伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

アインシュタイン(2):4、5歳の時の「驚き」。「羅針盤」と「電気」

アインシュタインの生涯は、4、5歳の時の「驚き」の延長にあった。父が持ってきた「羅針盤(コンパス)」にはじまる。父は当時の新興産業分野だった「電気」を、数学好きの叔父とともにはじめていた。10歳の時に毎週家を訪れていた医学生青年から教わった数学と「科学実験」を紹介した科学書

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アインシュタイン(1)からの続き:磁石の針を動かす<隠れた、見えない力の場>、<自然現象の不思議な力>。それはまさに電磁場であり重力場であり、そこから飛び出してくる光子など、後のアインシュタインが生涯をかけて探求することになったものだったことをおもえば、すべては4、5歳の時の「驚き」の延長にあったといえます特殊相対性理論の有名な論文は電磁場の効果の考察に始まり、一般相対性理論重力場の記述が基礎となっている。死の直前に走り書きしていたのは「場の方程式」だった)

先の「私は天才ではない。ただ、ほかの人より一つの事と長く付き合ってきただけだ」とアインシュタインが応えた、<長く付き合った一つの事>との遭遇が、4、5歳の時の時の「驚き」だったのです。
ほとんどの場合、小さな時のこうした素直な「驚き」は、その場限りものとなる運命にあるでしょう。アインシュタイン少年の場合、なぜその「驚き」がその後もずっと「延長」していったのでしょう。
「”驚き”からのつづけさまの飛翔」アインシュタイン自身の言葉)がなぜ可能となったのでしょう。このことこそ「伝記ステーション」ならではの肝要の部分となってくるものなのです。


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それは「資質」とか「(家庭・学校の教育)環境」、強烈な「意欲」とか、「遺伝」とかだけに収斂させることができようもないことが、アインシュタインのケースでもおこっていたということです。

「資質」や「(家庭・学校の教育)環境」に単純明快に振り分けられるようなものでなく、それらが織り重なり精神的土壌(根っこ、地下茎)となり、さらにそこにそれを強化、深化させる刺激や人間関係、体験が積み重なった時に、内部から沸き起こってくるもの、なのにちがいありません。

たとえば父から与えられた「羅針盤;コンパス、方位磁石」だが、父は単なる遊び土産として病気で寝ていた息子アインシュタインのために買ってきたわけではないということです。
どういうことかというと、父ヘルマン・アインシュタインの職業が何だったか覚えておいででしょうか。電気関係では? 当り、ですアインシュタインが生まれた時は、ドイツ・ウルムの町で羽毛ベッドのセールスマンをしていたが、もともとは「電気工事店」を営み、その経営に失敗し英国風酒場に一時期商売変えもしている)

なんといっても興味深いのは、当時の最先端の新興産業分野だった「電気」にまつわること、「電気」に関する様々な話し合いが、アインシュタイン家の「家庭環境」にかなり頻繁にみられたということです。
父ヘルマンにとって「羅針盤;コンパス、方位磁石」は、極めて身近なものでした。電気関係とはどれほどのものだったかといえば、アインシュタイン誕生後の1年後に叔父(父の弟)ヤコブとともにガス水道工事店を開き、その5年後に「発電機」「測定器」「アーク灯」を製作する小さな工場を立ち上げ、ミュンヘン市郊外や南ドイツの地方自治体に電線を付設し電気を供給しはじめていました(叔父ヤコブは優れたエンジニアで、アーク灯、自動ブレーカー、電気使用量メーターの改良で特許を獲得。父ヘルマンは商売には不向きな性格で、ミュンヘンにいた弟ヤコブから事業への誘いがあった。

技術面は叔父ヤコブで、父ヘルマは資本を出し営業を担当し事業を支えた)。事業はある時期まで順調に推移し、北イタリアの町パヴィアの「発電所」の建設工事やイタリア各地で電機事業を立ち上げていきます(ちなみにアインシュタインチューリッヒ工科大学に通う頃には、ミラノへと事業を移したアインシュタイン家はスカラ座近くの古い屋敷に住みだしている)
今日で言えば、原子力エネルギーに代わる「新エネルギー技術」のことや、「インターネットTV」といった様なことが家庭内で日常的に話されていた家庭に生まれたといえるでしょうか。

しかも面白いことに、聡明だった父ヘルマンは、温和で優しい性格が事業に禍いし、酒場も羽毛ベッド販売も失敗、商売には不向きな性格だったといわれていますが、じつは少年の頃から「数学」に関心を示していたといわれています。当時の家の経済事情で高校や大学に行くことができませんでした。元来そんな父が商売上手とはいきません。

そして父の元来の「数学」好きに加え、大の「数学」好きの叔父ヤコブアインシュタインもまた電機事業を父と共同でおこなうようになって以降、アインシュタイン家と同じ建物に住んでいたのです!(このことはアインシュタインの多くの伝記本ではほとんど触れられていません。知りうる限りで唯一触れているのは、『アインシュタイン 上巻』B.G.クズネツォフ著 合同出版 1970刊 p.34)

なぜ父も叔父も「数学」好きだったのか。それはアインシュタイン が1歳の時にミュンヘンに引っ越したため、あまり重要な生地とは一般に考えられていないウルムの町にその要因があるようです。
「ウルムの人は数学者」「ウルム市民は数学が得意」というのが古くからの町のモットーだったのですアインシュタインが誕生し『アインシュタインの生涯』ゼーリッヒ著 湯川秀樹序文 東京図書 1974年刊)
フランスの数学者でもあるルネ・デカルトが「解析幾何学」の着想を得たのが、軍隊の野営での夢の中だったという逸話もウルムの町にはあります。
また後に触れることになりますが、アインシュタインにある常識にくってかかる「反権力」意識には、ウルムの町の反カトリック教会や反帝王権力の歴史的スピリットの水脈の一部が流れ込んでいるようです。

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こうしたことからも「天才アインシュタイン」は、個人としてのアルバート・アインシュタインの資質と努力だけからなったとは到底考えられない、というわけです

アインシュタイン少年が、10歳の時、一人の貧しい医学生が週に一度、アインシュタイン家を訪れ一緒に食事をとるようになっていました安息日に生活の苦しい宗教学者を家に迎えて食事をするのが古いユダヤのしきたりだった。
その変型としての貧しい医学生の接待)
。当時21歳のタルムート青年は、『国民自然科学読本 - People's Books on Natural Science』といったドイツでおこなわれた科学実験について詳しく紹介した大衆向けの科学書を持参し、アインシュタイン少年に教えたのです。なんとその21巻にものぼるそのシリーズの第一巻の冒頭が「光の速さ」を扱ったものでした。


『国民自然科学読本(みんなの自然科学)』の著者アーロン・ベルンシュタインはそのシリーズのなかで次の様に記しています。「光は種類によらず速度が正確に同じであることが立証されているので、光速の法則はあらゆる自然法則のなかで最も包括的なものということができよう」

「ベルンシュタインは全ての自然界の力を統一したいと思った。たとえば、光のような電磁現象は全て波として考えられることを議論した後に、重力についても同じ事が成り立つのではないかと推測した。そしてベルンシュタインは本の中で、われわれの認識が適用する全ての概念は、その下に単一性と単純性が基本として横たわっていると述べている。科学における真実は、この横たわる事実を記述する理論を発見することにある」(『アインシュタイン:その生涯と宇宙』p.41)

医学生タルムートとの出会いは、アインシュタイン少年に決定的な影響をもたらします。もしこれが何十人もの子供たちを一斉に教える今日の様な学習塾であったならばこうした「セレンディピティ(幸運な偶然、偶然力)」がもたらされる可能性はかなり低くなるでしょう。

青年タルムートは自然科学に関心を深めていったアインシュタイン少年に、「数学」の世界を教えはじめます。学校で数学を習うよりも2年前のことでした。アインシュタインは、「ユークリッド幾何学」の世界にある明快さに夢中になります(この頃アインシュタインは友だちと一緒に遊んだり、娯楽小説を読むことはなかったといわれている)アインシュタインは毎週一度タルムートがやってくるのを楽しみにするようになり、問題を解いてそれを見せるのを心待ちにするようになります。

少年アインシュタインはわずか2、3カ月で「幾何学」の本を勉強し終え、医学生タルムートを驚嘆させ、高度な数学へと熱中しだします。結果、数学はもはや青年タルムートの教えられる能力を超えてしまったため、その代わりに哲学者カントの著作を読ませ、教え出します。

カントの『純粋理性批判』を皮切りにアインシュタインの関心は、デビッド・ヒュームやエルンスト・マッハへと向かっていきますアインシュタイン、当時12、13歳。とにかく機械的な反復練習や、じれったい質問に始終する授業のやり方への嫌悪はつのるばかりだった)

こうした読書を通じて、アインシュタインの裡で「形式の教義」と「権威」に対し、強いアレルギー反応が育まれたといわれています。

『聖書』の中で語られる真実さへの疑問、宗教的儀式への意識的な距離感など、反権威の姿勢は、政治的なものから科学的なものまですべてにわたっていきます。

「この経験から、あらゆる類の権威をうさん臭く思う気持ちが生まれ、そうした態度が再び失われることはなかった」と。また「権威を思慮無く信じることは、真実にとって最悪の敵である」と公言する非順応主義者となったのです。
こうした懐疑主義と「定説」に対する「抵抗感」こそが、既成の科学的考えに挑戦する勇気、強靭な独立心となって、アインシュタインの研究を方向付けていったのです。もしこの精神的バックボーンがなければ、物理学における「アインシュタイン革命」は絶対におこらなかったのです。

ところがその2、3年後の15歳になった時のことです。成功していたはずの電気会社の経営が突然傾きはじめます。シーメンスなど他の電力会社との競争が激化したのです。ついに借金が重荷になり倒産(資金調達で家を抵当に入れていたため、アインシュタイン一家は叔父ヤコブとともにイタリア・ミラノへと移住。アインシュタイン少年だけはミュンヘンの親戚の家に残る)アインシュタイン家が経済的に問題なかったのは、アインシュタインが6歳から15歳までのわずか9年の間だけでした。


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よく知られているように、アインシュタインは後の23歳の時、友人の口利きでスイス・ベルン市にある特許庁に3級技術専門職(審査官)に就くわけですが、その2年前の21歳頃から、保険外交員や家庭教師のアルバイトや臨時の代理教員をして収入をえていたのは、人種的背景や学校や受験勉強に対する懐疑だけでなく、こうした家の経済状況があったのです。
そうした面ではこの厳しい時代に生きる私たちと、時代が違えどもどこか似たところもあったのです。
アインシュタインもまた、険しい時代を生き抜いた家族のなかに生まれた人間だったのです。

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