「百�(ひゃっけん)」とは郷里・岡山を流れる川の名前。名作「冥途」や「花火」など何篇もの作品の冒頭はその土手からはじまる。婆やからいつもきかされた「因縁話」。生家は造り酒屋で、中学までは「若旦那」気取りだったが店は父の放蕩で潰れる
黒澤明監督の遺作ともなった映画『まあだだよ』(1993年公開)は、内田百けんがモデル。還暦を祝ったのにまだ死なないので大学の教え子たちが集まってくるのが「摩阿陀会(まあだかい)」だった。最後は、隠れんぼをしていた少年がふと夕焼けを見上げるシーンで、その少年は百けんとも黒澤少年でもあった
内田百(けん)集成24 百鬼園写真帖 (ちくま文庫)
「切々と望郷の思いを書き綴る百�先生は、この時28歳。故郷岡山を離れて7年が過ぎ、陸軍士官学校でドイツ語を教えるかたわら、漱石全集の編集を手伝っていた。しかし、幼少の日々を過ごした山や川の記憶は、いつもみずみずしいまま頭から去らず、日記や随筆のあちこちに噴き出し、百�(ひゃっけん)文学の土台ともなっている」(『百鬼園残夢ー内田百�(ひゃっけん)の揺籃と志』伊藤隆史、坂本弘子著 朝日新聞社 p.28)
『冥土』『旅順入城式』『ノラや』、鉄道紀行を描いた『阿房列車』や『百鬼園随筆』『新方丈記』などで知られる小説家・内田百けん。夏目漱石門下の小説家としてもよく知られ、滑稽で軽妙洒脱にして、得体の知れない不安感や夢幻に満ちた小説は、漱石文学を木霊させています。「阿房列車」は第三まで続編を著し、「目の中に汽車を入れて走らせても痛くない」というほど列車好きだったことでも知られ、また、黒澤明監督の遺作ともなった映画『まあだだよ』(1993年公開 所ジョージ出演:原作 内田百けん)は、かつて大学教授だった内田百けんの誕生パーティーでもあり健康長寿の祝いでもある「摩阿陀会(まあだかい)」(還暦を祝ったのにまだ死なないのか、という思い「まあだかい!」という諧謔精神に溢れた催し)に集う教え子たちとの顛末を描いたものでした。
古今東西の美味珍味を食し北大路魯山人にも匹敵するほどの食通でもあり(借金してまでも飲み食いに全精力をかたむけた。著書に『御馳走帖』等)、借金の妙手として知られ大貧乏時代には、「三畳御殿」と名付けられた玄関のすぐ前が書斎兼応接間に、酒を友とし悠然と過ごし、独特の流儀を貫いた内田百けんとはどんな人間だったのでしょうか。
内田百けんは、明治22年(1889年)5月29日、岡山県岡山市古京町に、造り酒屋の志保屋の一人息子として生まれています。本名は、内田栄造。後に法政大学講師・教授時代、陸軍士官学校独逸語学教授、海軍機関学校独逸語学教授嘱託と3校をかけ持ちしていた30歳前後も、教職という仕事柄本名のままですが、「冥土」「山東京伝」「花火」などを発表し作家としてデビューをかざった32歳からは「内田百けん」という不思議な印象を与えるペンネームが文壇に姿をあらわします(といってもその当時芥川龍之介らだけからしか文学的価値は認められなかったが。広く認められるようになってきたのは小説よりも予想外に売れた『百鬼園随筆』の随筆からだった。身辺雑記を記した随筆を文学作品にまで高めた最初の一人ともいわれている)。最も「内田百�(ひゃっけん)」という号は、遡る19歳の時に参加していた俳句の句会の時にもうけた「俳号」だったので句会仲間では知られていたことではありましたが(最初は、「百�(けん)」でなく「百間」だったが。後の「百鬼園」もそのヴァリエーションの一つ)。
「百�(ひゃっけん)」とは何を意味する言葉なのか。それは郷里・岡山市東部を流れる総延長わずか13キロしかない一風変わった川の名にちなんだものでした。その百�(けん)川は、大きな旭川の氾濫を防ぐための洪水調節用の人工の放水路として江戸時代中期に造られたもので、川幅がちょうど百けん(=約82メートル)だったことから命名されたものでした。つまりは旭川が氾濫しないかぎり、普段は水が流れることはなく、内田栄造少年は暇にまかせてはこの百けん川の土手に寝転んであれこれ考えに耽っていたといいます。そしてこの土手こそが、後の百けん(ひゃっけん)文学が生み出される内面の”土壌”にもなっていくのです。名作「冥途」や「花火」など何篇もの作品の冒頭はこの土手からはじまっています。
冥途・旅順入城式 (岩波文庫)
「高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走っている。どの土手の下に、小屋掛けの一ぜんめし屋があったカンテラの光りが土手の黒い腹にうるんだ様な暈(かさ)を浮かしている……」(「冥途」の冒頭より)
「私は長い土手を伝って牛窓の港の方へ行った。土手の片側は広い海で、片側は浅い入江である。入江の方から背の高い蘆がひよろひよろ生えていて、土手の上までのぞいて居る。向こうへ行く程、蘆が高くなって、目のとどく見果ての方は、蘆で土手が埋まって居る……」(「花火」の冒頭より)
百�(けん)川の土手に寝転れば、橋の上を走り行く列車を臨むこともできました。そしてその列車は「眼の中で走られても痛くない」と思うほどに内田百けんはマニアになっていくのです(乗ったり見たり時刻表を具に調べたり)。そこから生まれたのが晩年の『阿房列車』シリーズです(全国各地にわたる鉄道での道中記。高級料亭より列車中で飲む酒が大好きだった)。
「土手」は、必ずしも百けん川の土手だけでなく、生家の造り酒屋の志保屋の裏にあった土手でもあったようです。その土手の向こうを旭川が流れ、百けん忘れがたき岡山城(別名、烏城)を望むことができました。百けんの生来の酒好きは生家が造り酒屋だったことからも、かなり早いうちに大好きな大手饅頭をさかなに酒を飲みだしています。造り酒屋・志保屋はもともと内田百けんの曾祖父が塩を売る店として始まり、祖父が造り酒屋に仕立て発展させています。婿養子として内田家に入った父・久吉は、商才に長け取り引きを拡大させ、岡山商業会議所の議員にも選ばれ、大阪の三品取引所にも出資するなど町の名士になります。瞬く間に豪商になった人間の性(さが)、遊興にこうじ夕方には車屋を呼んで高級料亭に出掛ける日々。そして本業がおろそかになり店は信用を失墜。百けん14、5歳の時、とうとう店を潰してしまいます。店が傾きかけても将来を悲観する気持ちが起こることもなく、長煙管(キセル)で大人顔負けに煙草を吸っていた「若旦那」百けん少年は、店だけでなく生家すらも手放さざるをえなくなるにいたってようやく事の重大さに気づきます。もう酒屋にはなれない、では大人になって自分は何になるのかと。志保屋の看板が下ろされてから1年後の日記に、百けん少年は次のように記しています。
「六高、東京帝大に進み、六高教授を務めるかたわら文筆活動に励む」と。
作家の収入は不安定なので勉強にまず励み、まず教授になるのだと。そして外面的にはほぼそのようにすすんでいくのです。しかし、どうして百けん少年はそのような青写真を描くようになったのか。幼少期まで遡ってきましょう。
食通としても知られた内田百けんのもっとも古い記憶は、婆やの背中で串団子を食べている記憶だといいます。食べている途中の串を婆やに渡し、家に戻ったら婆やが団子がなくなっていたので串を捨ててしまったといわれ、むずがって泣き出し婆やが捨てた串を取りに行ったというものです。大店(おおだな)の一人息子として婆やや女中にかしずかれ、大事に我が侭に育てられていたことがこの記憶からも伝わってきます。その婆やは「因縁話」をよく知っていて、小さな百けんにお伽噺の代わりに「因縁話」をよく話して聞かせたといいます。信心のある婆やなりの教えだったのでしょう。お稲荷様へのお供えや、氏神様の玉井宮の輪くぐりに招魂社、大雲寺などへのお参りにお祭り、縁日、見世物に連れていかれ、百けん少年の心根は敏感に感応していきます。
尋常小学校に通うようになった6歳(明治28年)の時は、人見知りがあまりに強かったため、婆やに校門どころか教室の入口までついてきてもらっても教室に入ると泣いてしまい、そのまま泣き続け授業もできないほどだったといいます。小学校3年の9歳になっても、家に戻れば母の膝の上にのって、もう出ない乳をしゃぶっていたというほどの超甘えん坊でした。
▶(2)に続く-未
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