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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

野田秀樹(2):芝居の”根っこ”にあるもの


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  野田秀樹(1)より:4歳の時に崎戸の島を離れたので崎戸の記憶はかなり薄いといいます。

しかし東京での幼稚園(マリアの園というミッション系幼稚園)に入って以降、ずっと忘れたことがなかったという孤立感は、やはり崎戸の島から根っこをもがれてしまったからかもしれません。

つまり記憶は定かではないが、根の先の土壌や海の匂いがなくなって違和感が残ったという感じです。30歳の頃に思い立って原初の風景を見に行ったのは、「ものをつくる人間として、原風景がないことが、長い間コンプレックスであった」ためだったといいます。<

野田家はどうしてその島の先にある共同アパートを根城にしていたかといえば、父親が三菱炭鉱に勤めていたからで、長崎・崎戸は九州最大の三菱系炭鉱があったのです(廃墟と化した炭鉱遺構の所有者は現在も三菱系の三菱マテリアル)。

 


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そして崎戸島は、高島・端島とともになんと「鬼が島」と呼ばれていたことをおもえば、NODA・MAP(野田地図)の『赤鬼 - The Red Demon』が、演劇の虚構空間性を超えて、やにわにリアルに感じられるようになってきます。

今度は20年余り前に見た原風景が内側から食い破って出てきた様な、壮絶な芝居になったのもその理由の一つからかもしれません。

つけ加えれば、4歳の時に引っ越した(父の転勤)先の明治神宮近くにある代々木の家というのは、三菱の社宅でした。

”同族”の社宅にいながらなぜ孤立感を感じ、「よそ者」意識がずっと続いたかといえば、それは「言葉」からだったようです。

長崎の言葉(長崎弁)が、ふと口をついて出てしまうと学校でも、おそらく社宅でも(周りは東京育ちの子供たちが多かったにちがいない)、ジロリと見られたのを記憶していると語っているので、周囲との”ズレ”をどこか埋められないまま学校通いがつづいたようです。


「生きずらさ」すら感じていた秀樹少年でしたが、小学校時代(渋谷区立幡代小学校)は、表向きは色白のさわやかな少年で、いつも笑顔、腕白小僧の面も持ち合わせ、嫌いな女の子はついついいじめてしまう少年だったといいます(好きな女の子には、この頃すでにおちんちんを見せながら追いかけ回したという)。

 

そのため小学3年の時の通知表には、「悪童」と記されたこともありました。と同時に、頭の回転がよく、この頃から「身体」がきびきびと動き、めげることを知らない、クラスのなかでは信望のあるリーダー格になっていったといいます。

小学3年生にして、「野田秀樹」の未来を予感させるようではありませんか。そして翌年の小学4年生の時、頭の回転がよく、「身体」がきびきびと動き、めげることを知らない少年・野田秀樹は、幡代小学校の名物先生と出会うことになります。

体罰の多い問題教師(漢文が専門)として知られていましたが、カリスマ性がありふつうの先生が絶対にやらない授業をしたのです。この授業とはいったいどんな内容のものだったのか? びっくりしますよ。次回のお楽しみ

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