岡本太郎(2):「異形の家」に生まれ落ちる
岡本太郎(1)の続き:
小学校は家の近くにある青南小学校に入学(1917年。大正6年)。入学時のエピソードで有名な話しとして、「一、二、三.....」と数字を書ける者はいるかということで、太郎が黒板に書いたら、「四」を書く順序が違っていたということで「書けもしないくせになぜ書けると言うんだ!」と怒鳴られ、先生を睨みつけたこと。
以降、太郎は嫌いな先生の授業は最後まで指で耳を押さえて聞かないようにしていたというのです。感受性が強い太郎は先生の人間的ないやらしさを見抜いてしまうのです。
このエピソードは、大人が押し付けようとする鋳型を、太郎が全身で拒否しはじめた最初のものです。小学校入学以前でも太郎はもう異端児ぶりを発揮しています。
5歳の時、父一平が働いていた朝日新聞社の編集局に連れて行ってくれた時のこと、大阪と電話が通じているので受話器をもたされた時のこと、「バカヤロー」と言って快感をえる太郎がすでにいました。
話しを少しまき戻すせば、小学校にあがる前になぜ太郎は、まだ学校で習いもしない数字を書けたかといえば、「天才教育」かと思いきや、そうではないのです。
まずは家中、本で溢れていたので自然に覚えていったようですが、それは一平やかの子から覚えさせられたのではなく、なんとか親と対等になりたいという望みから自ら覚えようとしたのでした。
「岡本家の場合、別に親が何を教育したわけでもなかった。勝手に自分自身をつかんでいった。<自立心>がなければ、あの家ではやっていけなかったのだ。岡本家の場合、とにかく人並の親がやってくれることは、何もやってくれない」
岡本家には、<世間的な愛情>とは無縁の家で、たとえば小学校一年の時の初めての運動会では、一平やかの子のどちらも姿をあらわすことはありませんでした。
岡本家が、「異形の家」だったと言われるのも後にかの子の恋愛相手だった早稲田大学生と夫一平との了解のもと同居するという、何も天才画家を育てあげるような家庭環境だったという異形さではなく、一平やかの子も自身の情熱に一心で、子供の居場所もない。
ならば両親と少しでも渡り合あって振り向かせるしかない。太郎の内部からにじみでるような論理的な思考回路は、そうした「異形の家」にあって太郎自らが習得した<生き方>だったのです。論理的な思考回路は、どちらかといえば情緒的な感性がかっていた両親とわたりあう”武器”となったといえます。
そんな太郎が今でいう「不登校児」になったのは、入学して1カ月もたたないうちでした。母かの子がどんなに行くように諭してももう言うことは聞き入れません。学校に行っても先生に怒鳴られ立たされるの繰り返しだったのです。
学校の代わり太郎が行っていたのはドブ川で、水の中をのぞきこめば藻の不思議な動きや色彩の神秘さに遊んだのでした。両親はもはや打つ手なしと、京橋にある一平の父(祖父・岡本竹次郎、書家名岡本可亭ーおかもとかてい)の家に太郎を預けるのです。
太郎から感じられる東京の下町気風は、旦那衆の集まりや謡いの会が催されたこの時に受け継いだのではといわれています。
最もここでも小学校にやらされますが、嫌がらせやイジメ、理不尽さを我慢しない純情で一本気な太郎。寄宿舎制の私塾「日新学校」と十思小学校ともにつづきませんでした。
「…朝、学校に行くのがイヤだから、のろのろ、とぼとぼ。そんなとき太郎さんは、太陽と対話しながら歩いていたそうです。太陽は、親父みたいなちょっと偉い人格で、上から自分を見下ろしている。見上げて話しながら歩いていると、だんだん目がチカチカしてきて、思わずパッと目を閉じてしまう。すると瞼の裏にパーッと、真っ黒な太陽が飛び散った。それが、後に48歳のときに出版した『画文集・黒い太陽』につながっていったのね。
子どもの頃から<太陽>を身近に感じていたようで、『太陽は身内だ』みたいなことも、よく言っていました。実際、太陽をテーマにした作品が多いけれど、その原点は小学校1年生にあった。それにしてもなんと孤独なんでしょう。<太陽>とだけ話をしている子供なんて」(『岡本太郎ー岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』岡本敏子/聞き手・篠藤ゆり アートン p.14~15 )
太陽こそが、唯一の友だち、身内と感じるばかりの太郎は、小学1年生の間の1年間に3つの学校にかよわされ、そのどこにも馴染めず「不登校」になるばかり。この頃、島根から上京し岡本家に居候しながら慶應義塾大学に通っていた恒松安夫(すでにこの頃には岡本家の台所を含め一切を切りもりしていた。
後に歴史学者・政治家、島根県知事)の発案で、自由主義的な慶応義塾幼稚舎はどうだろうと、1年生からやり直すつもりで入学試験に太郎を連れて行ったのでした。当時、慶応幼稚舎は学科試験はなく、子どもから感じ取った校長先生の判断のみ。慶応幼稚舎に入学し、太郎が寄宿舎でつけられたあだ名は「不死身の太郎さん」。
冬でも制服の下はシャツ1枚。「出る杭は打たれる」という言葉を「釘」と覚え間違いしたのはこの頃のこと。結局ここでも太郎は誰にも心を開けることはできず、自分だけ「異質」な気がしつづけ、虚無感に襲われ、死んでしまいたいと自殺を考えていたという。
1週間に一度、土曜日だけ帰宅する太郎でしたが、家では太郎の帰りを待って出迎える空気もまったくなく、居候の恒松安夫が用意する食事を食べるばかり。小学校時代、太郎は家でどんなものを食べていたのかすらほとんど覚えていないというのもこのためでした(後に婦人雑誌で「御自慢の料理」について取材がある時、まっさらな割烹着を身につけ写真におさまっていたかの子。
そんな母に唖然としつつ太郎はそんな写真を笑って見ていた)。ただこの寄宿舎生活時代に、太郎はある「楽しみ」を見つけたのでした。