伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

電気への関心が刺激された「東京大正博覧会」。「モーター」と組み立て玩具「メカノ」に熱中。科学雑誌を定期購読。中学2年の時、「無線」に夢中になる。函館の市電や函館水電を興した伯父の存在。


*井深少年が小さな頃に夢中になった外国の組み立て玩具「メカノ」でつくられた最新の「メカノ」たち

ソニーを創った男 井深大


▶どうして愛知県の祖父のもとにいた井深大少年が、東京・上野公園で催された「東京大正博覧会」を見ることができたのか。それにはちょっとした偶然が重なります。
父の死後、井深一家は、祖父の仕事の異動のため愛知県内の知立安城へと引っ越しを繰り返したこともあり、地元の子供たちと仲良くなることができないままでした。遊び相手は家にいたお手伝いさんだけで、遊びも戦争ごっこが多かったといいます(大は親戚の家の立派な屏風に墨で絵を描く悪戯らをし大騒ぎさせる一面もあった)。結局、母は祖父母の家に居つづけることは、祖母との関係も含めよろしくないと判断。母がかつて通った母校日本女子大学がある目白台に移り住むことになったのです(借屋住まいだった)。母は母校付属の豊明幼稚園(裕福な上流階級の子弟が通う幼稚園だった)の先生となり、大はその幼稚園に入園します。
父と同様、先進的な物の考えをする女性だった母は、いい意味での教育ママでした。日曜日になると上野の博物館や湯島の科学博物館に大を連れて行っていましたが、その頃にちょうど開催されていたのが上野公園で催されていた「東京大正博覧会」だったのです(大正3年ー1914年開催。入場者総数745万人)。展示館のなかには亡き父の会社だった古河鉱業が出展する鉱山館もありました。無線電話の実験、エジソンの活動写真機、汽車や電車の実演(外国館)、電気装飾(工業館)、モーターの模型のある教育学芸館、当時の呼び物スカレーターと、大を夢中にさせました。大の「電気」への関心は、抽象的なものでなく、父と同様「技師」としての物づくりの”根っ子”がじょじょに準備されていったのです。
その物づくりの”根”が、金属性の組み立て玩具「メカノ(Mecano)」(穴の空いた鉄板、ボルト、ナットなどからなる)への熱中へとつながっていったといえます。小学生の時、母に連れられ遊びに行った友達の家で、欧米で人気のあった外国製のオモチャ「メカノ」と出会ったのです。それは父の部下で親友だった者がヨーロッパ帰りに自身の息子のために買ってきたものでしたが、その子は幼すぎてまだ「メカノ」と遊ぶまでにいたらず、代わりに大が熱中してしまったのです。「こんなに単純な部品から、こんなにいろいろな物が作れる!」と大少年は大興奮。この組み立て玩具こそ、まだ小さな大にもっとも刺激を与える玩具になったのです。親戚の家に行っては必ず目覚まし時計を「分解」してばかりいた大少年のうちに「組み立てる」喜びが沸き上がっていたのです。井深大は後にこの「メカノ」から「物をつくる楽しさを覚えた」と語っています。
ものづくり魂——この原点を忘れた企業は滅びる

大の東京生活は3年余り、再び愛知県の祖父の家へ。東京時代に、井深親子は後に時代小説『銭形平次捕物控』で人気がでる前の作家・野村胡堂と知り合い(母と胡堂の妻が同じ大学の出身で職場も同じで近所に住んでいた。親戚同様の親しい交際に発展)、大は胡堂に亡き父親の影をみるような親近感を抱くようになっていたといいます。大が愛知県安城尋常小学校に転入したのは6歳の時。この頃、祖父が電池とベルを買い与えたえると大はひとりでベルを鳴るようにつくりあげ祖父を驚かせています(大は祖父を通じて、自尊心と独立精神に富んだ気性を学んだと語っている)。さらにベルの電磁石を使って簡単な「電信機」をつくりだしてしまったのですから周りはびっくりするばかり(自転車のランプを分解していた時、突然爆発し大怪我寸前に)。町に出れば町に一軒しかない本屋で「理化少年」を立ち読みし、時計屋のショーウィンドーを覗きこむのでした。
学校では大はむしろあまり目立たず、好きなことをコツコツやる気質が強くでたため、積極的にリーダーシップをとることもしなかったようです。授業では苦手なのは国語や習字、好きなのは算数と理科で、学年がすすむうちに「理科」への興味を深めていきます。多くの成績は一番。放課後にはよく薄暗い理科実験準備室に行って、人体模型やアルコール漬けの動植物の標本を見るのが好きで、「そこは私のいるべき場所であり、心安らぐ世界であった」と当時を振り返って語っています。最もこのころ一番感動したのは「モーター」でした。通信販売の科学玩具キットで「モーター」を組み立て、動きはじめた時の強い衝撃は大の裡に決定的に刻印されることになります。
「モーター」の衝撃がありながらも、この時期に大は心の裡のどこかで「作家」になろうと思っていたといいます。周りから孤立気味で早熟な少年にありがちなこととはいえ、東京で可愛がられた野村胡堂の影響からか、大は小学生の頃から大人の読み物や雑誌を読んでは、「人生というものの複雑な綾」があることを感受していたのです。この頃、母が再婚し神戸に移り住み、大は祖父母のもとに留まっています。
12歳の時1920年、大は母の再婚先の神戸へ(義父はヨーロッパ航路の船長を辞めた後、山下汽船の海務部長を経て海事関係の弁護人に。実子の無かった義父は引き取っていた2人の甥と大に朝食前に必ずあることをさせていた。それは往復1時間程かかる碇山山頂までの山登りだった)。5校目の小学校となる神戸・諏訪山尋常小学校に入学します(日本で最難関の神戸一中を目指す子供が多かった)。大は猛勉強し神戸一中に合格(神戸一中の初代校長は札幌農学校新渡戸稲造内村鑑三と同期の鶴崎久留一)。ところが合格すると入試の反動で興味は勉強からテニスへ。神戸一中時代、大の合理的思考と頑固さを象徴するエピソードがあります。漢文の授業で読み返しの方法が合理的でないと先生に叛旗をひるがえしテストを白紙で提出しています。
にっぽん無線通信史
にっぽん無線通信史

そして学校のすべてにおいてヤル気がでなかった大の関心は、中学2年の時に「無線」に向いだすのです。なぜ「無線」だったのか。それは「時報」を聞くためでした。なぜ「時報」だったのか。愛知にいた頃、祖父は日課として安城の駅に出かけては正午に鳴るベルに自分の時計の時刻を合わせていました。大はそれは面倒なことだなと思っていたといいます。大が「無線」をつくろうと思い立ったのは、その意味で祖父の影響であり、祖父のやり方を超えようというおもいからだったのです。「無線」に向う契機は、どうも定期購読していた科学雑誌だったようです(1日1回、無線で「時報電波」が流されることを知った)。つくり方もその科学雑誌を手がかりにしています。この頃、日本の無線関係産業は揺籃期で、ほとんど独学によるしか学びようがありませんでした。必要な機器を購入するための店もまだなかったのですが、神戸港には船舶に無線サービスをするための日本無線などの出張所があり、義父が勤めていた山下汽船つながりで必要な機器をそこから購入することができたのです(母が当時まだ高価だった部品代金を工面してくれたが、真空管だけは大が自分の小遣いを貯めて購入)。無線の音を最初にキャッチした時の感激は、井深大の「創造」の旅の<原点>となっていきます。

「…直接、視覚のなかに飛び込んでこないだけに、思ったり考えたりする世界が広がる。そこにまた楽しみがあるのであり、私の一貫しての創造する歩みは、いまになって考えれば、書物を読んで空間をさまようのと同時に、無線が原点としてそこにあったのである」(『『ソニー』創造への旅ーものづくり、人づくり』井深大著 グラフ社 p.79)

「ソニー」創造への旅—ものづくり、人づくり

時報電波以外にも「無線」を用いれば、新聞販売店が貼り出す「速報」よりも早く情報をキャッチできること、たとえば関東大震災(1923年)の関西への情報源は横浜に停泊していた船が発信した無線で、それを神戸港の船が受信して新聞の号外になったことなどを知った大少年は、ますます無線の世界に熱中していきました。大少年はアマチュア無線の解禁される昭和2年以前にすでに違法ながら送受信ともしていたのです(受信は違法ではなかった)。中学2年の終わりくらいには、選挙結果をいち早く受信し周りに情報提供していたので皆を唖然とさせてしまうほどでした(この頃に無線を通じて知り合った仲間には、ソニー顧問になった元NHKの島茂雄がいる)
高校は早稲田大学第一高等学院にすすんでいます浦和高校北海道大学予科は試験に落ちた)。高校時代、大は科学部に所属(活気のある部で部員は100人いる時もあり、電気関係の工場見学も活動の一環だった)。この頃アジア競技大会の前身の極東選手権競技大会向けの放送設備にもちいる増幅装置(スピーカーとマイクロホン)をつくることが科学部に課せられ、大の狭い部屋は蓄電の制作と合わせ、電気の部品で埋まっていくばかりでした。その一方で、内村鑑三先生の指導に感銘を受け、キリスト教主義の友愛学舎や飯田橋の富士見町教会に通い出し、毎日曜に教師を務めています。
また電気に関する興味は北海道に住む伯父(祖父・井深基の親族の太刀川氏)とのつながりでさらに強くなっていっています。伯父は函館水電や函館の市電を興した地元の名士でした。大は高校時代の夏休みになると必ず伯父の家に遊びに行き、倉庫でモーターの巻き直しや電車や自動車をいじっていたのです。振り返って井深大の関心の向う先と好奇心の有り様が、いかに育った「環境」と深くかかわっているかがよくみてとれます。その「環境」が一時的なものでなく、父、母や祖父、神戸という土地、伯父の存在、学校や無線仲間と、二重、三重、四重に玉葱状になっていった時、「環境」の影響は最高のパフォーマンスを発揮することになるのです。一度うまくいかなくて途切れてしまう関心や好奇心が別の角度や次元から「刺激」されることも重要で、大少年も神戸一中時代に、ドンブリにを用いて反射させ音を大きくする簡単な増幅装置をつくっていた体験が、早稲田高等学院時代の増幅装置製作への熱中に結びついていったようです。「音」の増幅や「電気」に生活スタイルが結びついた延長に後の「ウォークマン」もあるといっていいのではないでしょうか。さらにその先にはスティーブン・ジョブスの「i Tune」や「i Pod」があります。「環境」に「発想力」がくわわった時、「環境」から意識的、無意識的に蓄積されたものが、その人物の資質・性質と深く交わった時、能力は無限の威力を発揮するのです。
胎児から—母性が決める「知」と「心」 (徳間文庫—教養シリーズ)

最後に、[井深大(1)]の冒頭に取りあげた幼児早期教育の話になりますが、その契機はなかなか興味深いところにあります。じつはソニーが開発したテープレコーダー(国産初のG型と改良型H型)を最も多く購入してくれたのが全国の小中学校(数年内に全国の小中学校の三分の一程が購入)で、広く科学技術の普及をおこないたいとの願いから、小学校教育に尽くすのがいいのではないかという考えが固まっていったのです。井深大が地方の小学校を回った時に科学教育があまりにも欠落していることを痛感し、昭和34年に第一回ソニー小学校理科教育振興資金計画がスタートしています。その2年後にバイオリンの早期才能教育で世界の注目を浴びていた鈴木鎮一氏と出会ったなかから、早期教育は音楽だけではなく、さまざまなフィールドでも活かせると考えたのです。そこでまず実験です(1000人の応募者から妊娠8カ月の妊婦15人に絞り、育児中にいろんな記録をとってもらう)。当時は「環境」や「母親」の幼児への影響についてまったく研究がなされていませんでした。多くの実験結果から井深大は、人間の能力は、遺伝よりも「生後の環境」(さらには0歳児時代の胎内環境)の方が圧倒的に大きな影響を与えるという仮説にいたったのです。このことは井深大自身についてもあてはまることだったのです。井深大のこうした研究とアプローチを追ってみたい方はぜひ紹介致しました書籍にあたってみて下さい。


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