伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

中上健次:「路地」の記憶から

熊野信仰の中心地・新宮市の「春日地区」とはどんなところだったのか。そこにある「路地」を描きつづけた理由。小説『枯木灘』『鳳仙花』『千年の愉楽』などには、実在のモデルが存在していた。父は盛り場のアウトローとして名を馳せていた


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春日町の、汽車が通る度に汽笛が家の中にいっおあいに飛び込んでくる線路そばに生まれ、そこできょうだいらと小学二年生まで住んだので、春日という土地がなつかしくてたまらぬ。愛おしくてならぬ。小説家としてデビューしていらい、小説のことごとくをこの春日と覚しき路地を舞台に取って書いてきたが、いまこの新宮に来て、愛おしさの熱病のようなものにかかっているのに気づく。小学二年の時、現在の私の姓氏である中上の男と内縁関係になった母に連れられ、春日を出たのが、その春日という土地への熱病の第一の原因だが、自分が数々ある庶民の物語の主人公でもある気がするのである(「祖母の芋」全集第14巻/「評伝 中上健次高澤秀次 p.112 )」

枯木灘』『鳳仙花』『地の果て 至上の時』『奇蹟』、尾崎豊の「十七歳の地図」のタイトルにも影響を与えたという短編集『十九歳の地図』や同じく短篇集『岬』『千年の愉楽』『熊野集』『水の女』『重力の都』など、また随筆の『ジャズと爆弾 中上健次 VS 村上龍』『都はるみに捧げる』『甦る縄文の思想』『夢の力』『America, America』など数多くの著作を残し、わずか46歳にして亡くなった稀代のヘヴィー級・小説家中上健次をとりあげてみます。


中上文学をそれほど読み込んでいない方でも、『枯木灘』や『岬』、『紀州:木の国・根の国物語』、それとも写真家荒木経惟と生み出した『物語ソウル』の本を手にとったり、あるいは韓国の詩人金芝河(キム・ジハ)との交流、評論家柄谷行人氏や都はるみとの長い付き合い、故郷・熊野新宮市での活動熊野大学など)や描きつづけた「路地」のこと、浅草に出る前のビートたけし永山則夫がバイトしていた新宿ジャズ喫茶「ヴィレッジ・バンガード」の常連客だったことなど、どこかに記憶されているかもしれません。

数多くの著作や活動は、中上健次自身の野太い”根っこ”につながっていることはうすうす感じてられる方も多いことでしょうが、それがどういうことなのか「伝記ステーション」で掴みとってみたいとおもいます。まずは氏の小説の登場人物の多くに、<実在のモデル>が存在していたということです。背景やシチュエーションにフィクションが入りこんではいきますが、『鳳仙花』の子供たちを抱え古座の製材工場で働きながらも私生児を孕むトミや浜村龍造は、健次の母ちさとと父鈴木留造であるし、『千年の愉楽』のオリュウノオバのモデルは代理母として生きた路地の産婆田畑リュウであったし、『枯木灘』の主人公・秋幸は健次同様に私生児で、義兄は首吊り自殺、義姉は気が狂ったのでした。『地の果て 至上の時』にも引き続き私生児秋幸と父留造が登場しています。そしてそのすべてに描かれるのが「路地」でした。「路地」とは何であったか、今一度確認してみましょう。


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「それはごくありふれた路地の日常である。子をもつ女がよその男のもとへ走り、そこまた子が生まれる。男もまたよその女といい仲になって子が生まれ、新しい所帯を持つか、もたずにまた別の女へ走る。差別のために路地では路地以外の者との婚姻がままならず、それで路地の者どうしの婚姻が増え、多情多恨の路地の者たちは蜂のように蜜を運び、花のように受精した」高山文彦著『エレクトラ中上健次の生涯』より p29)

「路地」とは同じ新宮市でも、「春日地区」にしかないものだったことがわかってきます。新宮市春日地区、つまりは新宮で最も古い歴史をもつ「被差別部落」のことだったのです。中上健次(当時はまだ、結婚する前の「なかうえけんじ」という姓名ですらなく、木下健次という名だった)はこの「路地」に幼い頃住んでいただけで、母ちさとが再婚すると同時に新宮市の野田地区へと転居してしまいます。転居先は市の新興地で、そこには「路地」はなかったのです。これが中上健次に決定的な動機と契機を与えていきます。まさに「三つ子の魂百までも」です。ウィキペディアはだいたい単純化される傾向があるので、中上健次被差別部落出身と表記してしまっていますが、「血」からみれば中上健次の身体のなかには、春日地区の「路地」の血は入っていません(『高山文彦著『エレクトラ中上健次の生涯』)


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どういうことかというと、母ちさとも実父の鈴木留造ももともと春日地区の外部の人間だったからで、古座川の河口の西向と三重の熊野市からそれぞれ流れ者のように新宮市の「路地」へとだどり着き居着いたからでした。その地は、「人と人とが蔦のように縒りあわさり絡みつく一本の大きな樹木のよう」高山文彦エレクトラ』)で、昼間から酒を飲んでぶらぶらしている人が多かったことが鈴木留造を、この路地に引き寄せたのでした。しかし、多くがぶらぶらしている訳は、この路地の者たちが差別の目で見られていたため材木担ぎや丸太を使った木馬引き(木場や製材所が多かった)か下駄の修繕(女も下駄の修繕手伝いか行商)の仕事にしかつけなかったためでした。27歳になっていた母もまた行商の仕事ならそこでなんとか就けたために居着いたようです。
枯木灘 (河出文庫 102A)

「昭和二十一年 飢餓の喜びにふるえた 女の 陰部から ビロードの不幸をまとって 父のない 流動体のスピロヘータが とびだした 四歳の時、髭の感覚をともなった男が 網走までの 片道切符をくれた。 隣家の二羽には固いつぼみのバラが 神話を語っていた。 十一歳 山々の連りに 圧しつぶされても 歌うべき生命を知った。 十三歳 人々は密殺の企てを 夢に きらびやかな虚栄をまとって 嫁いだ。……」(「履歴書」1966年より抜粋;19歳の時の詩/地元の文芸の会「道」の同人誌に掲載)


中上健次は1946年、8月2日、母・木下ちさとの第6子として、和歌山県新宮市新宮に誕生しています。新宮は「記紀」の世から日本の神話にあらわれる地で、それは大和に平定された隠国(こもくり)であり、熊野信仰の中心地であり寺社町、城下町です。かつてはその地の中程に臥龍山がありそこより海寄りを熊野地、熊野の山寄りを新宮と呼んでいました。その新宮の方に繁華街も盛り場も遊郭もあり、健次の実父鈴木留造は、そこで博打と喧嘩で名を馳せシャブもやるアウトローとして知られた人物だったのです。

通称「イバラの留」こと留造は、「路地」でかき集めた朝鮮人を何人も引き連れた喧嘩好きの無頼派でしたが、一向宗徒の頭で武装化した雑賀一族の末裔が自身の”根”にあると語っていたようです。鬱憤を晴らせば再び留置場へ。その繰り返しで結婚生活も半年未満。健次は私生児として誕生することに(ちさと六月ーむつきの腹の時、父留造は賭博で逮捕。上の健次の詩にある網走とは、父が網走刑務所に送られたとのことを言う)。しかも博打で上げれば春日で最も羽振りをきかせていた「イバラの留」は、時を経ずして母の他に2人の女をつくり、同時に妊ませていたのです。
小説『火宅』のなかで、刑務所から出てきた実父がやってきた時に「お父ちゃんとちがう」と言って追い返したことが描かれていますが、それは実際に3歳の健次の身の上に起こったことでした。母と健次は実父を否認、そのため「私生児」になったのでした。じつは私生児だったのは実父もまた同じで、さらに母ちさともまた私生児だったのです(母ちさとは8人兄姉の末っ子、健次と同様ただ一人父が違う私生児だった。ちさとは敗戦前年に次男を亡くし、肺病を患っていた先夫・木下勝太郎夫とも死別)


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中上健次は『紀州 木の国・根の国物語』の中で、かつて町の中を熊野川が流れていた新宮の土地を次の様に描いています。「新宮は水の上にある土地である。そこで水よりも濃く、重く、ぬくもりのある血を持った人間が、四方を、山と川と海に囲まれ、生活している。夜、寝静まったこの土地に、海鳴りがする。その鳴りつづける水、あふれる水の方にではなく、”穢れ”は澱のように、草と木でつくった折りたたみできるような家の暗がりの中で、血のつまった体を持った人間の方に降りつもる」と(町のどこを掘っても丸い角の削りとられた石のばかり出てくる土地だと)

水の上にある新宮市には、上田秋成の『雨月物語』にある「蛇性の淫」にまつわる樹木が繁る浮島の森があったことも知られています。また秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて日本に送りこんだ徐福の墓も駅前にあります。新宮市は木材の集散地だったため敗戦前に米軍機が焼夷弾攻撃をしていて、さらにその翌年、中上健次の誕生4カ月後、死者58人をだした南海道地震にもみまわれていたのでした。
▶(2)に続く-未
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