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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

宮藤官九郎(1):「空気を読む」少年だった

「空気を読む」少年だった宮藤官九。郎初恋の相手は同時に4人、チャートにしてひとり楽しむ。小学校6年、友達と「コント」をはじめる。契機は姉の聴いていた「スネークマンショウ」。「おれたちヒョウキン族」をかかさずチェック、「ビートたけしオールナイトニッポン」にノルマとして毎週10通のハガキを送りつけだす


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映画「GO」や「ピンポン」「木更津キャッツアイ」、テレビドラマ「池袋ウェストゲートパーク」「タイガー&ドラゴン」の脚本を書き、映画「真夜中の弥次さん喜多さん」では初監督を、「舞妓Haaaan!!!」や「ゼブラーマン」の脚本を書き、パンク・コント・バンドのグループ魂(他に阿部サダオと杉村蝉之介)のギタリスト(「暴動」のネーミング)であり、才能が見出された「大人計画」では演出助手をしギャグを書き、「ウーマンリブ」の自作の公演活動、放送作家、俳優、演出家、作詞家など、マルチな活動をする「クドカン」こと宮藤官九郎。すべての作品に通じるのが「クドカン」流といってもいいといってもいい独自の「男子世界」です。

こうした世界は宮藤官九郎のナイーブにして漲る才気や、間歇泉のように噴出するサディスティックなキャラクターに帰してしまいがちですが、じつは迸り出るストーリーや発想の源は少年時代から青年期にかけての体験のエッセンスにあります。その意味で「クドカン」は、自分自身であることによって「クドカン」になっているのです。そこのところを少し探ってみましょう。

クドカン」には伝記などという仰々しく堅苦しいものは似合いませんし、また現在そうした類のものはありません。が、『河原官九郎ー宮藤官九郎河原雅彦演劇ぶっく社 2001年刊)のうちの「宮藤官九郎 男子道一直線」と題された恐らくインタビューをもとに纏められたものがあります。それに自伝的要素で構成され物語られた『きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)』(本人本09 本人のことを語るという趣旨かた「本人伝」とも言えようか。太田出版 2009年刊 )を左手にもてば「クドカン」の少年時代から青年期にいたるまで感じ取ることができます。つまりその2冊に、「クドカン」の根元の部分であり、どのように”魂”が”暴動”しだしたかについて開陳されているのです。
これはなかなか興味深いとしかいいようがありません。当たり前ですが「クドカン」も大人になってから突然変異的に才能が開花したわけでなく、少年時代から青年期にかけて意識的にも自覚的にもヤリ重ねてきたこと、自身の裡での”根”のあまりに独特な張り様こそが、まさに「クドカン」を誕生させたのです。


宮藤官九郎(愛称:クドカン/本名:宮藤俊一郎)は、1970年7月19日に宮城県栗原市に生まれています。東北地方の大都市・仙台市から北方へ約50キロ、岩手県に隣接する当時人口1万4000人程の田園風景が広がる小さな町(旧・栗原郡柳町。現在は栗原郡下の町が合併し宮城県最大の面積の市となる)の商店街にあった文房具屋「文具センタークドウ」が宮藤俊一郎の生家でした。
文房具屋は町内の小学校と中学校に文具なども納品していたため、店の切り盛りをする母の他、3人の店員を抱えるちょっとした文具店だったようです。父は小学校の先生だったこともあり教育面には厳しく(躾はそれほどでもなく)、小学校低学年までは小学校の先生の息子ということで勉強もそつなくこなしていたようです(努力がむくわれるようになる小学校高学年から、努力しなかったため成績は落ち始めた)。


小さい頃から、「場の空気」に敏感な子供だったといいます。友達と遊んでいる時も、「誰か気を悪くしていないかとか、とどこおりなく遊んでいるか」ということを考えながら遊ぶ、「空気を読む少年」だったというのです。だから遊ぶにも、頑張って目配せしながら遊ぶ癖がついたと、自身語っています。さらに小学校低学年で、意地を張って泣きだせばその場の空気が「よどむ」ことに気づくという早熟さ。ワガママや悪戯すらも、ちょっと間をおいて「空気を読んで」からやっていたというのです。

父が小学校の先生で、自分はその子供ということも、「空気読み」少年にとって無視しえないこと。つまり「勉強」ができないといけない、ということすら周りの空気を読んでの結論だったといいます。遊びの時は、「空気を読む」習癖からなのか、自分から「みなで遊びに行こう」とリーダーシップを発揮するタイプではなく、リーダーはつねに誰かいて宮藤少年はいつも2番目くらいのポジションにいて、皆の空気を読んで遊びに行ったといいます。なんとも興味深いことに、その状況は「大人計画」の主催者・松尾スズキがいて、2番目くらいのポジションに宮藤官九郎がいるという状況と瓜二つです。



どうして「空気を読む少年」になったのかはよくわかりませんが、末っ子で初めての男の子でしたが、両親もそれぞれ忙しかったためあまりかまわれることがなかったこと、2人いた姉は9歳上と14歳上でかなり離れ自分が皆の中心にいるという幼少時特有の感覚がはたらかなかったからかもしれません。小さな頃、記憶にある遊び相手は母のもとに日舞を習いに来るオバちゃんだったことからも、家庭内ではまったく中心にいなかったことがわかります。おそらくそのため、物心ついた時に仙台の遊園地に連れて行かれた時、楽しいという気持ちが湧いて来なかったといいます。周りの皆は楽しくしているのに、自分だけ楽しくはなかったことを宮藤少年は記憶しているのです。

そうしたことに無関係ともいえないような捩じれたエピソードがあります。小学校高学年時代、宮藤少年は初恋をします。が、初恋の相手は特定の一人ではなく、なんと4人だったというのです。4人というのは、父・母・姉2人の4人と同じ人数。そして宮藤少年は同時に好きになったその初恋の相手4人を毎日「順位」をつけチャートにしていたといいます。そのことは友達にも誰にも言わずに、黙々と4人それぞれとの物語をつくってはシミュレーションして独り頭の中だけでにやにやして楽しんでいたというのです。

勉強も下降しスポーツもそれほどでもない宮藤少年はまったくモテませんでした。そんな宮藤少年は小学校の修学旅行の時、皆の前で何人かと組んで「コント」をやりだすのです(スカートめくりやコントとなるとクラスのなかで一目置かれる存在になっていく)。


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「コント」をやりだした契機は何だったのか。それは小学校6年生の時、姉が聴いていた「スネークマンショウ」でした。友達とそのパロディ(というかパクリ)をつくってテープに録音し他の友達にまわしていたのです。「スネークマンショウ」で「笑い」に目覚めた宮藤少年。そして中学時代に巻き起こった「マンザイブーム」へと突入していくのです。中一の時でした。雑誌『宝島』を読んで優越感(東京の雑誌ということで)に浸っていた宮藤少年が「オレたちひょうきん族」にハマるのに時間はかかりませんでした。

ラジオ番組「ビートたけしのオールナイト・ニッポン」の洗礼もすぐにやってきます。そして宮藤少年はネタを考えせっせと毎週ハガキを書き番組へ送りつけ出すのです(ノルマで毎週10通。このことは親には知らせていましたが、友達は部活で朝早く、深夜に「オールナイト・ニッポン」を聴くコアなファンはいなかったので知らせていなかった)。ついにビートたけしによって宮藤少年のハガキが初めて読まれる日がやってきます。「あまりに嬉しくて夜中に一人でウォッカで祝杯をあげていました」。再び取りあげられると深夜3時に親に報告。嬉しさの次にネタへの自信へ。「オレは放送作家になれる」。小学校6年生にして将来を夢見始めたのです。


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