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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

土門拳(1):「老樹」に憑依する心

染物の家業傾き父は北海道へ、貧乏な祖父母に預けられる。桐の老樹に憑依した拳の心。6歳、一家は東京谷中の裏長屋に引っ越す


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はじめに:

魂が”遊離”し、被写体に”憑依”するまで対峙する撮影現場


剣豪・宮本武蔵の”殺気”をはらむ「絶対非演出の絶対スナップ」の極意をうたい戦後の「リアリズム写真」をリードした土門拳

そして写真集『筑豊のこどもたち』『ヒロシマ』『室生寺』『古寺巡礼』『西芳寺竜安寺』『法隆寺』『日本の彫刻』『風貌』『文楽』『信楽大壷』などは、偏執狂的な執念と気迫、情念の激しさが生み出したものでした。


土門拳の”鬼気迫る”撮影は、密教行者の修行法と似ているといわれます。自身の魂が”遊離”し、被写体に”憑依”するまで、つまり「実相観入」するまで、ずっと被写体と対峙するのです。

それが仏像ではなく、生きた人物を撮影する時は、カメラによるあまりの凝視に相手の魂が飛び出てきた時に(怒った時)、シャッターを切ったのでした。

計算を裏切るほどの予想を越えた写真ができたときは、「鬼がついた!」と無邪気に喜んだという土門拳

「シャーマン」のごとき写真家だったといわれる土門拳の「マインド・ツリー(心の樹)」には、はたして何があったのでしょうか。

おおむね「観察(Observation)」を撮影の軸にする欧米の写真家や、ドイツの新興写真に刺激と影響を受けて出発した日本の前衛的写真家たちとは異なる土門拳の”求道者”的写真観は、いったい何処から来たのか、何に”依る”ものだったのでしょうか。

それでは一緒に土門拳の「心の樹」の”根っ子”へ向ってみましょう。

 

江戸時代交易の中継点として栄えた酒田。明治期、母の実家の船宿は衰退へ


土門拳は、明治42年(1909年)10月25日、山形県飽海郡酒田町(現・酒田市)に生まれています。北方に鳥海山、南方に羽黒山や月山、その間を日本海へと最上川が流れる庄内平野随一の米どころの町です。

16世紀前半に奥州藤原氏最上川の河口の砂地を開拓して繁栄しはじめ、江戸時代の17世紀後半には、西廻り航路が整備されると、北前船の寄港地・貿易の中継点として、「西の堺、東の酒田」と呼ばれるほど栄えました。

西方の日本海に流れこむ中世から貿易の中継点として栄え旧い歴史が刻まれた町です。

寺と仏像手帳

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土門拳の母とみの実家の安島家は、その酒田・出町で、まさに船宿「越中屋」(もともとは越中富山の出身)を営んでいたのです。

私の履歴書』では、廻漕(かいそう)店とも記されているので、舶による物資の運送も一部していたのかもしれませんが、主な収入源は船乗りたちの宿料でした。が、交易の中継点となれば古今東西、繁栄あれば、また衰退もあり。また帆前船が発動機船の時代となり、船宿の需要は激減、衰退していきました。

そんな折り、庄内大地震明治27年)で「越中屋」は焼失、船宿は廃業となります。以降、とみは需要が減る中、鷹町にある廻漕店の事務員となって移り住みます。とみは5人兄妹で、兄弟にはさまれていたので勝気な性格になったようです。

 


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鳥海山と月山に囲まれた酒井市は映画『おくりびと』のロケ地としても知られます

 

江戸時代から続いた染物の家業はすっかり傾いていた。

廃業し、父は北海道へ


父の土門熊造の実家は、酒田町内町で代々染物業を営んでいました。内町とはかつての庄内藩(藩庁は鶴ケ岡城)の亀ケ崎城の外郭の内という意味です。1622年信濃国松代藩から酒井忠勝(戦国武将・徳川四天王酒井忠次嫡流)が入封して以来、町屋敷となっていました。

土門家は江戸・元禄以前からある家柄でしたが、明治期に入る頃には、土門家の家産はすっかり傾きかけていました。熊造は、もとは道向こうの隣家で呉服を生業としていた糸谷家(戦国以来の商家)の三男でした。

よく遊びに来ていた熊造は気に入られ(美男子で、ポマードを髪につけモダンな感覚があった)、土門家に実子がいたにもかかわらず養子受けされています。そのため本来の土門家と土門拳とは、血縁はありません(長男を除く男児の養子縁組みは一般的な時代)。

土門拳の祖父・糸谷六郎兵衛もまた糸谷家に養子に入っています。六郎兵衛は、本業の呉服屋をほっぽいて好きな書画骨董の店をもったといいます(後に土門拳が、骨董に熱を上げたのは、晩年、父・熊造も細々と骨董屋を営んでいて、親子血は争えないという証の一つにもなりましたが、じつは祖父もまた骨董に血道をあげていたのです)。

 

拳という名前ですが、文学好きだった父熊造が、作家・(秋田県六郷町出身)の小説『こぶし』からもらったもので、貧乏な家の子は徒手空拳をもって身を立てよ、という意味でした。

このことからも土門家は、すっかり貧乏所帯にあったことがわかります。拳が生まれた頃には、染物業を廃業し、県の酒田支所に勤めサラリーマンになっていました。

拳が生まれ、生活の糧を稼ぐため、熊造は意を決して、ニシン漁で湧く北海道に渡ります。北海道の漁村・漁場(わちやまさ)の事務員となって働きはじめるのでした。

 

近所の写真館での撮影を怖がっていつも暴れた。

幼少期の写真がない理由


母は拳を連れ、酒田・鷹町(現・相生町)に移り住み、すぐに台町にある兄(母の実兄)の家に引っ越します。兄は乾物屋を営んでいました。土門母子は乾物屋の裏にある狭い部屋で暮らしだしました。八重桜の大木が生えていました(後に40年ぶりに酒田に帰郷した土門は、この桜を目安に住んでいた家を探索している)。その桜の花が塩漬けにされたものを食べていたといいます。近所に写真館がありました(伊藤写真館)。

 

新版 土門拳の昭和

そこが土門拳と「写真」との最初の出会いとなりますが、撮影時に黒いかぶりをかぶると拳はそれを怖がって泣いて暴れ出すばかりだったといいます。

母は大きくなった拳の姿を北海道にいる父にみせようと、写真館の家族も総出でなんとかあやして一枚でも撮ってもらおうとするのですが、拳は写真館でなくとも一度暴れだすと誰の手にもおえなくなるほどなので、写真家さんも根をあげてしまうのです。

当時はシャッターチャンスなどありえないカメラで、しっかり露光しなくてはならず、動き回れば乾板に画像は定着できませんでした。このため拳には、幼少期の写真が一枚もないのです。

しかしあまりにも強烈な印象を拳の心に刻印した恐ろしい「カメラ」は、少年時代に、伊藤写真館の娘とすっかり友達になるにつれ、拳の心の内に、反転して興味の対象として記憶の底にあり続けたにちがいありません。

 

2歳の時の記憶。父も母も北海道へ。

貧乏な祖父母の家に預けられる


拳の記憶力は優れたものがあったようです。最初の記憶は2歳の時で、母に連れられ父が仕事をしている北海道に行った時のものだったといいます。いろりの火が赤鬼のような海の男たちを照らしだし、2階に上がると暗い電燈の下で父と母がひそひそと話をしている。そんな光景でした。

そして酒田への帰り、津軽海峡を渡る青函連絡船からみた暴風雨でうねる真っ暗な海も、合わせて記憶に刻み込まれたのです。どちらも恐ろしく暗い記憶です。


拳4歳の時、母子で自活するため、母が看護学校に入校。拳は看護学校に遊びに行っては、白衣の母の両手にぶらさがって甘えたといいます。

しかし母までも、看護婦として北海道に働きに出ることになってしまうのです。それ以降、父も母も年に一度しか酒田に戻ることはなくなってしまうのです。


そのため拳は日枝神社の山門近くにある母方の祖父母の家に預けられました。母の実家の安島家は、日枝神社(山王さん)の氏子の一軒でした。けれども祖父母の家もまた貧しく、端午の節句に鯉のぼりをあげることもできません。

5、6歳の頃、借金取りに責められている祖母の涙声を、拳は障子の陰から聞いています。拳は「貧乏だからだ。貧乏だからだ」と悔し泣きに泣いたといいます。祖父にとってたった一人の孫の拳を祖父は可愛がり毎晩、拳を抱いて寝床に入ったといいます。

そんな祖父と一緒に日枝神社の山門を通って、日和山公園(出羽三山庄内平野を一望できる)へ行くのが拳は大好きでした。5歳の時、鷹町にある持地院境内に13メートルもある銅製の大仏が建立されました(第二次大戦で金属不足から軍に摂取される)。

当時立像では日本一高いとされ、酒田の名物になります。拳少年もこの大仏を子供心に何度も見上げたにちがいありません。

 

桐の老樹への愛着。老樹に「憑依」するような拳の心


でも皆がいない時は、拳は薄暗い家に一人ポツンといるばかり。拳は雑誌の余白や部屋の白壁に落書きをして寂しさをまぎらわせました。家の裏庭の隅に。桐(きり)の老樹がありました。

拳はよくこの大木の下で遊び、友達と手をつないで幹の太さを計ったりしたといいます。桐の老樹は、拳の日常そのものでした。雨の日も、窓から雨に打たれる桐の樹を眺めていたといいます。

すると心が「遊離」し、老樹に「憑依」したようになってしまうのです。あるいは老樹と「交信」しているようにさえ感じたといいます。拳少年の「マインド・ツリー(心の樹)」は、この桐の老樹に深く、強くつながっていました。


拳は生まれた時から老樹のように色黒だったといいます。意地っぱりで、まっ黒になって容易に泣き止まない拳は6歳の時、祖父母の家が商売に失敗し、家を手放さざるをえなくなった時、桐の老樹も伐り倒されることになることを知り、拳は大きなショックを受けます。伐り倒される前夜、拳は寝床を抜け出して老樹に抱きつき、樹肌を撫でて泣きどおしたといいます。後年、土門拳は、愛するものと別れる切なさ、つらさを知ったのは、桐の樹がはじめてだったと述懐しています。桐の老樹の一件は、なにか根源的なものに向おうとする拳の資質、そして気にいった”もの”など対する偏執的な愛着の萌芽を映し出しているようです。また祖父もこの頃、亡くなっています。

 

 

それでもこの頃から負けん気は人一倍強かったといいます。意地っぱりで、町の人を閉口させるほどのガキ大将になっていました。

「集まれ!」と一声叫べば、同年の子はもとより年上の子まで集まってきたといいます。そしてはじまるのが物干竿を振り回してのチャンバラでした。拳が戦後に東京の江東でさかんに撮った「こども」(未刊『江東のこども』)の写真は、まさに自らもそうだった腕白小僧たちだったのです。

写真「江東のこども」は、後の荒木経惟の写真『さっちん』の原型の一つといっても過言ではありません(写真「江東のこども」の一点には、ヤモリをくりくり頭に乗せた子供の写真がある。アラキ写真にしばしば登場するヤモリの「ヤモリンスキー」を思いださせる)。

 

6歳の時、一家は、東京谷中の裏長屋に引っ越す


拳、6歳の時、土門一家は、東京へ居を移すことを決意します。生活を打開するためでした。両親が先発隊となって乗り込み、拳は後に伯父に連れられ上野に向かいました。

上京先は、下谷区(したやく/現在の台東区)谷中初音町の裏長屋でした。ガキ大将だったこともあり、そうやすやすとキザな東京弁を使うには抵抗を感じ、なかなか友達ができませんでした。さすがに方言丸出しを通すのも恥ずかしく、間違った東京弁を使い、それがおかしく駄菓子屋のおばさんに可愛がられたと言います。

遊び場所は、谷中の墓地を抜けたところにある上野の山界隈でした。翌年、また引っ越し。拳は麻布区の板倉尋常小学校に入学します。神社仏閣が多い芝公園界隈は、腕白小僧には格好の遊び場で、そもそも苦手な勉強はいつも後回しでした。

能筆家だった父に厳しく手習いを受けた習字の時間だけは先生に誉められましたが(土門拳は生涯、「書」を好み、手紙は巻紙に書いた)、他は押して知るべしです。

浅草では直前で財布を落として観れなかった映画を、芝の大門館ではじめて観ています。無声映画時代で「目玉の松ちゃん」が全盛の時で、暗闇の中の映像の不思議さに驚くばかりだったようです。

また土門拳の記憶では、2年生の夏休みの時、家の書架にあった俳句集をひっぱり出し、偶然によんだ松尾芭蕉の俳句からえもいわれぬ清々しさ、全身を包み込むようなさわやかな光を感じたのでした。

(2)に続く


・参考書籍『拳眼』土門拳世界文化社 2001刊/『土門拳-生涯とその時代』阿部博行著 法政大学出版局 1997刊/『火柱の人 土門拳』都築政昭著 近代文芸社 1998刊

 

 

 

 

 

 

鬼の眼 土門拳の仕事

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