伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

「野口英世」の伝記を大人読みすると何がみえてくるのか。野口家は現在で言う「生活保護家庭」で、家出の多い「崩壊家庭」だった。母の犠牲愛と、男が家に寄り付かない家庭のわけ。「魚釣り名人」と酒飲みの父とは? 隣家に寺子屋、真向かいに小学校が立った。「登校拒否」になった英世 


正伝 野口英世

子供向けの「偉人伝」の代表格の一人、「野口英世」を取りあげてみます。野口英世といえば、世界的な偉大なる細菌学者であり、日本銀行券「千円札」の肖像として、日本人の誰もが知る人物ですが、わたしたちのなかではその実像ではなく、子供時代に読んだ「偉人伝」の中のイメージのままありつづけているのではないでしょうか。

「てんぼう、てんぼう。てんぼうの清作やあい。
 清作はみにくい左手を見られるのがはずかしくて、たもとやかばんのうしろにかくしておりました。だが、あまりからかわれると、がまんできなくなって、とびかかっていくことがありました。しかし清作はからだが小さいし、力もあまりありませんから、いつもまけてしまいます。そして、ひとりぼっちになって、みんながはやしたてる声を、くやしそうにきいているのでした。……『ああ、この手さえじゆうになったらなあ…』とつぶやきながら、人のいないとことに行って、わっとなきだすのでした」(『野口英世 子どもの伝記全集』ポプラ社 1968年 第1刷/ 1993年 第122刷 p.22〜24)

このポプラ社の『野口英世 子どもの伝記全集』は、私が小学校の2年生の時に初版が出版されています。何冊もの伝記本を読んだのを幾らか記憶している中でも、「てんぼう、てんぼう」といったフレーズや他の挿絵など見ても記憶がかなりはっきりあるので、ちょうどこの本の1刷あたりを読んでいたのだろうとおもいます。そしておそらく皆さんも、10代であろうが30代であろうが、40代、50代のひとも、きっと同じ様な記憶があるのではないかとおもいます。
大学や研究所で細菌学を学ぶ場所にいて、野口英世にさらに触れる機会のあたったひとは例外として、おそらくはこの果てしなく古い記憶だけが私たちの「野口英世」像になっているのでしょう。それ以外は日本銀行券「千円札」の肖像として。
野口英世 (朝日選書)
野口英世 (朝日選書)

ここでは中山茂著『野口英世(朝日選書 朝日新聞社1989年刊)北篤著『正伝 野口英世毎日新聞社 2003年刊)を参照しつつ、「野口英世」を少し大人読みしてみます。もっとも知人・友人につねに借金を申し込んだり、とんでもない無駄使いの癖があったことなどは、じつは『野口英世 子どもの伝記全集』にも、「…旅費はもらいましたが、いままでのかりたお金をかえすと、ぜんぶなくなってしまいました。英世は金のつかい方がへたで、こまるたびにいろいろな人からかりていたのです」(p.90)とか「しかし、むだづかいのくせがぬけないので、月づきたくさんのお金をもらっていましたが、さっぱりしょ金はできませんでした」(p.93)書かれていますが、本も半ば過ぎてからのこと、大半の子供はこの辺りまで読む前にほっぽりだしてしまったのであまり覚えていないのではないでしょうか。極貧に育ったのに、なぜ無駄使いばかりしていたのか。そうした気性と仕事・研究面での博打的行為はどこかでつながっている。こうしたことも「野口英世」伝を大人読みしていくとわかってくるのです。
では、野口英世(本名:野口清作)が生まれ育った野口家のことからはじめてみます。『野口英世 子どもの伝記全集』ポプラ社には次の様に記されています。
野口英世—子どもの伝記〈1〉 (ポプラポケット文庫)
野口英世—子どもの伝記〈1〉 (ポプラポケット文庫)

「清作の家には、わずかしか田や畑がありません。ですから、自分の家の仕事だけではくらしていけません。おとうさんもおかあさんも、よその家の仕事のてつだいにでかけなければなりません。そして、わずかばかりのお金をもらってきては、くらしのたしにしておりました。ところが、おとうさんはおさけがすきで、はたらいたお金をもってきてくれません。そして、あまり家のことをかまいつけなかったのです。ですから、おかあさんはひとりで、なにもかもやっていたのです」(p.14)

野口家は母シカが、その忍耐、献身的で犠牲的母性愛でつとに知られているのと真逆に、父や祖父ら代々男性の存在はかぎりなく薄い家でした。『野口英世(中山茂著)によれば、庄屋による野口家の暮らし向きは「下々」よりも下の「無位」。「無位」とは今日でいえば救済を必要とする家庭、つまり「生活保護家庭」であったといいます。しかし今日の様に、地方自治体から個人が最低限の生活をおこなえる様に生活保護費が支給されることなどない時代、赤貧は赤貧を極めたようです。また野口家は今日でいえばかなりの「崩壊家庭」だったようで、たとえば祖母の2度目の夫善之助(養子)は行方不明になり、英世の母となるシカが小さい頃に祖母(シカの母)も相次いで家出(後に戻る)。曾祖母が茶店の使い走りをしながらシカを育てます。養子として入ってきた英世の父も、年貢をおさめる義務の「相続」、つまり貧窮状態を相続をされただけで、結局、発展性の見込めなかった農業労働を嫌うばかりだったのです。また一般的に父・佐代助は大酒飲みの風来坊だったといわれていますが、初期の郵便事業の「逓送人(飛脚)」となって明治の世を25年もの間ずっと走りつづけています(父は根っからの酒飲み、風来坊などでなかったことがわかる。会津藩は土地の農民からは支持されず、戊辰戦争会津藩が籠城の末崩壊した後、大きな農民一揆が幾つもおこっている。佐代助はこのとき会津藩側でなく官軍側の輸送隊に徴用されている。大酒飲みになったのはこの時の悲惨な光景の影響だとも)
わかりやすい会津の歴史 幕末・現代編
わかりやすい会津の歴史 幕末・現代編

存在感のまったくない父・佐代助ですが、英世や他の子供たちの間では「魚釣り名人」として人気があり、英世は父に対して憎悪なく、いとおしみすらもっていたといいます。家の事情を悟ってのこととおもわれます。結局は、母シカの奉公や行商、便利屋(29歳の時から40歳まで、峠のある20キロの道のりを荷物を背負っての重労働の運搬をしている)など献身的労働で支えられ、また感謝の念をもってはいましたが、英世の姉も英世自身もこんな家に生涯縛られるのはいやだと反発したのでした(姉は18歳のとき女中奉公になろうと家を飛び出す)

「あんな家を継ぐのなら、死ぬ方がましだ、と少年に思いこませるほどの家、姉も弟もひたすらに家からの脱出を願っていた野口家。母シカがいなかったら、とっくに崩壊していたはずの家である。こんな所でそのまま朽ちてはたまらぬ。家からの、故郷からの脱出、これは野口家に生まれた人間の悲劇であった。この悲劇が父祖には城下町への仲間奉公、野口の場合は後に若松へ、東京へ、そしてアメリカへと脱出する駆動力となってあらわれたのである」(『野口英世』(中山茂著 朝日新聞社 1989年刊 p.13)

そして運命の左手の火傷は、英世が1年五ヶ月の時のことでした。母は大火傷をした英世を隣家で寺子屋をひらく法印様の所に連れて行きます修験道をおさめた陰陽師で加持祈祷をしてもらうがそのかいもなし。明治初期のこと、会津若松に西洋医学の支病院ができるのは英世の火傷の半年後のこと)。隣の家が寺子屋だったことは、野口家の前の通りをはさんだ真向かいに小学校ができたことと合わせ、母シカや英世少年にとって大きな意味をもつことになります(その小学校は、母シカが奉公し、周りから「親方様」と呼ばれていた家の一部を借り受けて開校した学校だった)
明治16年(1883年)、小学校にあがった英世少年は「手ん棒、テンボー」と言ってからかわれ、くやしい思いをしたとたいわれていますが、最初は「清ボッコ」と呼ばれていたようです(「清ボッコ」と呼ばれる方が多かったとも。「ボッコ」とは下駄の溝に固まって盛り上がった雪のかたまりのこと。その塊が英世少年の左手に似ていた雪国の子供らしいあだ名。5、6歳になると左手は必ず隠すようになり誰にも見せなかった)。英世少年は、その火傷が禍いし無口でおとなしく、いつも口をポカンとあけているよう子供だったと言われていますが、(幼少は小柄だった体つきも)次第に体つきがガッシリとなり、からかわれると激しく怒り飛びかかっていったといいます。しかし、心に受けつづけた傷から小学3年の時「登校拒否」に(当時はまだ欠席に対して学校側も神経質でない。農家の子供は手伝いの時には休むことがふつうで学校と家庭との連絡もほとんどなかった時代。「義務教育」という言葉も観念もまだない)。子供向けの野口英世の伝記でよく知られるのが次のシーンです。

「つらいだろうね。ゆるしておくれ。でも、ここで勉強をよしてしまったらどうなることだろう。せっかくのくろうも、なんにもならないよ。わたしにとっては、おまえの勉強のすすむことだけが、たのしみなんだからね。つらいだろうけれど、ひとつがまんしておくれ。
「おかあさん、ゆるしてください。わたしがわるかったのです。もう、ずるやすみなんか、けっしてしませんから」ふたりはだきあってなきました。清作もそれからは、いっそう勉強にはげみました。一年から三年までは、一番になれませんでしたが、四年のときには、みごとに一番になりました」(『野口英世 子どもの伝記全集』ポプラ社 1968年 第1刷/ 1993年 第122刷 p.26〜27)

野口英世 (コミック版世界の伝記)
野口英世 (コミック版世界の伝記)
優れた成績の中でも算数がとびきり優れていました英世少年。ところが「修身」だけはどうしても良くなかったのです(体操は不具ということで免除)。「修身」は半分が筆記で、半分は担当先生の判断でつけられるのです。この「修身」の悪さこそが、「野口英世」をふつうにはありえないであろう、センセーショナルな人生へと向かわせるのです。大人の教育者からすれば、「野口英世」の本当の姿や気性は、あまり知られたくないほどなのです。それはアップルの創業者スティーブン・ジョブズアインシュタインジェームズ・ダイソン立川談志らの少年期とどこか通底しているところがあるのです。
そこが興味深い部分なのですが、当然というか子供用偉人伝では、たとえ書かれてあってもきわめてあっさりとしか表現されません。そして、中学に入学する頃には、少年少女たちと「伝記」が接点をもつ機会も場もほぼなくなります。部活動や遊びに忙しくなり、また将来の「進学」と「就職」にむけ、誰かの「伝記」どころではなくなっていきます。おそらくは99パーセント近くのひとが、中学入学以降、20歳を過ぎて以降も、よほどの偶然がないかぎり「伝記」に接することはなくなります。せっかくの貴重な「人間の体験」は、小学生用の用途に換骨奪胎され、(古)書店や図書館の奥にひっそりと積まれ、並べられるだけになるのです。
大人が読んだことのないものは、ほとんどの場合、その子供たちが読むなんてことはありません。大人が「伝記・自伝」を知らなければ、子供もそれらを知りません。だからまずは大人たちから読んでみる。すると他人の生涯をつづった「伝記」にもかかわらず、自らの体験や人生が<鏡>の様に映し出されます、向ってくるのです。「人生」とは、「未来に点を結ぶのではなく(それは不可能)、過去の点(体験や知識、人間関係など)を結びながら前にすすんでいくことでしか生きられない」(スティーブ・ジョブズ)ということが分かって驚嘆するしかなくなります。<未来の種>は、そのほとんどが「過去」にある、その<結び方>にある。「伝記」はそのことを如実に伝えてくれるのです。
▶(2)に続く-未
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野口英世
野口英世の生きかた (ちくま新書)
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幕末の会津藩—運命を決めた上洛 (中公新書)
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