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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

宇野亜喜良(3):父が隠し持っていた「春画」の影響

 

宇野亜喜良(2)の続き:

飛行機や汽車の絵に飽き足らず、否、むしろ講談社の「絵本」の挿絵を好み「模写」し腕を上げていた亜喜良少年が、妹の『それいゆ』が気になりだしたのは、ちょうど中学生になって異性がさらに気になりだしたことや(もともとお医者さんごっこが大好きだった)、父が絹織物に描いていたもの(何を描いていたかは記されていないが、絹織物だけに女性的でたおやかなモチーフだったのではないだろうか)、さらには自宅で偶然に見つけてしまった和綴じ本の「春画」の影響、加えて亜喜良少年自身の気質や3歳ちがいの妹の存在などが重なったことからくるものだったのかもしれません。

 

春画」に関しては妹の『それいゆ』を見るようになって以降のことかもしれません。亜喜良少年は好奇心にかられるまま和綴じ本を捲っていくと性行為を描いた「春画」だったのです。

それ以降というもの亜喜良は北斎の赤い芥子はヴァギナに見えて仕方なく、蕾はアヌスにしか見えなくなったといいます。

その体験から、浮世絵や錦絵は「春信」好みになっていきます。華美に流れず、原色を避け抑制をきかせた気品ある色彩感覚を展開 渋く甘美で、デリケートで情緒的でおだやかな。

 

おそらくは『それいゆ』体験の後、「春画」体験前後のこと、亜喜良少年は「竹久夢二」の絵に出会ったのでした。戦後1、2年後、中学生の時だったといいます。

「やるせない甘さ」に満ちた木版本の『たそやあんど』がそれで、父の友人で絵の好きな方から借りたものだといいますから、亜喜良少年の父も夢二的世界をとても好んでいたにちがいありません。


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名古屋市立工芸高等学校(西陵高校分校。図案科、美術科もあった。現在はグラフィックアーツ科やデザイン科、情報科などがある。写真家・加納典明も同校出身)に入学した翌年、高校2年(16歳)の時、宇野亜喜良の人生を決定づけたことが起こります。亜喜良少年のこととその作品が新聞で取りあげられたのです(昭和25年5月)。

なぜ取りあげられたのか。じつは母が経営する喫茶店の壁面を埋め尽くした亜喜良少年の作品が噂になっていたのでした(喫茶店は名古屋・栄近く、書籍商の多い鶴舞からもほど近く、芸術・絵画に関心のあるひとたちにも利用されていたと思われる)。

壁面には仏像の彫塑やジャワの古面の模造、ネクタイのデザインやギニョール(胴体に指を入れて操る人形)など、絵だけでなく当時亜喜良少年が気が向いたまま制作していたものがたくさん掛けられていたのです(すでにその頃には注文されて制作するものもあり、ある種の人たちからは評価してもらってはいた)。

 

 

けれども新聞記事というかたちとなって紹介されたことに亜喜良は心底驚き感激したのでした。この記事が大きな契機となって亜喜良少年は「絵」を自分の仕事にしようと決めたといいますから、母の営む「喫茶店」が宇野亜喜良の将来への懸け橋になったといえるでしょう。


そしてこの高校生の頃は、さらに挿絵の世界に目が開かれていった時期と重なります。吉川英治の『宮本武蔵』や中山介山の『大菩薩峠』で知られる石井鶴三の挿絵から、見事なデッサン力で華麗な色彩で舞妓を描いた宮本三郎の挿絵、モダニズムの最前線の一翼を担い探偵小説に強かった『新青年』の表紙絵を描いていた松野一夫(西洋風俗画)の挿絵と、亜喜良少年は旺盛にさまざまな挿絵に触れています。

 

なかでも東京の風俗に精通し永井荷風の『墨東綺譚』昭和12年、私家版として発表後、東京朝日新聞に連載)に描かれた木村荘八の挿絵に夢中になったといいます。

高校生3年の亜喜良少年が、日々新聞を開いていたのも『花の生涯』(船橋聖一作。昭和27年新聞連載開始)に描かれた木村荘八の濃厚なエロティシズム漂う挿絵に胸をときめかせていたからでした。

 

こうして宇野亜喜良は、タブロー(キャンバス画)よりも「挿絵」に関心を深めていきました。振り返ってみれば、『それいゆ』や『少年倶楽部』、夢二体験、講談社の「絵本」だけでなく、父が絹織物に描いていたものこそ、タブローではなく「挿絵」的なものだったのです。

 


東京に出て以降、日本デザインセンターなどで尖鋭的デザインの仕事にかかりっきりになったりしますが、30歳頃になると宇野亜喜良の”根底”にあるものが疼きだし、イラストレーションに、そして挿絵の仕事に取り組むようになっていったのです(最初の仕事の一つが、和田誠に紹介された児童文学作家の今江 祥智-いまえ よしとも-との仕事で『あのこ』という児童文学の挿絵だった)。