桑田佳祐(2):”天然のソウウツ一家”だった
桑田家に共通する「奇妙な気質」。”天然のソウウツ一家”。風呂で「歌謡曲」替え歌をつくって歌う父にいつも歌わされ。小学生の頃は皆で海で遊ぶこともなく、「透明人間」と遊ぶ”暗い子”だったが、ひょうきんで目立ちたがりな面もあった。音楽の成績はほとんど「1」だった。祖母の言葉、「佳祐の芸能の血は、私譲りなんよ」。
*小学生時代、姉からシャワーのように浴びたビートルズサウンドの後、中学1、2年時には、少年桑田は一転「歌謡曲少年」になる。とくに「内山田洋とクールファイブ」のレコードはすべて蒐集。その後に友人からの刺激で再びビートルズに向っていく。映像は「桑田佳祐ひとり紅白歌合戦(1983年の紅白歌合戦を一人で再現)」から。
▶(1)からの続き:そして「ある独特の『状態』、『環境』」は、じつは姉からだけではなかったのです。父も風呂に入っている時は、スウィング・ジャズやマンボでなく和風に戻り、いつも「歌謡曲」(いしだあゆみや美空ひばり)を歌い、幼い佳祐を一緒に風呂に入れれば、必ずといっていい程「歌え」と言い出すのでした!(しかも父は「歌謡曲」の「替え歌」をつくるのが大好きだった!)。
桑田自身、小学生の頃の父との思い出といえば、一緒に風呂に入っている時の親父だと語っているので、余程強烈な体験が風呂場で起こっていたのだと想像できます。要するに、幼い佳祐に、「歌え」と迫ってきたのは姉だけでなく父もまた同じだったのです(姉の歌好きと、歌えという強引な誘いは父からの影響だとおもわれる)。姉からは「唱歌」に「ビートルズ」、父からは「歌謡曲」(リヴィングではリズム感のあるスウィング・ジャズにマンボも)。桑田佳祐の”根っ子”があきらかに姿をあらわしてきました。しかし唯一無二の「ミュージック・マン」桑田佳祐を生み出すには、桑田家に潜在する奇妙な「共通の気質」と(月の裏側のような)祖母の存在がどうやら必要不可欠な条件だったようなのです。
桑田家に潜在する「ある共通の気質」とは何だったのか。桑田は『ロックの子』のなかで次の様に語っています。
「…結局、ソウウツだと思うんだよね、意外と。おふくろは親父が酒を飲むとソウウツになるとか言うけど、実はおふくろも含めて天性のソウウツだと思うの。俺もそうだし。だから、ウツの状態でないと自分が見えなかったりとか、ソウじゃないと他のものが見えないとか」(『ロックの子』講談社文庫 p.26)
桑田佳祐は、桑田家の家族を「天性のソウウツ一家」だとみているのです。ただ何とも面白いのは、この「天性のソウウツ一家」の話は、これまた桑田ファミリーに共通する別の気質「ヤマっ気」や「直感」の話と相前後していることで、どうもアゲアゲの「ヤマっ気」などは「ソウ」の状態から励起するようなのです。
「あのね、これはうちの親父もそうなんだけど、わりとさ、やってみなきゃわかんないじゃないってとこがあるわけ。あまり理屈言わないで直感でいっちゃうようなとこがあると思うんだよね。……そのヤマっ気とか直感とかが大いに命中するとこあるし、命中しないとみんなイライラしちゃったりするときがあるし」(『ロックの子』講談社文庫 p.26)
では、「ウツ」の状態はどうなのか。桑田佳祐は自身の子供時代を振り返り、「小学生の頃はわりと『暗い子』だった」と語っていることからみて、青年期以降の「ウツ」の状態の前段階の状態が子供時代に発していることがわかります。学校から帰宅後、ひとしきり姉から唱歌やビートルズの洗礼を浴びた後は、どちらかといえばひとり遊びばかりしていたといいます(親に遊んでもらった記憶はなく、海辺で皆で一緒にワイワイ楽しんだこともほとんどなかったという。親もほとんどほったらかしの状態にしていた)。そんな時に佳祐少年の傍らにいたのが「透明人間(「イマジナリー・フレンド」のこと)でした。
本人以外の人は見えない「透明人間」は、<自分の殻>や自分を守る保護膜として作用する小さな頃にしばしば生じる「想像上の友達」のことです(桑田佳祐が後に多大な影響を受けるエリック・クラプトンにも腕白な「イマジナリー・フレンド」がいた)。佳祐少年は大人にバカにされると、ひとり「透明人間」に語りかけたりしていたといいます。中・高校の頃には、さすがに「透明人間」の友達も傍らにいず、気持ち的にはどこか”自閉症気味”の時がずいぶんとあったようです。そういう心理状態の時は、「引っ込み思案」になったようですが、その一方で、「ひょうきん者で目立ちたがり屋」な一面があり、おそらく「ソウ」状態に近い時はその気性はマックスにいたったにちがいありません。
じつは大人になってもこの「ソウ」と「ウツ」の二面性はずっと続いているそうで、そうした気質の面からみても、少年と青年、大人の境目が無いまま成長したと感じているといいます。ある意味、アーティストにとって内向性があることは、自身の内面の「根拠」を探索するうえで決してマイナスになることはなく、むしろプラスといえます。桑田佳祐自身も、「もし自身が恋愛上手だったら、その後の歌詞は書けていなかったし歌っていなかったにちがいない」と語っています(中学の時、どんどん大人になっていく仲の良い女の子に、ガキの自分が追いつけないと感じた時、つまり恥ずかしさを知ってしまって以降、女の子とうまく関係が築けなくなってしまったという。桑田佳祐の恋の歌詞の多くはその裏返しなのだ)。
さて、祖母の存在ですが、実際に、祖母(父方)は「佳祐の芸能の血は、私譲りなんよ」とよく孫自慢をしていたといいいます。祖母は新内を歌い三味線を弾き踊りも上手い、まさに「芸達者」(芸事には厳しかった)。姉の様に茅ヶ崎駅北口にあった祖父母の家で育てられていない佳祐でしたが、幼少時に桑田一家と祖父母は同居しています(桑田自身、ばあちゃんちは「昔風の家」で、両親が住む家は「モダンな家」だったと語っている)。「モダン」な茅ヶ崎で生まれ育った桑田佳祐に、かなり「古風」な一面が”同居”しているのは、祖母の影響の何ものでもありません。高校が鎌倉五山第一位・建長寺に隣接する鎌倉学園(前身は日本で最初の禅寺として知られる建長寺の修行僧学校。男子校である。学園の重要ポストは建長寺の僧侶)だったこと以上に、佳祐少年の”根城”を形づくったにちがいありません。
ここで今少し姉に話は戻ります。「芸達者」な祖母に薫陶を受けた佳祐少年にとって姉の存在がなければ、おそらく今日のミュージックマン桑田佳祐は存在しないか、まったく別の方向に漂っていった可能性があるからです。姉えり子は、「現状にまったく満足できないタイプの人で、ものすごく社交的でアグレッシブな人」だったといわれています。そんな姉の「ビートルズ体験」は狂信的でした。スクラップブックに大量に切り抜いた写真や記事を貼り込み、弟・佳祐に「感動を分かち合う相手」として”一方的”にビートルズを聴かせ、曲の歌詞を訳しはじめたのです(曲を訳しだした頃には鉄人28号好きだった佳祐は一人遊びができるようになり隣の部屋でひとり遊び過ごし出していた。以降、佳祐少年の一人遊びがはじまる)。
ビートルズ映画に首ったけになった姉は(武道館公演に行くことだけは親に強く禁じられた)、映画「ヘルプ」を136回(トイレに隠れ1日繰り返し観る程)、「ビートルズがやって来る ヤァー!ヤァー!ヤァー!」を97回観たといいます。後に厖大なビートルズ・コレクションはビートルズ・ファンクラブに預けられることになります。ちなみに姉えり子が一番好きだったのはジョン・レノン。佳祐が最も影響を受けたのがジョン・レノンだったのも頷けるのではないでしょうか(2011年公開のジョージ・ハリスンの自伝映画を観た時は、桑田自身、G.ハリスンに一番惹かれるかなあ、とつぶやいたりもする。G.ハリスンの名曲「サムシング」を聴かなかったら自分はミュージシャンになっていないだろうとも)。
こんな姉や父に「歌」をしこまれ、「芸達者」な祖母に影響を受けてきた佳祐少年ですが、小学生の時の音楽の成績はなんと「1」がほとんどで、たまに「2」をもらえるくらいでした。その大きな理由は、音楽の先生が大嫌いでしょうがなかったことと(縦笛の上手さを7段階で階級的に位をつけることを嫌った)、父の影響から歌を歌っても必ず余計な「脚色」し(これは現在まで至る、が自曲の替え歌は諌めている)、原曲に悪戯したため先生に目をつけられていたためでした。くわえれば恥ずかし気もなくピアノやら音楽好きだというタイプを当時はなぜか軽蔑していたのです(ピアノだけでなく習字やソロバンなどの塾すらも、”冗談じゃない”と敬遠していた)。
無意識のうちに「ビートルズ」サウンドを浴びせられていたを佳祐少年でしたが、中学に入学した頃からなぜか「内山田洋とクールファイブ」にぞっこんになってしまうのです(レコードも蒐集し、前川清風に髪にポマードをつけ歌い方もそっくりマネして歌っていた)。中学1年から2年までの2年間、佳祐少年は相当に入れ込んだ「歌謡曲少年」(美空ひばりから辺見マリ、石原裕次郎らの曲)だったのです。前川清だけでなく「内山田洋とクールファイブ」全員に化けて歌った姿などがバカ受けだった「桑田佳祐ひとり紅白歌合戦(1983年の紅白歌合戦を一人で再現)」は、「歌謡曲少年」桑田佳祐の”根っ子”をあますところなく明らかにしているといえます。
▶(3)に続く-未
▶Art Bird Books : Websiteへ「伝記station」 http://artbirdbook.com
▶「人はどのように成長するのかーMind Treeブログ」へ
http://d.hatena.ne.jp/syncrokun2/