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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

宮沢賢治の多面体の根っこ(1)

多面体を生き、時にどのように結晶させるか。因果の鎖をとく”溶媒” 宮沢賢治は多面体です。

詩人・童話作家・農学校教師・農業指導家・地質学者であるだけでなく、星座(天文学)好きであり、山好きであり、森や川を歩き標本採取し、石好きであり、音楽好きであり、芝居好きであり、エスペラント語をやり、読経好きな宗教家でもありました。

なぜそんなに賢治は多面体なのでしょう。 


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近代化された国ではひとは一生涯、仕事に染まってただ一色になってしまう。大人になることは、幼少期に見たパノラミックな風景を切り取り、イーハトーブ(岩手)の百花繚乱の自然から、光や風、大地から遠ざかることなのか。

賢治の青年期は、父や家業への反目、妹トシの死、表面的な陽気さの裏の本質的哀しみ、根源的な人間不安、どう生きるかつねに悩みのなかにあり、国柱会へと宗教遍歴していきます。


宮沢賢治は、天上の世界と地上の世界に引き裂かれつづけましたが、その時空の裂け目を繋げたのが<宗教>であり、<音楽>であり、「銀河鉄道」の様に、<詩・童話>でありました。そこには目には見えない天界までとどかんとする「マインド・ツリー」が賢治の裡に立ち上がっていたからに他ありません。

その「心の樹」の樹冠は、遥かな<銀河系>からの光を映しだしたかの様に、キラキラ輝いているのです。

 

「…二千年ぐらい前には 青空いっぱいの無色な孔雀が居たとおもい 新進の大学士たちは気圏のいちばん上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり あるいは白亜紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません…」(『春と修羅』)

そう、気圏のいちばん上層のあたりで見つけた化石や、白亜紀砂岩の層面で発見された透明な人類の足跡は、<第四次延長>に伸びた賢治の「心の樹」のそれであり、わたしたち自身の感じる<心象風景>の未来の「化石」になるかもしれないのです。

賢治の「心の樹」の”樹液”は、今生の<因果の時空的制約>を溶かす”溶媒”にちがいありません。賢治はそんな魔法の様な”溶媒”の原液をどこでいつ手に入れたのか

それは「イーハトーブ(岩手)」の大地と夜空にあったのです。


賢治誕生時、「三陸津波」と「陸羽大地震」が相前後して起こった


宮沢賢治(本名:宮澤賢治)は、1896年(明治29年)8月27日、北上山地奥羽山脈に挟まれた岩手県稗貫(ひえぬき)郡里川口村(後の花巻町。現・花巻市)に生まれています(誕生は母の実家がある同じく川口村、後の花巻市鍛冶町)。

賢治が生まれた前後は、東北地方に大きな自然災害が引き起こされた時期にあたっていました。

賢治が生まれる2カ月程前には、岩手県内だけで死者1万8000人を超える大惨事となった「三陸津波」が、賢治が生まれた4日後には(8月31日)、直下型地震の陸羽大地震(M7.2)が発生。

内陸から山地にかけ多数の家屋が倒壊し山崩れも1万カ所に及んでいます(それ以外にも度重なる集中豪雨や北上川の大氾濫が重なり、自然災害・凶作・冷害は大飢饉を引き起こし、岩手は荒廃し県民は貧困に喘いだといわれる)。

地震発生時、賢治の母イチは、念仏を唱えながら体をかぶせ必死でわが幼子を守ったといいます。

災害への関心が深かったといわれる賢治は、三陸津波の際の惨状(溺死体も多くあった)が写された写真を幼児期に度々目にしたといわれています。

それは賢治の叔父(父の弟)の宮澤治三郎が当時まだ珍しかった写真の撮影に打ち込んでいて(技術は玄人レベル)、撮影された多くの写真と身近に接することができたからだそうです。

まだ20代だった叔父・治三郎は、大津波の報を聞き一目散に釜石に駆けつけその惨状を撮影、新聞社に提供しています。

さて、賢治の実家の家業は、夙(つと)に知られているように「質・古着商」です。

当時の社会経済環境から、生活苦にあえぐ農民は質入れして生き抜く者も多く、後に賢治は父・政次郎と商いのことで(商売代えを父に強く要望していた)、つねに衝突を繰り返すことになります。

ところが面白いもので、農民や農業の肩を持つようになる一方、賢治は「商い」そのこと自体を諌めるのではなく、(妹トシの看病で上京中の23歳の時)新たに宝石(人造宝石)などを扱う商売を企てたいと父に書き送っているのです(数回目の手紙では、企画案は飾石・宝石、指輪やネクタイピン・カフスボタンとより具体化される)。

そして賢治の「商い」への様々なかたちのアプローチと関心は、じつは花巻一帯を根城に、商工の業を広く起こし地位と富を築き繁栄してきた宮澤一族(地元花巻で「宮澤一族(みやざわまき)と呼ばれ、花巻を代表する一族で、地域の秀才を輩出していた)の遺伝子のなせる技といえるものだったのです。


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しかもこの宮澤姓」は、江戸期から父方の姓であり、また母方の姓でもあり、2つの流れとなっていた宮澤家が、賢治の父と母の代で合流することになり、まさに花巻の一大勢力と化していたのです(地元ではどちらの宮澤家も、同じく宮澤一族とみていたようだ)。

 

宮沢賢治は、たんに成功した質・古着商の長男として生まれ育った者ではなかったのです。

このことを押さえておくと宮沢賢治の生き方、思考に嗜好、反目・反抗、挫折や企図がおのずからみえてきます。

 

賢治は自然災害を受けいっそう生活が苦しくなった近隣の貧しい農民から、僅かな品物を”収奪”するような<質屋>(当時の社会的有り様としての)という家業を嫌悪するようになり、<家>の宗教を、そして<家長>の父に対して反目(つっぱり)していくのです。


父方は江戸中期に呉服屋を繁盛させたが、後に衰退

 

 


母方の宮澤一族の方(その経済的手腕)には驚かされますが、まずは父方の宮澤一族からみてみましょう。

宮澤家一族の始祖は、京都から花巻へ下った浄土真宗安浄寺の門徒としてつくした藤井将監(元禄9年、1696年没)と言われています。藤井姓が江戸中期にいつの間にか(理由は定かでなく)宮澤姓(宮沢賢治の「宮沢」は、本来は「宮澤」表記。本名も宮澤賢治になっている)になったようで、江戸中期、はじめて宮澤姓を名乗った宮澤右八が起こしたのは呉服屋でした。

使用人も多く雇うほど呉服屋は繁盛し、その子供の2代目の時、「土子金持ち」と呼ばれ栄華を誇ったと言い伝えられていますが、商家としての家風としては慎ましく地味だったようです。

3代目は、勤勉だった2代目とちがい(宮澤家でも栄華は3代で一旦終わっている)、奔放で華美に流れ店は衰退。南部藩の頻繁な御用金徴収にも懲り、暖簾を下ろしてしまうのです。

2代目の二男は別の呉服店に養子に出され、三男は堅物な人で親孝行者でしたが、気が小さい少年でした。それが賢治の祖父・宮澤喜助でした。

宮澤喜助は、新渡戸稲造の祖父もくわわっていた青森県三本木の開拓に、伯父らとともに経理として同行しています。

喜助は初代の様に勤勉で質実剛健に生きたため宮澤家は復興しはじめます。この喜助が賢治の父・政次郎が継ぐことになる質・古着商をはじめています(分家の際、喜助の長兄から僅かな資財を譲り受けはじめた)。

財産を蓄えた頃には、朝顔ラッパの蓄音機を購入し、越路太夫や呂昇のレコードを聞き、浄瑠璃本を買い揃え、義太夫に凝りだしていました。何よりも魚が大好物で「おれの儲けた財産だ、おれの好きなものを食わせないということあるか」と文句をよく言い、魚料理を知らない賢治の母イチを大いに困らせたようです。

この喜助の妻・関キン(南部藩勘定奉行頭の関七郎が祖)は、11人あった子供のなかで最も慎み深い性格で言葉も少なでした。馬から落ち腰を痛め、晩年はひたすら念仏を唱えていたといいます。


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(2)へ続く:

・参照書籍:『宮澤賢治年譜』(堀尾青史編 筑摩書房 1991年)/『年表作家読本・宮澤賢治』(山内修編 河出書房新社 1989年)/『兄のトランク』(宮沢清六著 ちくま文庫 1991年)/『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著 ネスコ・文藝春秋 1995年)/『宮澤賢治の生涯;石と土への夢』(宮城一男著 筑摩書房  1980年)/『新潮日本文学アルバム 宮澤賢治』(1984年)/『デクノボーになりたい 私の宮澤賢治』(山折哲雄小学館  2005年)/『チェロと宮澤賢治』(横田昭一郎著 音楽之友社 1998年)他 

 

 

 

 

 

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