坂口安吾(1):幼少期に始まっていた「切なさ」の感覚
代議士だった父との接触はほとんどなく、父の「伝記」を読んで父のことを知った安吾少年。小学校にあがる前から新聞を読み、「講談」を読みだしていた。父は新潟新聞の社長にもなる。「切なさ」は幼少期の頃にすでにはじまっていた。憎み合う関係だった母とは、後に命をすてるほど母を愛すように
「8歳の時、母は安吾に手を焼き、『お前は私の子供ではない、貰い子だ』と言った。そのときの私の嬉しかったこと。この鬼婆アの子供ではなかった、という発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいったとき、どこかにいる本当の母を考えていつも幸福であった。
私を可愛がってくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであった。それは後年、母の口からきいて分かった。母と私はやがて20年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変わったのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。
私ほど母を愛していた子供はなかったのである。母のためには命をすてるほど母を愛していた。…オレはおっかさまのために蛤をとってやろうと思って夜の海にいつまでももぐっていたんだ。家に帰ったらこっぴどく叱られたよ」(坂口安吾『風と光と二十の私と・いずこへ』中「石の思い」より)
坂口安吾と言えば、太平洋戦争敗戦直後に発表した『堕落論』(1946年)が一世風靡、時代の寵児となります。
アンチ既成文学・無頼派の一人であり、新戯作派として『白痴』『桜の森の満開の下』『不連続殺人事件』『夜長姫と耳男』『日本文化私観』『風博士』『肝臓先生』『信長』『道鏡』等々もまたよく知られ、小説に鋭い感性で切り込んだ歴史もの(小説からエッセイ)、推理小説、評論などは、後生の作家たちに大きな影響を与えてきています。
『安吾巷談』『安吾史譚』『安吾新日本地理』などで評論もし、「巷談師」を自称しているほどです。また「歴史探偵家」でもありました。
古代王朝などに関する大胆な仮説や歴史観は、後の松本清張や黒岩重吾ら小説家が古代史をひもとく魁(さきがけ)となり、芥川賞選考委員時代、新人松本清張の小説「或る「小倉日記」伝」を強く推し新風を巻き起こします。
一方で、太宰治が自殺した1948年に鬱病に陥り、病状は悪化、睡眠薬中毒と神経衰弱となり転地療養を繰り返した時期もありました。
坂口安吾は若干48歳(1955年没)で亡くなっていますが、どんな土壌に生まれ落ち、どんな環境が感化したというのでしょう。
とにく母と父との関係には驚かされるばかりです。今日であれば、まずネグレクトの状態のように映るほどです(しかしこれは安吾少年のひねくれた感覚だったことが分かってくるのだが)。
しかし当時は子だくさんの時代、坂口家も13人もの兄弟(妾の子も含め)の末男(下に妹が一人)。そうした親子関係は当時決して稀ではないかと思われますが、坂口家においてはやはり他家とは異なるものがあったのです。
それではその辺りから坂口安吾の”大樹”の根元をのぞいてみましょう。
坂口安吾は1906年(明治39年)10月20日、新潟県新潟市西大畑町(現・中央区西大畑町)に生まれています。本名は、坂口炳五(へいご)。「炳五」は、「丙午」年生まれの「五男」に因んだもの。
父の坂口仁一郎は、若槻禮次郎、加藤高明らと親交があり、憲政本党所属の衆議院議員、新潟新聞(現・新潟日報)の社長なども務めたこともあり、また一般的に坂口家は代々の旧家で、大地主、「阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われるほどの富豪だったと言われています。ウィキペディアでも同様です。
ところがそれは坂口安吾が、自伝的文章「石の思い」の中で単純化して書いたものの引用にしかすぎず、しかも「石の思い」の後半には自分が生まれ育った家は仮の住宅で、かつての旧家の様にだだっ広い家ではなかったと記しています。
もっともその仮の住宅といえども、昔は坊主の学校だったという建築なのでいっけん寺の様でもあり松の密林の中、鴉や梟の住処の様な佇まいだったと。
坂口家は、大資産家の遠祖・坂口津右衛門から分家し後に田畑を失い零落したものの3代目まで医業を生業としていたため、再び盛り返し安吾の祖父の代(新潟県・阿賀浦村ー現・新津市大安寺の村長になった)で相当の地主になったといいます。
しかし祖父が米相場や鉱山の投機に失敗。さらに安吾の父が残りのお金を政治資金にもちだし、安吾が生まれた頃には財産はほとんど無くなっていたといいます。大資産は父の代でついえ、松林の中、寺の様な建物だけが残ったようです。
自伝的文章「石の思い」の中で、まず驚くのは、安吾少年と母との関係です。
安吾少年は少年期の長い期間にわたって母を憎んでいたというのです。後妻だった母には、母と年齢もそれほど違わない3人の娘がいて、上の2人の姉たちに共謀されモルヒネで毒殺されそうになったという噂も(実際にその種の謀り事はあったようだ。『新潟毎日新聞』に事件の顛末が連載されている)。安吾少年と先妻の子供たちは、とにかく母から愛されることはなかったといいます。
町内の子供と喧嘩し、乞食の子供のような破れた着物を着て夜帰宅する安吾を家に入れず、戸にカンヌキをかけヒステリーをよく発する母とは、ただただ憎み合う関係だったと綴っていますが、冒頭の一文の様に、その関係は様変わり。再度ここに記してみます。
「母と私はやがて20年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変わったのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛していた子供はなかったのである。母のためには命をすてるほど母を愛していた」と。
この母方は吉田姓でこれまた大地主、「その一族は安吾にもつながるユダヤ的な鷲鼻をもち、母の兄は眼が青かった」(『評伝・坂口安吾ー魂の事件棒』七北数人著 集英社)といいます。さてそして父ですが、安吾は次の様に書いています。
坂口安吾(2)へ続く:
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