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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ビートたけし(2):幼少期からある「遊離魂」的な感覚


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ただ母さきが自身の置かれた状況における「違和感」は、たけし自身が幼少期から大人になってからも絶えず感じる「遊離魂」的な感覚と微妙に重なるものがあります。たけし自身は、父と一緒に汚い仕事をやっている時に、好きな女の子見られた時に、それは<俺じゃないんだ>という絶えず強い感覚を覚え、そのため指を切って血を流している時でも、俺の指じゃないというふうに思ってしまう癖があるというのです。

後に講談社に軍団で殴り込みに行き社会的に曝しものになった時や、バイク事故の記者会見の時でも、「こんなもん俺じゃねえよ」という感じがつねにあったため、周りが止めても会見にのぞんだというのです。

 

「これは自分じゃないんだっていうのと、自分だっていう感覚。あらゆるところでポっと抜ける癖」は、子供の時から培われたものだったとたけし自身語っていますが、それは母さきがいう自身の置かれた状況における「違和感」とも深いところでつながっているものかも知れません。


話しは母さきに戻りますが、さきは小学校しか出ていません。小学校を出ると13歳の年に本郷で屋敷奉公に出ています(借金をかたに取られた家を自分でなんとか取り戻そうと働いた。負けず嫌いの少女だった)。

 

同じ「奉公」でも花嫁修業のための奉公でなく、いつまでたっても洗濯と便所掃除だったといいます。料理や裁縫などまずやらせてくれません(裁縫は奉公中に苦労してなんとか身につけたといいます)。そんな辛い体験が、ツブシのきく仕事に就ける学部(当時、それが機械技師だった)に進学できるよう、息子たちに対し、それ以上ないような「教育効果」をもたらしたのでした。

 

 

じつは子供たちに対して教育一筋だった母さきは、独身時代、もの凄い「商才」がある娘だったのです。義太夫を教えていた北野家の養女となっていたさきは、見込まれて日暮里で洋品店を出してもらっています。

さきはその店を大繁盛させ、関東大震災でその店が消失した後も、今度は避難先の谷中ですいとんの店もまた繁盛させ、洋品店を再建しています。

ところが北野うしの図らいで一緒になった当時漆職人(節句などに用いられる弓矢などを塗っていた)をしていたうしの甥っ子の菊次郎が酒と道楽で洋品店を潰してしまったのです(夜逃げ同然で足立区へ)。

 

子供が生まれて以降も半分は飲み代に消えていく給料。さきは着物を縫い、夜も内職、爪に火を点すような暮らしをつづけお金を蓄え足立区に小さな家を建てています(間取りは『たけし君、ハーイ!』にあるような1部屋だけでなく、二畳と六畳、四畳半に台所。ここに7人だからやはり狭いが)。がんらい気が小さい上にますますさきに頭が上がらなくなっていく菊次郎。そうした家庭環境の中で大やたけしたちは生まれ育ったのです。

 

ちなみに、母さきの実父は小宮岩吉といい小宮姓。小宮岩吉の出自は明治維新の頃に「武家さん風の女の人」から預かった赤ん坊だったといわれ、成長し入り婿し、米屋をはじめるもつぶし借金で家をなくし、東京谷中で石屋をやりだしています。

北野姓でつながっている祖母の北野うしのことについて少し。祖母北野うしこそ、たけしの芸能の”ルーツ”かもしれないと兄の大は語っています。(義太夫を教えていた北野家の北野うしとは。北野うしはその晩年は北野家と一緒に暮らしています。

 

北野うしは父菊次郎の伯母さんであり、たけしたちにとって大伯母にあたる存在。実質的な祖母でもある。母さき方をたどればたけしや大とは血のつながりはないといわれるが、父菊次郎はこの北野うしの甥にあたるので血のつながりは遠いものではあるがあることとなる)。

たけしは数々の自著のなかで義太夫の師匠をやっていた祖母について何度も語ってはいますが、その若かりし日のことについては北野家の誰もが知らないため、若い北野うしについては紹介されていません。

 

 

兄の大が、明治後半から大正にかけての若かりし日の北野うしについて調べ紹介していますので少し記しておきます(北野大著の『なぜか、たけしの兄です』より:主婦と生活社 1988年)</span>。北野うしの舞台名は「竹本八重子」。華やかな義太夫語りに、帝大生らがわんさと押し掛け、今でいう「アイドル」ともいえる存在だったといいます。

しかも実力も天下一品「名人」でしたが、最後には血筋と家柄が禍いし恵まれなかったといわれています。大やたけしが少年の頃も、狭い家で週に何回か三味線を教え、また教えに出掛けていました。

大は三味線の音はうるさいだけでしたが、たけしはそれが心地よく祖母に妙に懐き、祖母も「タケ殿」と呼んで可愛がっていたといいます。

 

 

もう一つ重要なのは、北野家があった場所、環境面です。戦中までは北野家の近所(当時の島根町)一帯は、田んぼの中に家がまばらにある程度で、戦後になって貧しい平屋立てがつづく<下町の職人街>になった場所でした。

 

周囲には乾物屋に下駄屋や豆腐屋さん、大工さん、ソバ打ち職人、服屋、螺鈿漆器職人、人形製造工場、まさに<下町の職人街>といった感じですが、北野家からもすぐ近くの人形製造工場の隣にはなんと「ヤクザの事務所」もありました。

 

じつはフランスでのたけし映画熱狂をもたらした映画『3ー4×10月』や、たけし初期映画でたけしが最も深く思いを込めてつくった『ソナチネ』、最新の映画『アウトブレイク』も含め「北野武映画」に必ず登場するヤクザには、たけしが少年の頃に何気に目撃していたヤクザの姿やその光景が映しだされているとおもわれるのです。

 

それはたんに消え入るような記憶の片隅にあるのではなく、もっと内面的に刻み込まれたものとして。というのもたけしは中学3年の時から母さきの敷いた軌道から離れ、友だちの番長に誘われ半年ボクシングジムにも通いだすようになっていますし、小中学校の悪ガキは何人もその事務所にリクルートされ、たけしはそれを見ていますから無関係、無関心ではなかったはずなのです。


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番長とも友だちでボクシングにもはまっていたたけしでしたが、ヤクザ事務所からリクルートされることはありませんでした。

たけしは母の薫陶などからすでになんとも複雑なマインドを持っていたのです。ちなみに小さい頃、近所でつけられたあだ名には驚くことでしょう。それは「アメリカさん」だったのです。