ヨーゼフ・ボイス:自然との関係こそがルーツ(2)
ギムナジウム時代、ボイスは多面的で複雑な性格をみせています。
じっとしていられない性格のボイスは独創的な悪戯ら者で落第も経験する一方、校長先生はボイスをかばったり、かつて戦争体験で両脚が義肢だった英語教師が学校まで安全に通勤できるよう自転車で学校まで伴うリーダー役であり、早朝の挨拶は一番大きな声を出す快活な生徒だったといいます。
そんなボイスは、自宅に帰ればほとんど実験室の様な自室でさまざまな植物や茸などを観察し帳面に書き留め、「植物コレクション」(15歳の時、絵にあらわれた芸術的早熟さは周囲を驚かせていた)をつくりあげただけでなく、ネズミや蠅、蜘蛛、カエル、魚などを飼育するミニ「動物園」をつくりだしています。
その一方、チェロとピアノのレッスンを受けていました(学校のオーケストラではチェロ担当だった)。後の作品「鹿追い」や「チンギスハン」のイメージは、この頃羊飼いの様に走り回っていた記憶を呼び覚ましたものといいます(『評伝 ヨーゼフ・ボイス』ハイナー・シュタッヘルハウス著 p16)。
この頃ボイスは、小説もよく読み込んでいて、ロマン主義文学のヘルダーリン、ノヴァーリス、ゲーテやシラー、またスカンジナヴィアの詩人ハムスンには魅了され、哲学では、実存主義の先駆者キルケゴールに熱中していました。
たとえば、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが肝要」であり、「自分の存在に無関係に成立する<客観的真理>よりも、自分の存在と直接重要性を持つ<主体的真理>のほうが大切ではないか」というキルケゴールの認識はボイスに通じます。
そして、エドヴァルド・ムンクの画を画家のなかで最も評価し、作曲家でお気に入りだったのはサティとリヒャルト・シュトラウスでした。
そんななかボイスは「彫刻」に目覚めていきます。
さらにボイスはしばしばクレーフェの彫刻家モートアトガード(エゴン・シーレを虜にした彫刻家ジョルジュ・ミンネを敬愛)と知り合いアトリエを訪れています。
そして17歳の時(1938年)、ボイスの芸術家人生にとって決定的な影響を与え、”霊感”を与え、まさに手本となった彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックを”発見”するのです。
(ボイスはレームブルックから彫刻を”直感”によって把握する、新たな彫刻概念を獲、それは後に「心的な材料」で彫刻をつくりだす「社会彫刻」へとつながっていく)
このギムナジウムの校庭で、ナチスが命じた焚書しなくてはならない書籍のなかで見出し、灰になる寸前、レームブルックの彫刻の複製図版が載ったカタログを抜き取って救ったのでした。
その本の山の中にはトーマス・マンの作品やスウェーデンの植物学者カール・フォン・リンネの『植物分類体系』もあったので、ボイスは抜き取っています。
ギムナジウム時代、ボイスの”心根”は、なんとも広く深く伸びていっていることがわかります。
そしてその独特なかたちをとりはじめた”心根”ゆえ、ボイスは小さな旅回りサーカス団の虜になり、動物飼育係として働いたり、サーカス団のポスター貼りや大工仕事をして過ごすようになるのです。
ギムナジウム卒業時(大学入学資格試験がある)前の1年間にわたってのことでした。
ギムナジウム卒業がご破算になったと嘆き悲しんだ両親は、息子ボイスをライン河上流で探し出し連れ戻し、マーガリン工場で働くよう仕向けましたが、教師たちがボイスを援護し1年かけて卒業までこぎつかせています。