漂う電球
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