ジェームズ・ダイソン(1):「発明」の根源にあるもの
若い芽をつぶす英国病の中から現れた”逆風野郎”ジェームズ・ダイソンの「発明」の根源にあるもの。古典人文系の家庭風土だったダイソン家からなぜ「発明家」が生まれたか。意地っ張りで無精で孤立し成績も悪かった少年時代。「ランニング」「絵画」と「木工」が得意に
ジェームズ・ダイソンは、あのサイクロン技術搭載の掃除機の開発者です。2012年時で65歳(1947年生まれ)になります。ダイソン社を設立したのが1993年なので46歳の時。現在はマレーシアに巨大工場をもち、世界35カ国以上にオフィスを構え、ダイソン製品を販売する優れたカンパニーとなっています。
日本でもかなり以前から「ダイソン」の名やサイクロン掃除機の情報をあちこちで目にし耳にしているため、掃除機とイメージすれば、すぐにダイソンの名前が思い浮かぶほどすっかりお馴染みの名前。ご自宅や会社にダイソン社製のサイクロン掃除機がある方にとってはさらに身近な存在でしょう。
サイクロン掃除機を発明したダイソン氏が英国の風雲児だろうということはなんとなく想像しえても、いったいなぜそこまで掃除機に拘泥し開発してきたのかは一般的にほとんど知られていませんし、無論ジェームズ・ダイソン自身のことも同様でしょう。
ところがところが、ジェームズ・ダイソンがサイクロン掃除機にたどりつくまでのライフ・ヒストリーと、発明したサイクロン掃除機を製造し、販売にまでこぎ着けるまでの10年以上に渡る苦難の連続は、想像以上の驚きを読む者に与えます。
そしてダイソンと日本とのかかわりはかなり深いものがあることがわかってくると、俄然興味も増してきます。
「…日本は僕のサイクロン技術を温かく迎えてくれた最初の国。「Gフォース」への愛情に近い熱狂的支持は、僕を破産から救い、成功への道に立たせてくれた。それだけじゃない。自分の技術を受け入れる市場があること、またより良い掃除機への需要が根強いことを証明して、落ち込んでいた僕の気持ちを震い立たせてくれたんだ。とりわけ元気づけられたのは、世界で最先端の技術市場にサイクロンの居場所があると教えてくれたことだ。
その意味で、日本は僕の最大の恩人だと思う(最も当初は日本への参入も取り引き条件などで相当の困難をともなったようです)。
…日本向けの製品を作りたいという気持ちはときとともに強まっていた。…この二十年間、僕は多くの時間を日本で過ごし、人々や文化に親しみ、日本人のツボが何なのかよくわかってきたからね。…問題は、基本的にサイズだった。日本ではサイズが問題になるんだ。…僕らは日本のダイソン社員や消費者の家を見て、掃除機の収納にさけるスペースは二十五×二十×三十五センチほどの狭さしかないことに気づいた」(『逆風野郎! ダイソン成功物語』ジェイムズ・ダイソン著 日経BP社 2004年刊 p.320〜321)
とにかくジェイムズ・ダイソンの半生と『逆風野郎! ダイソン成功物語』は、さまざまな側面と局面から読むことができます。
大企業への寄らば大樹の傾向がますます強まっている日本の若者にとってかなり刺激のある自叙伝となっています(無論、若者に限ったことではありません。ダイソン社の設立は、ダイソン46歳の時ですから)。
たとえばダイソンとサイクロン掃除機は一心同体といってもいい訳で、一つの「夢」を一生を通じて追い続け成功を手にした、とみてしまいがちですが、青少年期のダイソンはあれこれ「夢」を見てはたちまち挫折し、また別の「夢」に取り憑かれるといった風で、サイクロンに出会うまでは多くの人よりもさらに右往左往している一人の青少年だったのです。
しかもエンジニアリングに優れ、それによって「発明」もしたとなれば、理系人間かとおもわれるかもしれませんが、ダイソン家は代々文系で、しかも先端技術とは真逆の「古典」が最も尊ばれる家だったのです。
いったいそんな家からどのように先端技術を搭載した製品を発明する人物が誕生しえたのか。ダイソンはどんな幼少期を過ごし、どんな環境で成長していったのか、また何に影響を受けたのか、10代、20代の若者たちだけでなく、子供やお孫さんのある方にとっても、極めて興味深いものとおもわれます。
まずダイソン家の様子について少々記しておきます。中世の教会が点在し何世紀も昔のまま変わらない景観のイングランド南東部ノーフォーク州にダイソン家はありました。
ヴィクトリア朝様式の広い家に隣接してパブリックスクール(全寮制の私立中高一貫校)があり、父はその学校の古典の教師でした。父は息子ジェームズが誕生して間もなく病気がちになり、ジェームズが小学生になる頃には病院に入院しつづけ、ジェームズ9歳の時に死去してしまいます(癌だった)。この父の若すぎる死がジェームズ(以下、ダイソン少年と記す)に大きな影響を与えることになります。
「…別のこと(古典学者)のことに時間をかけすぎて本望を遂げられずに死んだ父を見て、僕は絶対に同じ轍は踏まないと心に誓った。自分がやりたくないことには引きずりこまれないと決めたんだ。僕も父や兄のように古典学者になるものと思われていたから、ラテン語とギリシア語の授業を放棄したときは、周囲に少なからぬショックを与えた」(『逆風野郎! ダイソン成功物語』ジェームズ・ダイソン著 日経BP社 2004年刊 p.33)
父の本望とは何だったのか。死ぬ少し前に、放送を開始したばかりのBBCテレビに就職が決まっていたといい、じつは古典学者の職業から父は逃れようとしていたことをダイソン少年は知ることになるのです(ダイソン家がずっと古典研究者だったかといえば、じつはそうでもなく祖父はケンブリッジ大学の数学者。父もケンブリッジ大学奨学金優待生。母は17歳で学校を離れると英空軍爆撃司令部に配属され作戦本部の一つでピンをデスク上の地図にさす任務についていた。その後、英文学を学ぶため50歳でケンブリッジ大学に入学)。
父の希望がなぜBBCテレビだったのか。それは父は小柄だったが、熱心なアマチュア俳優であり、またシアター・ディレクターとして学校で演劇を上演することが趣味以上のものになっていたからだったようです(古代ギリシアの喜劇作家アリストファネスなどを上演。手先もそこそこ器用でカエルの人形など自作できた)。ではダイソン少年自身、やりたいこととは何なのか。その自問自答が周りの子供たちよりも強かったようです。けれどもサイクロンの様にうまく人生は回転していくことはなく、「夢」はあちこちでただちに目詰まりを起こしてしまうのです。
父を亡くした9歳の時、ダイソン少年は、いつも何かを横取りされているか落ちこぼれたような、「自分はほかの子と違う」という気持ちに漠然と包まれだしたといいます(9歳の時から寄宿学校に入れられた)。ただ調子のいいときは「自分は特別な存在」だ、とおもうこともあったようです。
どちらにせよダイソン少年はいつも「孤独」を感じていたと語っています(いつも一人で悩んでいたダイソン少年は、後に誰もが同じ様な悩みを抱えているもんだということを知るようになったという)。一方、2歳上の兄と5歳上の姉の存在が、ダイソン少年の性格形成に「特別感」や「孤独感」とは別の感覚を生み出させます。
それは「自分よりずっと大きなものに挑戦しても勝とう」という意識でした。兄姉だけでなく周りの子供たちははダイソン少年より全員年上でうわずえも体力もあり、遊びのなかからダイソン少年は挑戦意識が自然と身についたといいます(父の死は自らを闘争的な人間にしたとも語っている)。
ジェームズ・ダイソン(2)へ続く: