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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

宮沢賢治の多面体の根っこ(2)

母方は、花巻銀行から花巻温泉、岩手軽便鉄道の設立に参画


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宮沢賢治(1)の続き:一方、母方の宮澤で(鍛冶町宮澤家)の祖の宮澤孝作(1831年没)は優れた棟梁で、手がけた神社仏閣は現在もあちこちに残されています(花巻文化財指定の鳥谷ケ崎神社円城寺門など)。

この宮澤家に婿養子として入った弥兵衛は、文房具や塗物を扱う雑貨商「宮澤屋」を開業、その誠実な人柄で商いは軌道に乗り、田畑ももつようになります。

その孫の宮澤善治が町の人々から「宮善」(宮澤屋を指すが)と呼ばれる大人物となります。善治は、賢治と同様、虚弱体質でしたが胆力・気力があり、時代の動きに敏感で、タバコや塩(専売法以降、指定を受け販路拡張した)、砂糖、ガソリンも扱いはじめ、そのことごとくが当ります。

慶応義塾理財科を卒業した善治の次男が進言した近代的経営のノウハウを取り入れて多角経営に取り組み、花巻銀行から花巻温泉、さらには岩手軽便鉄道などの設立に参画します(善治の次男は花巻農学校の県立昇格に尽力) 

賢治が言うように(知人への手紙中)母方の実家・宮澤家は、まさに花巻一円の<財閥(賢治は”社会的被告”とすら表現している)だったのです(また善治は町会議員を40年余り勤めあげ、その儲けっぷりを表に出さず生活も質素倹約を旨とし、多額の公共の寄付をおこなったという)。

この善治の三男は釜石でタバコ専売店を開業していますが、賢治は度々その地を訪れ、三男が所有するヴァイオリンを弾いたり注文したレコードを届けたりと、2人の間には気兼ねのない関係がつづいたといいます。


家業以外にも情報に通じ株式投資で財を成した父

賢治の宗教心や仕事観に大きな影響(作用も反作用も)を与えた人物の一人はなんといっても父・政次郎(まさじろう)です。

ところが宮澤政次郎と賢治は、かなり資質も気質も異なります(「マインド・ツリー(心の樹)」的に言えば、”樹相”がことなる)。

それでも賢治は政次郎の子として、政次郎の影響圏にありました。

資質が異なる子供が、その親からどの様に、どんなかたちで影響を受けるのか、また屈折し反発しだすのか、そして複雑な心理的関係が時に、またとない果実を産みだすことがあります。その”想定外”の果実を賢治は生み落としたのです。

最もそのプロセスにおいては、親の方も子の方もそう容易には生来の地図を描くことは叶いません。なぜなら2人の関係以外からも影響や刺激が送られ、状況は転位し、新たな目標が付け加えられるからです。

まずは父・政次郎に接近してみましょう。政次郎は若い頃から宮澤一族の家風をうけ、勤勉で堅実な性格だったといいます。

中学生頃から家業の仕事を助け、商いを知り任されるようになると、関西や四国にまで買い出しに出かけ安くて小綺麗な衣類を大量に買い付け、時代にあった商売のコツを掴んでいきます。

情報の収集や研究にかけては人後に落ちず、景気上昇を引き起こした第一次世界大戦中に果敢に株式投資をおこない、財を成しています。

後に「自分は仏教を知らなかったら三井、三菱くらいの財産はつくれただろう」と語り、積極的に店舗を拡張するなど時勢に応じて経営の転換を計る才覚をもっていました。


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店舗経営を近代的実業に切り換える目論みと準備もあり、それを長男の賢治に期待していたようです(結局、次男の静六が家業を継ぎ、大正15年に金物・電動機具商に転じている)。

 

「仏教」が宮澤家の生活軸に。”慈母”としての母の存在

父・政次郎は実務家、理財家の一方、つねに研鑽につとめる求道者でした。

朝夕の勤行が宮澤家のリズムとなり、日常生活もとっぷりと「仏教」に則った生活だったといいます(宮澤家一族の始祖で浄土真宗門徒だった藤井将監以来、200年余つがれた濃密な信仰空間があった)。

幼子だった賢治の子守唄は、政次郎の姉ヤギが唄える親鸞の『正信偈(しょうしんげ)』や『白骨の御文章<(はっこつのおふみ)』でした(賢治3歳の頃にこれらのお経を暗誦。当時はそうした子供はあちこちにいた)。

祖母のキンの口からも年がら年中、「南無阿弥陀仏」の称名が絶えることはありませんでした。↓岩手県内での動画


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また政次郎が法友数人と「我信念講話」の研修会を組織したのは、賢治3歳の時のことでした(1899年)。なんと最初の2年は盛岡高等農林学校の先生から農業についての話を皆で伺っていたといいますが、参加者は宮澤一族はじめ教育者や知識人ばかりで農民はいなかったこともあり、以降宗教論と人生修養を目的とした会になります。

じつは政次郎が求道心を深めた背景には、賢治が妹トシを失ったように、大きな理由があったのです。1903年明治36年)に27歳だった弟・治三郎を亡くしていたのです(この治三郎が「賢治」の命名者で、三陸津波の惨状の写真を撮っていたのが賢治のこの叔父だった)。

政次郎は大沢温泉で催す夏期仏教講習会の世話人となり、仏教書の購入など費用の一切をまかないます。

 

 

小学校にあがったばかりの少年賢治はこの講習会に父に付き従って毎回の様に出、暁烏敏(あけがらすはや)師や近角常観らの話に熱心に聴き入り、とくに暁烏敏師に寄り添って離れなかったといいます。

暁烏敏師は近代仏教の先覚者・清沢満之の許で勉学を重ねた高弟で(日露戦争中の東北大飢饉の際に慰問行脚している)、当時雑誌「精神界」を編集。政次郎はその雑誌の熱心な読者でした。暁烏敏は念仏唱歌を教えたり賢治ら子供たちと角力を一緒にとって交わっています。

宮澤家の裏庭には小屋があり(政次郎の蔵書が収められていた)、賢治ら子供たちはしょっちゅう小屋に入っては仏教書などの「読書」をしていたといいます(清沢満之門下の研鑽は、キリスト教古典からヘーゲルまで、一仏教一宗派にとどまらなかったことを考えれば、賢治が小屋で読んだものは仏教書に限らなかったはず)。

 

 

賢治の弟の静六も外祖母の家でお菓子が出された時に、”煩悩”がおこるといって食べなかったといい、魚料理狂いの祖父とちがって兄弟そろってどれほど仏教が心の基盤になっていたか物語っています(堅物的ではなかったにしろ賢治もおおいにベジタリアンではあった)。

どちらかといえば色白でひ弱な、大人しい性格の少年だった賢治だとみられていましたが、父・政次郎はそんな賢治の裡に、奔放な天馬の様な気質を見抜いていて、地上につなぎとめるためにつねに手綱をとってきたこと、そして「早熟児だったが、仏教を知らなかったら始末におえない遊蕩児になったろう」とも語っています。


父・政次郎は、賢治4歳の年(明治33年-1900年)、26歳にして育英会理事に選任されている。33歳にして町会議員に当選、以降4期勤める。また学務委員、育英会理事、人事調停委員、借地借家調停委員、民生委員、司法委員など町の様々な公的活動を歴任、藍綬褒賞も受けている町の有力者だった。

賢治との確執からくる厳格な父親像とは裏腹に、公的活動では穏和な姿勢で町民に耳を傾け、皆が納得するまでじっくり話し合ったという。

子供たちに対して厳しかったのは、家庭内の厳格さが一家の秩序を保つはずだという時代感覚にくわえ、身を飾るよりも心を磨けという精神主義の過剰からだった。

母のイチが娘トシのために着物をつくろうとしても、つくらせてもらえず、イチは自ら養蚕を育て、自分で繭を売り、生地を用意し娘たちのために着物をこしらえたという。

 

母イチの花巻弁の声音は、<音楽>か<歌>の様だった


母イチは、魚にうるさい祖父喜助や、我が侭な精神主義者・政次郎に対する気苦労から心臓病や神経症に長年苦しみますが、情け深く、心に春風のようなゆとりをもつような生来の気質で、明るい笑顔でひとに接するひとでした。

イチのその気質は、イチの母・徳(賢治の祖母)のそれを受け継いだといわれ、2人とも自然なユーモア感覚の持ち主でひとの心をほぐすのでした。

イチは政次郎に嫁ぐ前は、英語や洋裁を習いに香梅舎という女塾に通い、新たしくモダンな感覚も持ち合わせていたようです。

その感覚は賢治にも影響したようで、トマト(観賞用だったトマトを率先して食べた一人が賢治)やらチューリップ(岩手県で最初にチューリップをつくったのは賢治だという。賢治は岩手県に珍しい花を植えだした張本人)、ビスケットにレコードコンサート、シャープペンシルから外国語など賢治はモダンなものを得意そうに食べたり使ったりする心性がありました。

 

そしてそれ以上に、母イチから賢治に継がれたのは身体そのものが<楽器>となったかのような張りのある立派なバリトン風な声音そのものであり、読経で鍛えた朗々としてシンフォニックな歌声でした。

実際、賢治の朗読を聞いた人たちは、「音楽」の様であり「芝居(時に浅草オペラ風)」の様だったと記憶しています。母イチの声音がまた素晴らしく、花巻弁で喋ると、美しいソプラノでまるで<音楽>か<歌>の様に聞こえたと伝えられているのです。

賢治ら子供たちは幼い頃から母のそれじたい<音楽>の様な声音で、「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」といつも聞かされていたのでした。

それは母が賢治に伝えた生きる上での<楽譜>だったのです。賢治ら子供たちにとって母は、厳父に対する”慈母”でありつづけたのでした。

(3)へ続く:

 

珍・花巻民謡