山口百恵:『蒼い時』に描き込まれた「光」と「影」
1980年引退の年、21歳の時に著された自叙伝『蒼い時』、自らを抉り出し書いていたことの凄さ。喜ぶことの下手な子で「はりあいのない子」と言われる劣等感。「こわいおばさん」のこと。幼少から高校まで殺される夢を頻繁に見続けた「恐怖」。驚くべき「予知能力」。「喝采」が不安になっていったその心性
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「山口百恵は菩薩である」。こう平岡正明が書いた時から山口百恵は、日本人の曖昧なるイメージの中、生きた「菩薩(ボーディ・サットバ)」の如き存在と化していきました(「サットバ」とは「生きている者」の意味。それは母性的なイメージが投影される観音菩薩か、女人成仏を説き女性に篤く信仰されてきた普賢菩薩のイメージでしょうか)。授賞式などで涙を見せることもなく、何処か超越的な眼差しと不思議な色気、それに21歳の絶頂にして引退宣言し、永遠の歌声と若さのままきっぱりと身を引き、「さよならの向こう側」へ行ってしまったことの重なり合いが、そうしたイメージを成すのに影響したにちがいありません。
現在50歳以上の方の多くが、引退した年に出版され当時空前の大ベストセラーになった自叙伝『蒼い時』をきっと何処かで目にしたり一度は手にとられているはずです。
「横須賀ー 誰かがこの名前をつぶやいただけで胸をしめつけられるような懐かしさを覚える。横須賀を離れて8年。私はあの街で生まれたわけではない。小学校2年の終わりから中学2年の終わりまで、6年間を過ごしただけなのに、この想いは一体、何なのだろう。恋いこがれる人を想う気持ちとは違う。かといって、人が故郷を想う気持ちとも違う」(「序章」)で始まる、私たちにとっても何処か懐かしいあの本です。
そして「出生」「性」「裁判」「結婚」「引退」と読みすすんだ方は、21歳にして自らの手ですべてを抉り出すように露わにしたその内容の真摯さと激しさに驚き、「劣等感」からはじまる全体の半分に及ぶ「随想」の内容にまた驚くことになります。自叙伝『蒼い時』の原稿は、引退する前の慌ただしい撮影所や楽屋、ホテルの一室で4カ月かけて自分自身の言葉と手で、不安と戦いながら自らの手で自らを暴きながら執筆したものですが、いまあらためて読み返してみてようやくにして引退の裏にあった「不安」や折り重なった感情がこれほど正直に吐き出されていたのかと驚かされるのです(私自身、20年以上前に古本で購入し、冒頭の横須賀に関することなどを拾い読みしていた記憶があるが、本の半ばに書かれていた「不安」の”根っ子”まで気づくことはなかった)。
たとえば「序章」には、写真家・石内都撮影による写真集『絶唱、横須賀ストーリー』が手紙とともに送られてきて、自分の中にある横須賀とはまったく別の陰のある、血を吐き出しそうな凄まじい横須賀に恐怖を感じ取ったことなどが書かれている。最も私自身、その当時写真集『絶唱、横須賀ストーリー』(1978年刊 群馬生まれで横須賀育ち、後に写真集『マザーズ』『キズアト』『ひろしま』などで世界的に知られる写真家・石内都の処女作)を目にしていなかったこともありほとんど実感が湧かなかった記憶がある。なるほどと思ったのが、「自分の意識の中での私自身は、あの街にいる。あの坂道を駆け、海を見つめ、あの街角を歩いている。私の原点は、あの街ー横須賀」だという山口百恵の言葉くらいだったでしょうか。
最終章に「今、蒼い時…」では、姓が「三浦」に変わる前に「自分が最も知りたくなかった自分の醜さをも、自らの手で暴き」、また自分の中の記憶を確認し「山口」姓の自分を切り捨て、過去を切り捨て、「山口」姓の自分を「三浦」姓のなかに持ち込まないよう、「山口」姓の自分を”終結”させよう(どれも本人の言葉)という強烈な意識を露にしています。まさに自分自身を切り刻む、”根幹”をも断ち切るような厳しい執筆だったと(「正直のところ、苦痛を伴う作業だった」と自身語っている)」。
百恵ファンの多くの人はそれぞれに、自叙伝『蒼い時』に描き込まれた「光」と「影」に触れえたこととおもいますが、スターになって以降の様々な芸能ゴシップ(スター山口百恵を利用しようとしてメディアの前に出て来た実父のことや週刊誌記事に対する裁判など)やあまりにもセンセーショナルだった突然の引退劇などで、ベストセラーになったことでかえって、自叙伝『蒼い時』はセンセーショナルな部分だけ取りあげられ言挙げされてしまったような気がします。たとえば「出生」の章の次の一文の様に。
「父と母は、いわゆる法律的に認められた夫婦関係ではなかった。父には、すでに家庭があり、子供もいた。母を愛しはじめた時、父は母の父に『責任を持ってきちんとします』と言明したという。だが、戸籍に書かれた娘たちの名前の上には『認知』という二文字が置かれている。母はそんな経緯を娘たちにはことさら報せようとはしなかった。
私がそのことを知ったのは、高校へ入学してすぐだった。すでにその頃、芸能界で仕事をしていた私の、ゴシップのひとつとして週刊誌が戸籍謄本を『出生の秘密』と題して掲載したのである』(『蒼い時』山口百恵著 集英社文庫 昭和56年 p.15〜16)
自叙伝『蒼い時』は、故郷ではなく(ちなみに生まれは東京・恵比寿)「原点」の「横須賀」の化粧されていない記憶と思い出に満ち満ちています(山口百恵の作詞時のペンネームは「横須賀恵(けい)」だった)。飾る必要もなく、さりげなく自由であった少女時代が描かれると同時に、自身の”根っ子”を切り刻むように記憶と体験をさらけだしていきます。
「序章」では、「何より、あの街で暮らしていた6年間の私が一番好きだった。自由だった」と記す山口百恵ですが、「出生」の章になると一気に陰がさし、恐ろしい記憶が引っぱりだされます。その場所は横須賀ではなく、5歳の頃、生地恵比寿から引っ越した先の横浜市瀬谷(横浜市の最も西端に位置する)で、記憶がまだ幻や闇とともにあるような場所でした。「こわいおばさん」が何度も登場します。「帰って来るというよりは、やって来るといった方がふさわしい父」に連れられて散歩に出た時に、歩み寄って来た視線の鋭い「こわいおばさん」。木造アパートの外につくられた共同風呂に母と一緒に入っていた時に襲撃され、一緒に撃退した「こわいおばさん」。この「こわいおばさん」こそ、父がもっていたもう一つの家庭の女であり、法律的に認められていた妻だったのです。
最も小さな頃は、そんなことは何も分かる訳もなく、父もやって来れば異様なまでに可愛がってくれ、何かが欲しいと言えば買ってくれ、やって来るのをどこかで心待ちにするほどに好きだったといいます。ところが引っ越し先の横須賀で中学に入学した頃から百恵は父を嫌悪しはじめるのです。父からボーイフレンドがもしできて腕でも組んで歩いたらぶっ殺す、と激しい口調で迫る父の視線が不潔なものに変じてしまい、この頃から百恵の心の裡で実父とはもはや隔絶した関係にむかっていきます。<空想好き>なのは「やって来るのを待っていた」頃の実父との関係に原因があったのかもしれません。
「もともと、私は空想好きである。全人類のうち、三人にひとりが宇宙人だと聞くと、もしかしたら、自分がその三人にひとりの宇宙人かもしれないと思いこんでしまう。だから、直感が当たったり、予知能力めいたものを感じたりするにではないだろうか」(『蒼い時』 p.140)
宇宙人ではなくとも、とにかく山口百恵は、その少女時代かなりの「第六感」や「予知能力」の持ち主だったというのです。初めて来たはずの街でも「路のどこに何があって何軒目に何の店がある」というこということが分かったり、頭の中で会話の台本をつくり、その台本通りに友達に話しかけると、台本通りの言葉が返ってくることを何度も経験してきたといいます。横須賀時代にサンダルが川に流された時、通りすがりの中年男性が川の中に入ってサンダルを拾いあげてくれた時も、数分前にはその通りの「画像」がすでに見えていたと。スカウト番組『スター誕生』の時もその「予知能力」が発揮されるのです。
「何故、あの時、合格できると思えたのか、今もって不思議でならない。目に見えない天啓だったのか、単純な自己暗示だったのか、とにかく発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していたのである」(『蒼い時』 p.118)
このミステリアスな直感力とどれほど直接的な関係があるのか分かりませんが、百恵はUFOや夢についても横尾忠則的な体験談を持っています。幼い頃から高校生の頃まで継続的に「怖い夢」をかなりの頻度で見ていて、夜眠ることと「恐怖」はつながっていました(例えば、部屋のベランダにはりつく巨大な目が、夢の中で外出しても上空を移動しついてくる夢や、銃で撃たれ殺されそうになる夢など。自身が死ぬ夢も)。怖い夢の最後のシーンは、いつも「ひとり」きりとなって残され、こうした夢を続けて見た時には、自分は狂ってしまうのではないかと深刻に悩んでいるのです(高校時代に見た怖い夢は、仕事と学業の両立で自由がない状況が影響したためだろうと自己分析しているが、実際に怖い夢は幼少期からずっと継続的に見ているのだから自己分析はそれ以前の夢には当てはまらない)。例えば強烈な劣等感が作用している可能性もある(最も劣等感は誰にもあるのでこれもまた十全には当てはまらないだろうが)。山口百恵の「劣等感」とはどの様だったのか、自身書いているのでみてみましょう。
「私は、喜ぶことの下手な子供だった。誰かに何かをプレゼントされても、あまり嬉しそうな顔をしないし、何処かへ連れて行ってもらっても、あまり楽しそうにしない子供だった。小さい頃、周りの大人たちは、私に対してこう言った。『はりあいのない子』。
みにくいあひるの子ではないが、それを言われる度に心が痛んだ。いつの間にか私の中で、それは大きな劣等感に変わっていった。しかし、言われたからといって、それを自分で直せるほどの器量は、私にはなかった。
『口の足りない子』だともよく言われた。人に何かを伝える時に、重要なことを言いそびれてしまったり、チャンスがなくて伝えられなかったり、そんな時にいつも言われた言葉だった。それはやはり、大きな劣等感だった。そんな時、自分ではどうしたらいいのか皆目見当もつかなかった。
…この仕事を始めてから、私は様々な賞をもらっている。授賞式で涙を見せない私は、それだけで他の女性歌手と比較され、度胸がいいとか、ふてぶてしいとか言われたものである。これもやはり劣等感を刺激するひとつの出来事であった。…全ての思いが、幼い頃からの劣等感につながっていく」(『蒼い時』山口百恵著 集英社文庫 昭和56年 p.120〜121)
そんな劣等感に心が押しつぶされそうになっていた小学校高学年の頃、百恵は「歌手」に憧れるのです。その頃には歌が好きで、周りの何人かからも「歌が上手ね」と言われ、子供ながらの素直な感覚のまま「歌手」というお伽噺のヒロインを夢見、歌手になるんだと思い込んだといいます。その思いが中学校に入学した後、毎日曜日に見ていたスカウト番組『スター誕生』に登場した13歳の同い年の少女の歌う姿を見て一気に刺激され、自分にもできるかもしれないという気持ちが芽生えてきたといいます(中学2年の夏休みに友達何人かで応募葉書を出したこと、予選当日、友達が行けなくなって結局ひとりで予選会場の有楽町のそごうデパートの8階に向ったこと、1次、二次予選の合格、後楽園ホールでのさらなる予選、そして決戦大会。この辺りに関心のある方は同書をぜひお読み下さい)。
スターになり大きなステージで「喝采」を浴び、華やかなスポットライトに包まれた姿を夢見ていました。ところが実際にステージに立ち、当初は全身をふるわす感覚があったものの、回を重ねるうちに、あれほど憧れたものがある日なんとも頼りないものになりだし、儚(はかな)さや寂しさ、怖さ、不安が勝っていくようになったといいます。忍び寄る「影」の正体は、「不安」だったと語り、その負の感覚を拭い切れなくなっていった様子が描き出されます。
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「私は、大きすぎる喝采とその向こう側にいる人々の存在を愛したつもりだった。愛そうとした。しかし、いくら大きな喝采でも、私はそれをそのまま鵜呑みにはできなかった。その全てを許容するには、喝采のもつ意味はあまりに大きすぎた」(『蒼い時』山口百恵著 p.150〜151)
「喝采」の裏にある心理を必要以上に詮索してしまう山口百恵の心性には、ひょっとして「やって来ては思い切りかわいがってくれたにもかかわらず必ず去って行った父」の姿が奥底に張りついてしまっていたかもしれません。ゆえにその抗えない幼少期からの心の動きを断ち切るためにも自叙伝『蒼い時』は書かれなくてはならなかったにちがいありません。
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