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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

野田秀樹(1):芝居の”根っこ”にあるもの

野田秀樹坂口安吾の生まれかわりであった?!(野田秀樹本人談) 野田秀樹の芝居の”根っこ”にあるものとは。幼稚園の頃からずっと感じつづけていた「よそ者意識」と違和感。小学校時代、笑顔だが悪童、頭の回転がよく、この頃から「身体」がきびきびと動く少年だった


野田秀樹 (日本の演劇人)

「1955年(昭和30年)2月17日、坂口安吾、桐生の町で永眠する。2月18日、坂口安吾の魂は、日本列島を東海道沿いに、西方浄土を目指す。 

2月25日、さらに坂口安吾の魂は、交通機関の発達していなかった当時としては、格安の料金と時間とを浪費して、やっとの思いで、日本列島から海外への唯一の窓口、長崎へ到着。


2月26日、そこで坂口安吾の魂は、お釈迦様に、次は一体何に生まれ変わるのかを、聞いてみたところが、「イモリかタモリか、そんなものでしょう」と言われて、生きる意欲と西方浄土への意欲を失くし、雪の降る長崎の町で、青年将校の魂を引き連れて、私の母親の胎内にたてこもる。

お釈迦様でも気がつくめえ。12月20日、たてこもること10カ月、ついに坂口安吾の禁欲的な魂は、野田秀樹の魂として生まれ変る。……


 1958年 2歳 人格の寸法が、はっきりしてくる。タテヨコ2センチ5ミリ。拡大してみるとー人見知りだが、社交性だけはあり、気は利くわりに、すぐぼけっとする、神経質そうに見えても、ちゃらんぽらん、根は不真面目だが、その実ひたむき、心優しくて、底意地まで悪い、臆病でなおかつ、大胆不敵、あきっぽいくせに、どこか粘り強い、明るく爽やかなうえに、芯まで暗い。

考えれば考えるほど分裂気質。人間性格なんてわかんねえもんだ。……」(『野田秀樹』責任編集・内田洋一 白水社 p63~64 戯曲『怪盗乱魔』巻末掲載の「たかが人生」より)

劇団夢の遊眠社を立ち上げた小劇場の旗手、NODA・MAPの主宰者、また中村勘三郎(当時の中村勘九郎)との交流から生まれた野田版歌舞伎(『野田版研辰の討たれ』『野田版鼠小僧』『野田版愛陀姫』)。


日本の現代演劇の舞台だけでなく、夢の遊眠社解散後に演劇留学したロンドンや、最重要作品の一つ『赤鬼』でのロンドンやタイ、韓国公演で、まさに”東西ートーザイ”に疾走してきた(2012年春国内数カ所で公演される『The Bee』もニューヨーク、ロンドン、香港と公演されてきた)野田秀樹の芝居は、つねにサプライズな”更新”があり、「芝居」でしか味わえない”もの凄さ”があります(私も1983年に上演された駒場小劇場での『野獣降臨』を観て以来のいちファン)

ひつまぶし

21歳の時、東京大学演劇研究会を母体として「劇団夢の遊眠社」を結成したことは野田ファンにはよく知られていますが、なぜ野田秀樹が究極的な芝居小僧になったのかは、かつての夢の遊眠社ファンであっても野田ファンであっても、それほど知られていないでしょう。

せいぜいが長崎生まれで、父の転勤で東京・代々木近くに引っ越し、どこか都会の空気に馴染めず疎外感を感じつつも、一方でめきめきと知力をあげていき、東大(法学部)に入学。そこで演劇研究会に所属し、脚本を書き出しその才能が開花、演技にも凝り出し、大学を中退して以降そのまま一気に劇団のリーダーになっていって一躍大ブレイク。おおまかにはそんなところではないでしょうか。

ところがそこでは演劇に関しては、東大演劇研究会に所属して以降のことしか触れていないことに気づかないでしょうか。


東大演劇研究会に所属し、突然変異的に演劇の才能が開花した、やはり東大に入る者の頭の構造は人とは異なると。でもこれではなぜ野田秀樹が、芝居小僧になったのか説明もひったくれもありません。


頭がいいから東大に入り、頭がきれるから演劇の才能が開花した? 


でも東大生の99.999%は、決して食えない演劇の道に好んですすんでいくことなどありません。ではなぜ野田秀樹は、芝居の道に向っていったのか。

そこにはじつに興味深い背景(場的環境)と出会い(人的環境)が関係していたのです。

まずは冒頭で紹介した様に、坂口安吾の魂が西方浄土を目指し「お釈迦様でも気がつくめえ」と生まれた長崎ですが、同じ長崎でも三輪明宏や福山雅治が生まれ育った異国情緒漂う長崎の街並のなかではなく、その長崎市と平戸の中間辺りの半島の出っ張りの佐世保から50キロ程)、さらに五島列島へ向いた細長い半島の先にある、今では道路一本でつながった小さな島々の一番先にある小さな島に生まれたのでした。


「30歳のころ崎戸を訪ねたら、炭鉱の跡はまさに廃墟でした。…父親にどのあたりに住んでいたか聞いて行ってみると、そこは4階建ての共同アパートで、自分たちの住居だったと思われるところには人がまだ住んでいた。
島のてっぺんでしたから、海の絶景が見える。こんな景色を見ていたんだなあ。『赤鬼』という芝居に崖の上から海を見る場面がありますが、あの絶景の記憶がどこかで影響しているかもしれません」
(『野田秀樹』責任編集・内田洋一 白水社 p56)

野田秀樹(2)へ続く:

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