ポール・ボウルズ(2):少年期、4ページの『新聞』を毎日発行
ポールが小学校に入学する以前からつづけていたことは、「地名」のリストづくりで、その延長上に「時刻表づくり」がありました。外を歩いている時に、気になった岩や薮があると名前をつけ時刻表に書き込むのです。
さらに架空の地名や鉄道の駅名、それに山脈、川、街をどんどん書き込んでいきます。森の小径にも紙片に地名をつけて置いていった。
「時刻表」はじょじょに大掛かりになっていき、最終的には陸地と海のある「惑星」すらも「時刻表」に書き込まれたのでした。「時刻表づくり」は小学校への入学で中断されたといいます。小学校は校長の面接で、1年からでなく2年生のクラスに入れられました。その2年生のクラスであっという間に一番になったといいます。しかし学校は集団のいじめが横行していて、一日通っただけで子供の世界もまた絶えまない”戦争状態”にあることを知り、石を尖らせ待ち伏せして背後から襲い仕返しをするのでした。学校では担当の先生と波長が合わず、ある時期から歌うことを拒否し、「努力の欠如」と判断されます。あまりに理解がなさすぎる先生に恨みを晴らそうと、テストの答えをわざと逆の綴りで書くようになり、テストはいつも「0」点に。母に言いつけられこっぴどく起こられて以降、学校では要注意人物に格上げされたといいます。</span>
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「ごく幼い頃から私が悟っていたのは、自分が楽しいと思ったことはさせてもらえず、楽しくないものを無理やりさせられているいう事実だった。ボウルズ家では楽しみは人をだめにし、一方、面白くない仕事は人格形成に役立つというのが常識だった。こうして私は、少なくとも全体の雰囲気や顔つきに関するかぎり、だましの達人となった。私にとって、言葉とその意味が何よりも重要なものだったので、私は口先で嘘をつけなかった。けれども私は大嫌いなことを夢中になってやっているふりをすることができ、さらに肝心なのは、私が楽しいと感じたあらゆることを隠せた点だった。こうした態度は望ましい結果をつねに生むわけではなかったが、私から家族の注意をそらすのにしばしば役立ち、そうなればすでに私の大勝利だった」(ポール・ボウルズ自伝『止まることなく』白水社 山西治男訳 p.14)
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ポールが音楽のレッスンを受け始めたのは8歳の時。家にグランドピアノが一台購入された。毎週火曜日に理論とソルフェージュ、金曜にピアノのテクニックを学んだ。ポールがピアノを好きになった一つの理由は、ピアノの前に座っている間は、誰も邪魔してくることはないということ。しかも一通り練習を終わらせれば、後は自由気侭にあれこれ弾ける。その後、手際よく宿題を終わらせてからだポールの本当の時間がはじまるのでした。
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「…それから自分に課した毎日のいろいろな雑用をこなした。雑用とは、鉛筆とクレヨンで書いた4ページの『新聞』を毎日発行したり、何人かの架空の人物を日記に書き入れて虚構の世界の情報を増やしたり、取り憑かれたように家の絵を描いて、家の価格と買った人のリストを書き添え、大規模な不動産開発に向けて休むことなく完成をめざすことだった。新聞には毎日、実際には不可能な船旅をしている通信員からの報告が掲載された。「本日、カトシェ岬に上陸。あしたは、どこにいるのやら」とか。私はルーズリーフ式の大きな地図帳を持っていたが、とても重く、やっと持ち上げられるほどだった。いつも、その地図帳を部屋の真ん中に持ってきては、腰を下ろして、床の上に広げ、我を忘れて一ページ一ページ食い入るように見つめた」(ポール・ボウルズ自伝『止まることなく』白水社 山西治男訳 p.36-37)
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8歳になるとマンハッタンの歯医者に一人で行かされ、その際に五番街にある公立図書館・児童室で働いていた父方のアデレード叔母とよく会うように。そして児童室の責任者の女性が月に一度、ポールに特別に本を贈ってくれるようになります。ヒュー・ロフティングの『ドリトル先生物語』やカール・サンドバーグの『ルータバガ物語』などでした。どの本にも作家たちが少年ポールへあてた献辞が書き込まれていたといいます。
アデレード叔母さんは、大人は誰もかもが自分の両親のような暮らし方をし、同じような考え方をするわけではないということを最初に示してくれた人だったといいます(父の祖母や母の姉妹たちは、お前のお父さんは手に負えない人だとよく口にしていた)。グリニッジ・ヴィレッジにある叔母さんのアパートは、なんと「日本風」で、屏風や提灯までも掛っていて、初めて見るものばかり。いつも不思議な香りがしていた神秘的空間は、ポールにとって最高のひとときだったといいます。
それぞれに興味深い父方母方の4人の祖父母のなかで、ポールの興味を最も引いたのは父方の祖父だったようです。白い口髭いっぱいの祖父は四方の壁から天井にまで本で溢れかえった書斎で1日中読書をし、雑誌や新聞の記事を切り抜きファイリングキャビネットをいっぱいにしていました。切り抜きの多くはアメリカ原住民インディアンに関するもので、蔵書の3分の1はフランス語でした(原書でユゴーやバルザックを読むためにフランス語を学んでいた。70代になってからスペイン語を学びだしている)。
少年ポールも祖父にならってインディアンの物語や彼らに関する神秘的なモノを収集するようになります。この父方の祖父母はともにどこの宗派にも所属せず新智学教会の本を読み神秘学に関心をもつようなひとだった。祖母の兄弟が瞑想に長けたヨガの唱道者で、祖父に秘義的な呼吸法を教えこんだりしています。それを獲得した祖父はポールに呼吸法を教えようとしたのですがポールはそれを不愉快だったと感じていたといいます。
小学校低学年の時、ボウルズ家に蓄音機がお目見えします。「チャイコフスキー第4番」がポールの記憶するかぎり初めての音楽体験でした。当初は両親の専有物でしたが、数ヶ月たつとポールがいつもレコードをかけるように。同時にレコードを買い出します(父は休みなくレコードを買い続ける)。最初に買ったディキシーランド・ジャズ・バンドもののレコードを父はクズ扱いし、ラテンアメリカの音楽を演奏する軍楽隊のレコードを買う様になったのでした。
カレンダーづくりもまた少年ポールが熱中するものとなり、クレヨンで描いた絵で毎月のカレンダーを飾ったのでした。そのいっけん子供っぽいカレンダーづくりと同じ時期に、少年ポールは「物語」を書き始めています。それは『四角形ー九章のオペラ』と名づけられたもので、叙情詩を間に取り入れ、その叙情詩にはオペラ風にメロディをつけたのでした。ポール・ボウルズが後に作曲する「オペラ」は小学生の時に早くもそのはじまりがあったのでした。