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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

柳田国男(2):祖母が残していった書籍


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儒学者、神官、医師、教員と、転職を繰り返した父
ところが「明治維新」で西洋式の教育方法が導入され、姫路の町学校は廃止。松岡操は職を失い、故郷辻川に戻り漢方医儒学者の仕事を再開しましたが、医師制度の大改革に巻き込まれてしまいます。医家には西洋医学の習得が義務づけられたのです(漢方医は一代に限って開業が認められた)。

辻川村の知識人であり医師であった父の社会的な信用は数年の間に一気に失墜してしまったのです。

家計の必要に迫られていた父・操は、幾つかの小学校で教職に就き「修身」を担当しますが、どの学校でも任期は一年前後の短期に限られていました(師範学校卒が教員の必要条件となる。例外規定があり、「修身」科目だけはしっかりした儒学の知識があれば、正式の教員免許がなくとも教壇には立てたが)。

 

 

この頃、父・操はかなりの神経衰弱に陥っています。時に鳥取県まで出向き漢学塾に勤めることもありましたが望郷への想いがつのり、帰郷し神社の神官の職に就くのです。しかし神官の職も1、2年程の短期でした(今日でいう短期派遣型か契約社員型)。

こうして転職を繰り返した柳田国男の父・松岡操の職業欄には、儒学者、神官、医師、教員と幾つもの職が記されることになったのです。


祖母が残していった『南総里見八犬伝』や百科事典の『三世相』からの影響


柳田国男の2つ目の大きな”根っ子”は、父の母・小鶴(国男の祖母)につながっています。小鶴は、医師となった松岡3代目に子供ができなかったため、隣村の医師中川家からもらい受けた養女でした。この小鶴が息子・操に、孫の国男に影響を及ぼすのです。


幼少より聡明だった小鶴は、儒仏・和学・文学に通じ、とくに「作詩」に秀でていました。しかし13歳から神経症の病に罹り、その後も完治することなく過ごしています。小鶴は、今度は同族の中川家より養子をもらい受け、子供をもうけています。

 

そして松岡家を継いだ小鶴は、息子・操に、自己流の教育を施していきます(養子となった中川至は漢学に秀でていたが、養父と不和となり松岡家から逐われる。後に他家に入り明倫館の教授になり、生野の変で檄文を書き活躍。その功績が後に認められ士族にとりたてられた)。それは毎日一篇の詩をつくることでした。

 

また国男が物心つき、文字が読めるようになった時に、最も国男少年の心を虜にしたものは、小鶴が所蔵していた「本」でした。その本とは、滝沢馬琴著の『南総里見八犬伝』、昔の百科事典の『三世相』『武家百人一首』『蒙求和解』の4冊だったといいます。

 

とくに『南総里見八犬伝』は、国男は暇にまかせていつも頁を繰って、何度も読んだといいます。この4冊は、国男が生まれる2年前に亡くなった祖母・小鶴の数多(あまた)あった蔵書のうち(祖母は晩年は自宅で寺小屋も開いていた)、家計に困った父が書物を大量に処分した後に僅かに残されたものだったのです。

小鶴は息子・操を、学があり詩を好む医者のもとで修業させ、一人暮らしの身となった自らは、息子を想う気持ちを詩集『南望篇』として纏めている。

頼山陽も学んだ郷学の場・仁寿山校に通っていた頃には、この詩集が姫路藩儒学者の目にとまり藩が経済的に苦しい操の学資を支給することになり、操は藩学の好古堂に迎え入れられることになったのです。

後に小鶴は請われ近村の子女に漢学を教えています。篤い法華経の信者だった小鶴は、後に国男が大いに世話になる辻川の旧家で大庄屋の三木氏と儒仏論争もしている才女でした。


せっかくの蔵書を売り払わざるをえなかった父・操は、以降「本」は<借りるもの>だと考えるようになり、それが国男少年に受け継がれていくのです。

 

「生家に本が少なかったことが、かえって私を本好きにした」と後に柳田国男は回想していますが、そのまま父が本を借りることもなく、国男も4冊のまま止まっていたら、国男少年の好奇心はたちまち根腐れしていたにちがいありません。

 

母も「父さんはお前のようじゃなくて、もっと勉強家だった」と国男少年をつねに刺激していました。後に国男が高校時代に「新体詩」を『文学界』に発表したり、田山花袋国木田独歩ら5人からなる『叙情詩』(民友社 1897年刊)の同人となったり、イプセン会を設けたりしていくのも、父・操や祖母・小鶴、さらには母たけの詩や文学、学問への深い関心と志向が幾重にも国男に影響してのことだったのです。


あらためて一人の「マインド・ツリー(心の樹)」は、とくに”根っ子”でつながる何本もの「マインド・ツリー」が折り重なり、木霊し、映し出され、影響し、形づくられていることが、柳田国男の例はよくあらわしているとおもわれます。その意味で、すべての「マインド・ツリー」は、つねに複数形の「マインド・ツリーズ」であるのが本来なのです。

 


「神社仏閣」と「自然」の中で育つ。

樹木や草に「名」をつけて遊んだ

国男少年の「心の樹」をかたちづくることになるのは、生家・松岡家の人々や書物だけではありません。国男少年の幼少期の重要な舞台は、生家の周囲の此処かしこにある「神社仏閣」であり、一帯の「自然」でした。

生家のすぐ裏手にある産土(うぶすな)の社・鈴の森神社や、生家から400メートル程の所にある神積寺(同寺鎮守の岩尾神社には文殊菩薩が祀られている)の大門があり、文殊祭りや「鬼追い」の行事は国男の幼心に強い印象を与えていきます。農耕神や先祖の霊として考えられていた歳(とし)神(歳は古くは「米」のことを意味していていたといわれる)を祀る大歳神社もあちこちにありました。


そして鎮守の森や、庭先の八重桜や白桃、路傍の草木が国男少年の心をとらえることも日常的なことで、国男は気になった樹木や草に「名」をつけて遊ぶ子供でもありました。後に柳田国男はこうした自らの体験から、「ものに名をつける行為は昔から子供の特権である」という持論を披瀝しています

 

ところが樹木や草が大好きだった国男少年に、気難しい気性の母は口うるさい禁止事項を告げるのでした。その一つが、「木登りをしてはいけない」(体が弱かった国男を思ってのことかもしれないが理由は不明)でした。

・参考書籍『柳田国男伝』(柳田国男研究会編著 1988年 三一書房)/『日本人の自伝ー故郷七十年』(柳田国男平凡社)/『評伝日本の経済思想 柳田国男』(藤井隆至著 日本経済評論社)/『柳田国男 その原郷』(宮崎修二朗著 朝日選書)