15歳で日本に来て東京の軍需工場で働いていた父。父は「在日」集落共同体から一歩外へ出て廃品回収業を興す。文盲の母の祖国への強い思い。姜家族と同居していた在日一世の「おじさん」と日本の大学で法学を学び憲兵になった叔父との関係と影響。中学時代に突然、吃音にかかる
「子供の頃の思い出をたどるとき、単に懐かしいという以上にメランコリックになってしまう。それは、大人になってからもずっと引きずってきた。どうして、メランコリックになってしまうのか。その答えはやはり、分断に象徴される『在日』の境遇なしには考えられない。『在日』には複雑な感情がある。『在日』のある若い世代は、『世界中でいちばん好きな国、日本。世界中でいちばん嫌いなのが朝鮮半島。同時に、世界中でいちばん好きな国、朝鮮半島。世界中でいちばん嫌いな国、日本』その両方が自分の中にあるという。それは極端に矛盾した言い方であるが、わたしにもそれと似たような感情がある。……そういう状態がなぜこんなにも続くのか。
わたしのメランコリーの根源には、つねにこの分裂の感覚があるように思う」(『在日』姜尚中著 講談社 2004年刊行 p.64)
今日の日本で「在日」として最も知られる人物は、間違いなく姜尚中氏でしょう。そして姜尚中の少年期の名前が、「永井鉄男」であり、熊本の「在日」の集落的共同体で生まれ育ったこと、冒頭にあげた「分裂の感覚」からくる苦悩、上京後、早稲田大学在学中に、「祖国」韓国の土を初めて踏み、日本で本名の「姜尚中」で生きることを決めたことなども知られるところとなっています。22歳にしての「姜尚中」誕生は、少年時代から続いてきた「分裂の感覚」が極まってなければありえないことでしたが、そこにフォーカスしすぎると、姜尚中ならではの成長・影響要因がアウト・オブ・フレームになってしまいます。なぜならば「分裂の感覚」を共通にもった何十万人といる「在日」にあって、「姜尚中」の様な存在となった者は他にいないからです。
そしてじつは姜尚中自身、そのことに深く気づいており、自著『在日』のなかで明確に示し書き込んでいるのです。以前、NHKで姜尚中のライフ・ドキュメンタリーをみたことがありますが、記憶では姜(永野)家に同居していた「おじさん」と叔父(父の弟)のことはあまり触れられていなかったようです。『在日』を読むとその2人が姜尚中に独特の「分裂の感覚」を生じさせていたことがわかってきます。と、同時にそこに姜尚中ならではの成長・影響要因に、つまりは太い”根っ子”となっていることがみてとれるのです。
その前に、の両親についてまずは知っておくべきことがあります。姜尚中が見つづけていた両親の姿こそが姜尚中の性根の”芯”をつくりだしていたからです。韓国南部の慶尚南道の貧しい小作人の家に生まれた父は15歳の時に、単身、流転するように日本にやって来ていますが、その理由を姜尚中は歴史のなかに辿っています(日本帝国が朝鮮半島を植民地化して以降、太平洋戦争敗戦時までに、朝鮮半島全人口の20パーセントが生まれ故郷を離れるといった世界的にみても稀有な状況下となる。日本は当時宗主国で、日本と朝鮮は一体であると謳った「内鮮一体」体制にあり、このことが貧しい小作人やその家に生まれた少年たちの”根っ子”を引き抜き、生きるために日本へ誘った)。
姜尚中の父は太平洋戦争が始まる前に、東京へと流転し軍需工場に職をみつけます。太平洋戦争が勃発した年、釜山近くに住んでいた母(当時18歳。韓国にいるときも言葉の読み書きができない文盲だった)は許婚(いいなずけ)の父に会いに東京へ。父が暮らす巣鴨の社宅では母のチマ・チョゴリ姿は好奇の目でみられます。1941年に愛知県・一宮に疎開し(そこで長男・晴男、誕生。夭逝)、さらに西へ向かい熊本へ。熊本・万日山の傾斜地に百世帯以上の祖末なバラックの家が密集する在日韓国・朝鮮人の集落があり、両親はそこに住みはじめ、姜尚中が誕生する(日本名:永野鉄男)。その地は希望を断たれた在日の人々の行き場のない悲しみと怒りが渦巻き、養豚やヤミどぶろく作りで生計がたてられていました。
尚中少年6歳の時、父はある決断をします。それは「在日」の集落的共同体を離れ、周りは日本人だけの場所(夏目漱石の『三四郎』に登場する立田山の山腹で、熊本市内と大学キャンパスを一望できた)。その転居は、姜一家だけでなく、日本人だけの環境の中に放り込まれた尚中にとっても間違いなく一つの転機となったといいます。父はわずかなお金でわずかな土地を取得し、運転免許を取得し廃品回収業の「永野商店」を開いたのです。小さな三輪車の様なクルマ・ミゼットで仕事に出、身よりがなく姜家に身を寄せていた文盲の「おじさん」が、姜家の豚の世話をし尚中の面倒をみるようになります(姜尚中はその「おじさん」が亡くなった時、在日一世だったことを知る)。この在日一世の「おじさん」こそ、小さな尚中に政治の世界の最初の扉を開くことになった人物でした(政治の話が好きなおじさんは、ハンセン病だった知人が訪ねてくると祖国の情勢や政治家について論評し合い話し込んでいたという)。
文盲でありながら政治の情勢について一家言あった「おじさん」と、対極にあったのが叔父(父の弟)でした。叔父は「内鮮一体」体制の下、植民地出身者には珍しく日本の大学で法学を学び、日本人の妻と子供がいました。姜一家が熊本までやって来たのも、大学卒業後に「親日派」の憲兵(軍事警察であったが思想弾圧のための監視もするようになる)になっていた叔父が熊本に赴任していたためでした。また尚中の両親も太平洋戦争中、祖国・韓国に帰郷しようとしていたところに日本が敗戦。自決を覚悟した叔父を父が説得し洞窟に隠れさせ、単身、帰郷します。その3年後に朝鮮戦争が勃発。叔父は朝鮮戦争に法務参謀となって活動。朝鮮戦争後には、弁護士となりソウルで法律事務所を構えています(後に大阪万博の年、日本に残していった日本人妻子を探すが適わず。自らの日本での半生をすべて葬り去り、裕福な家庭の子女と結婚し、祖国で成功をおさめる。姜尚中はこの叔父のことを日本史と朝鮮史の境界に追いやられ境界を彷徨う「鬼胎」だったと語る)。早稲田大学政経学部入学後に、姜尚中を祖国に呼び寄せたのはこの叔父で、尚中は叔父のことを「第二の父」と感じているのです。廃品回収業を興し日本人社会の中に入っていった父と、尚中少年の面倒をみた在日一世の文盲の「おじさん」、そして「親日派」の憲兵となった「第二の父」の存在。これが姜尚中の「分裂の感覚」の大もとにあると同時に、それらが相俟って姜尚中ならではの”根”の張り様をみせていくことになるのです。
そこに祖国のスピリチュアルな儀式を毎年とり行なう母の存在がからまってくるのです。母は毎年下関からムーダン(日本でいう巫女、いたこ)と泣き女たちを呼び寄せ、丸二日間トランス状態になるのいです。厄除けの言葉を発しながら家中を気がふれたように徘徊する母の姿を見て、尚中少年は逆に遠ざかりたい気持ち、反発心に駆られてしまったといいます(かなり後になって共感へと変わっていくが)。このように尚中少年の根はあまりにも複雑な様相を帯び、中学時代に「吃音(きつおん=どもり)」となってしまうのです。
母~オモニ
「ところでじつは、わたしは吃音だった。中学生のある日、突然吃音になってしまったのだ。それが、大学に入っても残っていて、人前で話すのが苦手だった。……韓文研の活動で、声明を読み上げなくてはいけないときや、演説をぶつときなど、とても困った。しかし、どうしてもやらなくてはいけなかったから、仕方なく回数を重ねるうちに、徐々に慣れていったようだ。その後ドイツに行って帰ってきたときには、完全に吃音はなくなっていた。わたしが『在日』であることと吃音であったことはたんなる偶然の一致ではないように思えて仕方がない」(『在日』 p.92)
姜尚中がはじめて「祖国」韓国の地に向ったのは、大学の講義に失望し薄暗い図書館通いを続け、学問の世界を発見したものの、「干物」の様な学問だけでは不安感がおさまらず、かといって「在日」の学生団体「韓文研」の勧誘のままに行動することもできないでいた頃。その当時の頃を次の様に語っています。
「『在日』の影におびえるようにわたしは何かから逃げようとしていたのだ。それまでのわたしの大事な記憶から自分自身が遠ざかっていく浮遊感を覚え、どうしていいのかわからないままだった。大学に在籍してはいたが、授業にはまったく出ていなかった。『何かしなければいけない。しかし何をしたらいいのだ』。問いは空転し、堂々巡りの空しい自問の繰り返しだった。
焦燥感がつのるばかりだった。今にして思えば、バブル経済の始まる助走期、その高度成長期の日本に対しいらだっていたのかもしれない。小綺麗になっていく周囲の光景に憎しみのような情念を抱きつつ、それからも取り残されていく『在日』の我が身に対するやるせなさと怒りのような感情をもてあましていた。心はすさむばかりだった。内面を吐露できる友もいない孤独感がわたしを憂鬱にしていた」(『在日』姜尚中著 講談社 2004年刊行 p.71)
高度成長期下であっても、「在日」イコール「落語者」で就職への門も閉ざされ、屈折しひねくれ、反発ばかりを抱えていた「永井鉄男」にとって、「祖国」体験は大きなターニングポイントになっていきます。本名「姜尚中」を名乗るようになったのもその内的変化のあらわれからでした。行動的になった姜尚中は、学生団体「韓文研」の活動にも加わっていきますが、不完全燃焼のまま卒業をむかえてしまいます(政治的には金大中拉致事件から朴大統領暗殺未遂事件、在日韓国人二世の金嬉老事件など緊迫した事件が多発。ソウル大学で起こった民青学連事件に反応し、姜尚中は「韓文研」のメンバーとして、在日朝鮮人初の芥川賞作家・李恢成-イ・フェソンや大江健三郎らとともにハンガーストライキをおこなったりしている。韓国は軍事政権、北朝鮮は社会主義といったなかで「在日」者たちの政治的関心は極めて強いものがあった)。
姜尚中の青春読書ノート (朝日新書)
姜尚中は青春時代に次の書物と出会い大きな影響を受けたと語っています。それは夏目漱石の『三四郎』、ボードレール『悪の華』、T・K生『韓国からの通信』、丸山真男『日本の思想』、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などです(『姜尚中の青春読書ノート』姜尚中著 朝日新書)
周りの在日の学生たちが就職に際し、さまざまに煩悶する中、姜尚中は学問を続けようと大学院への道へ。大学院では、「近代主義」という”大きな物語”の起源をさぐり、「宗教社会学」の厖大な体系を著したドイツの社会科学者マックス・ウェーバーを研究(姜尚中の処女作は『マックス・ウェーバーと近代』だった)。それが契機となってドイツに留学。ドイツで、韓国・ソウルの地に立って何かが吹っ切れたのと同様、もう一つの何かが吹っ切れていったといいます。
「……このときもわたしの中で何かが吹っ切れていた。『故郷』と『異郷』の狭間を行き来しながら、わたしは世界史の中の『在日』ということについて考えられるようになっていったのである。『在日』は、決して孤立していない。その強い確信がわたしの中に芽生えようとしていた。日本に帰る頃、わたしの中から孤独な侘しい感情は消え失せていた」(『在日』 p.135)
決して孤立していない「在日」という思い、確信はさらに後に「東北アジアに生きる」というヴィジョンと可能性へとひらいていくのです。そして「幾つもの自分」を受け入れる心の有り様へと(『トーキョー・ストレンジャー』姜尚中著)。
マックス・ウェーバーと近代 (岩波現代文庫)
「わたしはこれまでの人生でパトリ(愛国)としての『故郷』を父母の『祖国』に見出すことはできなかった。その意味で、わたしは、日本とも、南北朝鮮とも折り合いがつけられないまま、半世紀余り『在日』で生きてきたことになる。しかし、今ではこの折り合いの悪さ、落ち着きのなさは、逆に新しい可能性に通じているのではないかと思うようになった。その可能性が、『東北アジアに生きる』ということなのだ』(『在日』姜尚中著 講談社 p.216)
とくに学生時代のことや埼玉県在住時に埼玉初の「指紋押捺拒否」者となったこと、デビュー作出版の経緯やテレビメディア出演への背景などの後半生についても書き込まれていますので、興味のある方はぜひ『在日』を読んでみられることをお薦め致します。一世から二世の「在日」の置かれた状況や朝鮮半島との心理的政治的関係など、姜尚中の半生をたどりながら「伝記・自伝」読みを通して掴んでみるのも一つの方法かとおもいます。歴史書と異なり「伝記・自伝」の中で歴史は”生きて”いますから。
▶Art Bird Books : Websiteへ「伝記station」 http://artbirdbook.com
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http://d.hatena.ne.jp/syncrokun2/
在日一世の記憶 (集英社新書)
オリエンタリズムの彼方へ—近代文化批判
国家論—僕たちはいま、どこに立っているのか (中公新書ラクレ)