フェルメール:独特すぎる環境に生を受けた人生
絹織物業者であり「画商」でもあった父。実家でもある宿屋「メーヘレン」には、デルフトの名立たる画家たちが画商の父と交渉するため訪れていた。家のすぐ裏手にあった「素描学校」。『真珠の耳飾りの少女』の少女と東方海洋貿易の中心地デルフトとの関係
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フェルメールといえば、レンブラント、ゴッホと並び今やオランダを代表する画家である。2012年初夏に、『真珠の耳飾りの少女』(制作1665年頃)が来日し、各メディアでも大いに話題になったあのフェルメールである。
フェルメールの絵と認められているのは今日、32〜35点だと言われ、作品点数の少なさと当時、金と同じほど稀少だった「青色=ウルトラマリン」を少女たちの衣装にもちいたミステリー、そして清らかな光や特徴的な<静謐な絵>の謎などが絡み合い、フェルメールはほとんど「神話」の様に扱われてきました。
作品「真珠の首飾りの女」「手紙を詠む青衣の女」「牛乳を注ぐ女」「赤い帽子の少女」「恋文」「音楽のレッスン」「小径」「デルフトの眺望」「地理学者」「天文学者」「信仰の寓意(アレゴリー)」などの作品に垂れ込めて「神話」は、制作背景や意図など謎はまだまだ残しつつも、幾つものベールは開けられていきます。
フェルメールの生涯に光があてられはじめたのは、ようやく1970年代の後半からだったといいます。それは17世紀のオランダ・デルフトの芸術家・職人の経済社会的地位に関する古文書にあたって研究をかさねていた経済史家が、その過程でフェルメールに関する未発表資料を偶然見つけたのです(光は美術史ではなく経済史の研究からやってきた)。その発見から従来のフェルメール像や絵画に検証が加えられ、神話からリアルなフェルメールがようやく語られるようになっていったのでした。
また、フェルメールの写実的な絵の制作には、「カメラ・オブスクラ」(カメラ発明以前の光学装置)がもちいられているという研究もなされていますが、重要なことはフェルメールこそが、当時「写実」第一だった絵画の世界に、色彩や対象の引き算など「創作」を加えたものこそがフェルメールの絵画世界だったということです(「デルフトの眺望」ですら)。
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フェルメールに光学的知識を与えたのは、望遠鏡や顕微鏡の製作者たちとも情報を交換しあっていた音楽家で詩人のコンスタンティン・ホイヘンスや、フェルメールの死後、財産管理人に指名されたデルフト生まれの有名な顕微鏡製作者アントニー・ファン・レーウェンフックでした。このこともまたフェルメール絵画の興味深いパースペクティブに興味を付加しています。
が、幾冊ものフェルメール研究書や論文、アート本などから新たな研究の光を受けたフェルメールに接近することができます。それではフェルメールが生まれる前のオランダ・デルフトの町とデルフトの町の変化からみてみましょう。
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer:ヤン・フェルメールとも)は、1632年10月31日(1675年に43歳で死去)に、オランダのデルフトの町に生まれています。デルフトは17世紀半ば頃、商業の中心ではあったもののいち地方都市にすぎなかったと言われていますが、じつはデルフトはオランダの建国にとって極めて重要な役割を果たすことになった土地だったのです。
17世紀、デルフトはオラニエ公の宮廷との緊密な関係にありました(海辺のハーグから内陸のデルフトへ宮殿を移す。死後4年後に息子のマウリッツがスペインの無敵艦隊を撃破しオランダは実質的独立を果たす)。
オラニエ家から出現したのが、「オランダ建国の父」と呼ばれるのウィレム沈黙公で、彼こそスペインとオランダとの80年戦争で北ネーデルランド諸州をまとめ陣頭指揮をとった人物でした(北が現在のオランダ、南部の現在のベルギーをめぐるハプルブルク家スペインとの領土問題)。
オラニエ公家やそのかかわりのある人たちが、宮殿の内部装飾として欲したのが、「肖像画」や「歴史画」だったのです。そのためデルフトには、画家たちに多くの絵を発注し活況を呈することになりますが、オラニエ公家が好んだのはイタリア古典主義的伝統にそった絵画で、貴族趣味的なものでした。またウィレム沈黙公の暗殺で、オラニエ公家からの絵画の注文は減少、「肖像画」や「歴史画」で腕をあげることは、デルフトの画家たちにとって栄誉と報酬とともに制作しがいのあるジャンルではなくなっていったのです(オランダ芸術の中心地であったアムステルダムでは新たな絵画も展開されつつあり、後にフェルメールは一時期アムステルダムに絵の修業に出ます)。
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つけ加えれば、デルフトには時を同じくする17世紀に、東方海洋貿易を一手に担った東インド会社の中核的支部があり、あの『真珠の耳飾りの少女』の少女が身にまとっているとされる日本の着物や中国の磁器など東洋の文物が描きこまれたり、部屋の壁にかかる地図が多く描きこまれたことなど、海洋交易国家オランダを映しだしているのです。
フェルメールの父レイニール・フェルメールは、デルフト広場に面した「メーヘレン」という名の宿屋を経営していただけでなく、絹織物業者であり、画商でもありました(画家、画商、職人が所属した同業組合「聖ルカ組合」のメンバー。
父レイニエルの本姓は、フェルメールではなく、ヤンスゾーン・フォス[Vosは英語の狐(Fox)]で、アムステルダムの同姓同名者に間違われないように、後にファン・デル・メール→フェルメールへと変更)。
じつは父が画商をはじめた契機は、フェルメールの母方の祖父が、かなりの額にのぼる(当時で評価額2000〜3000ギルダー。点数としては17点)絵画コレクションを所有し、死後、フェルメールの母に相続され、そして父へと手渡されます。父が「聖ルカ組合」のメンバーだったのは、画家ではなく画商だったのですから。父レイニールが画商になったのは、フェルメールが生まれる1年前のことでした。
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父は宿屋を経営する傍ら「画商」だったことはよく知られていますが、どのような絵画を扱う画商だったかを知れば、フェルメール誕生の背景としてさらに興味がましてきます。まず重要なのは、フェルメールの幼少期、すでに身近に「絵画」が存在していたことです。そこにあったのは後にフェルメールの師匠筋ともなる(また結婚の証人)画家ブラーメルは、フェルメールの父が所蔵する絵をコピーしたり、フェルメール家とは近い関係になりました。
そして宿屋「メーヘレン」には、画商の父と交渉するためデルフトの一線の画家たちが訪れ、子供心にフェルメールは多くの画家たちを見知ったり、画家という職業があることを早くから感じ取っていました。とくにデルフトで有数の画家ブラーメルとの交流は、少年期から青年時代にかけてフェルメールに大きな影響を与えつづけたといいます。
さらにフェルメールの絵画への関心の芽を育てたのは、宿屋「メーヘレン」のすぐ裏手にある「素描学校」(画家コールネーリス・リートウェイクが主宰)があり、幼少期にフェルメールはそこで絵画の手ほどきを受けたのだろうと推測されています(『フェルメール論』小林頼子著 八坂書店 p.42)。
宿屋「メーヘレン」はフェルメールが8歳の時から、その住居兼の建物に一家で引っ越していますが、生まれた「空飛ぶ狐」と呼ばれる家もその近くにありました。
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