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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

草間彌生:幼少期にあらわれた「幻視」

江戸後期から種苗業で繁盛した草間家は地元の美術科のパトロン。祖父も父も芸者遊びに狂う。家の中はメチャクチャで両親は喧嘩ばかり、水玉模様や網模様は、幼少期に「心の病(「非定型精神病」)」あらわれた「幻視」だった。10歳の頃に描いた「母の肖像画」に無数の水玉模様を描き込んだ


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「物心つく頃から私の視覚や聴覚や心の襞には、自然界や宇宙、人間や血や花やその他さまざまなことが、不思議や怖れや神秘的な出来事として強烈に焼きついて、私の生命のすべてを虜にして離さなかった。そして、しばしばこれらの得体の知れない、魂の背後に見え隠れする不気味なものは、怨念にも似た執拗さをもって、私を脅迫的に追いかけ廻し、長年の間、私を半狂乱の境地に陥れることになった。
 これから逃げれ得る唯一の方法は、その『モヤモヤ』、輝いたり、暗く深海に沈んでしまったり、私の血を騒がせたり、怒りの破壊へとけしかけるモモンガア、それらは一体何だろうかと、紙の上に鉛筆や絵具で視覚的に再現したり、思い出しては描きとめ、コントロールすることであった」(『無限の網 草間彌生自伝』作品社 2002年 p59 )

草間彌生といえば、その奇抜なファッションに、水玉模様や網模様が無限に反復、増殖する絵(ポルガドットとネットは、一つの原型の二つの現れ)、男性器状の突起が無数生えたオブジェにソフトスカルプチャー、人前でのSEXパフォーマンス、電飾彫刻や合わせ鏡をもちい無限の広がりをみせるインスタレーションなどがすぐに思い出されます。それらは今やポップ・アートや環境芸術の先駆とも位置づけられるほどの先鋭的、前衛的活動でした。

遡れば、28歳の時(1957年)、単身渡米し1960年代後半の全米の話題をさらっていく裸体のボディ・ペインティングとボディ・フェスティバル、度肝を抜くファッション・ショーにヌードダンサー一座を引き連れ「パフォーマンス」の先駆者の一人として位置づけられています。さらに映画制作「草間の自己消滅」(1968制作)や自身もブティックを開店(1969年)など、アメリカでは最も有名な日本人アーティストとして知られています。また全米のデパートやブティックでも販売されたクサマドレスやテキスタイルを手掛けただけでなく、小説、詩集も多数発表していますプライベートでは、コラージュ・アーティト、ジョセフ・コーネルとの日々はそのすべてがほとんど伝説です。

草間彌生が描き出さなくてはならなかった水玉模様や網模様、無数の男性器状の突起物、そして裸体ハプニングとは何だったのか。草間アートを随分見知っている方ならば、どこかでその背景や出来事を幾らか聞き及んだことがあるかもしれません。しかし『無限の網 草間彌生自伝』を具に読んだ時、その噂や聞き及んだ情報は、かなり揺らぎはじめるにちがいありません。


まずは草間彌生の生い立ちから確認してみましょう。草間彌生は、1929年3月22日、長野県松本市に生まれています。生家は広大な土地を持ち、江戸後期から種苗業と採種場を営んできた旧家で、大勢の雇い人が働き、各地に卸しと小売りをしていました。資産家となった草間家は、地元の画家のパトロンでもあり、そんなかたちで草間家は「美術」とつながっていたようです。しかし婿養子だった父・草間嘉門は奔放な性格で芸者遊びに狂い放蕩の限りを尽くすような人物でした。女郎屋から芸者のもとに通ったり、家の家政婦にも次々と手をつけたり、芸者を身請けして勝手に上京してしまったこともあったほど。しかしそれは父・嘉門だけでなく、草間家の祖父とにかく草間家は父子の二代にわたって、女遊びに明け暮れ、祖父と父が競争で女を漁っていたというのです。なんという草間家。

そんな父に気位が高く激しい気性だった母は絶えず怒り荒れ、両親は喧嘩ばかり。母は彌生に小遣いを手渡し、どんな寒い日にも父の跡をつけてどこに行ったのか探偵させるのです。とにかく家の中はメチャクチャだったといいます。彌生は子供心にも、男は無条件にフリーセックスをし、女は耐える一方、「こんな不平等なことがあっていいものだろうか」と憤りを感じています。このことは「後の思想形成に大きな影響を与えた」と自身語っているほどです。どこかで聞いた話ではなく、日々そうした修羅場を目のあたりにしていた子供が受ける影響はどれほど強く深いものでしょうか。

彌生が幻覚や幻聴を体験するようになったのはいつ頃からか。『無限の網 草間彌生自伝』では、12歳の時、長野県立松本第一高等女学校に入学した頃からと記していますが、実際には小学校時代、否、それ以前からだったと思われます。というのも同著の同頁(p.55)後半、「幼い頃から…」からはじまる次の一文は、中学生の時分の体験でなくそれ以前のものと思われるからです。

「幼い頃から.私は採種場へスケッチブックを持ってよく遊びにいった。そこにはスミレ畑が群をなしていて、私はその中でもの思いにふけって座っていた。すると突然、スミレの一つ一つがまるで人間のようにそれぞれの個性をした顔つきをして、私に話しかけてくるではないか。そして、それがどんどん増殖していって、耳が痛くなるほどに語りかけてくる。人間だけが喋れると思っていたのに、私に言葉をもって交流してきたスミレたちに、まず私は驚いてしまった。その時、私にはスミレの花が人間の顔に見え、それが全部私の方を向いている。私は恐怖で足がガタガタと震えるのをどうすることもできなかった。
 走って夢中で家に逃げ帰ると、今度は家の犬が人間の話す言葉で吠えかかってきたのだ。すると今度は逆に自分の声が犬の様になってしまっている。どなってしまったんだろうというパニック状態で家に飛び込んだ。青くなって押し入れにもぐり込み、やっと息をつくことができた。思い返しても、それが現実だったのか夢だったのかほとんど判断できなくなっていた」(『無限の網 草間彌生自伝』p56 )

はやくも10歳の頃に描いた「母の肖像画」には、すでに無数の水玉模様が描き込まれています。それは眼前の母の姿に、彌生の視覚にどうしようもなく浮かび上がってくる無数の水玉模様が、1枚の絵の上に融合したものでした。別の書籍『クサマトリックス角川書店 2004年)でも、小学校に入学した頃の体験として「幼い頃より、物もまわりにオーラが見え、スミレの花や犬など、植物や動物の話す言葉が聞こえるといった幻覚を体験するようになる。絵を描くことが好きな少女だった草間は、幻想や幻覚、幻視体験、怖れや不安感を絵に描き始める」と記しています(草間氏本人の確認が入った一文として)


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少女彌生のこうした幻覚・幻視体験については、23歳の時に郷里の松本市公民館で初個展が開かれた際、立ち寄った信州大学精神病理学の泰斗、西丸四方(芸術にも深い関心があり、彌生の絵を購入)によって診断されています。西丸博士は、草間彌生を、統合失調症と躁鬱の感情障害の波が合併した「非定型精神病」と診断。通常は幻覚のほとんどは幻聴であることが多いといいますが、草間彌生のように「幻視」を伴うのは稀な症状とみています。
西丸博士は、精神科病棟は窓に柵をとりつけ扉に鍵をかける閉鎖病棟ではなく、開放病棟を設置した「改革者」であり、彌生に出会った3年前に刊行された『精神医学入門』(1949年)は、以降半世紀以上、精神医学の教科書の先駆的名著とされています。

じつは西丸博士が東京帝大医学部をでて精神科に向ったのは、実弟の西丸震哉(食生態学者、作家、登山家)が小さな頃から鮮明な幻覚を見ていて、彌生の珍しい「幻視」にも寄り添うことができたのでした(以降、彌生は西丸博士を良き相談相手として、また患者として長く交流がつづく。家を離れるように助言したのも博士だった)

西丸博士とのやりとりを通じ、彌生は独学独流だった絵を描く行為に、意識的にアプローチができるようになっていくのです。さらに西丸博士を通じて博士の恩師、東大精神医学教授・内村祐之へ、そしてゴッホ研究家としても著名な式場隆三郎へと紹介され、そこから白木屋での個展へとつながっていきます。同公民館での2度目の個展では、美術評論家瀧口修造とも出会い、タケミヤ画廊での個展、そしてニューヨークのビエンナーレへと繋がっていくのです。

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彌生の「幻視」とはどんな時に生じたのか、それはどんな様子だったのか、『無限の網』でみると、

「ある日、机の上の赤い花模様のテーブル・クロスを見た後、目を天井に移すと、一面に窓ガラスにも柱にも同じ赤い花の形が張りついている。部屋じゅう、身体じゅう、全宇宙が赤い花の絶対の中に、私は回帰し、還元されてしまう。これは幻ではなく現実なのだ。私は心底から驚愕した。…夢中で階段に駆けていく。下を見ると、一つ一つの段々がバラバラに解体していく。その有様に足を取られて、上から転げ落ち、足をくじいてしまう。
 のちの私の芸術の基本的な概念となる、解体と集積。増殖と分離。粒子的消滅感と見えざる宇宙からの音響。それらはもう、あの時から始まっていた」
(『無限の網 草間彌生自伝』作品社 2002年 p61 )

ある時は、夕刻時に山並みの稜線からパァーと光が溢れ出て、さまざまなキラキラするものが目に飛び込んでくる。そんな時には家に飛んで帰って、見たものをスケッチブックにどんどん描いていきます。そんな幻視イメージが消えないうちに記録しようとすると、イメージは次から次へと沸き上がってきて、手が追いつけない状態に。そうした幻視イメージを描いた手帳は何冊にもなったといいます。「その時に感じた驚きや恐怖をそうやって静めていく。それが私の絵の原点である」と彌生は語ります。

彌生は西丸博士と出会うまで、相談できる人などいず、幻覚・幻視からくる不安に自分ひとりで耐えていました。その理由の一つに、幻視が生じるのは聴覚を一部欠損しているのではないか、自分だけが知る秘密が暴露されてしまうことへの怖れがあったといいます。