伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ウィリアム・モリス(2):ロマンス小説に耽溺

ウィリアム・モリス(1)から:

8歳の時、父に連れられてカンタベリー大聖堂を訪れていますが、そのとき天国の門が開かれたような圧倒的な印象をもちます。9歳、少年モリスはパブリック・スクールに進学するための私立小学校に入学。13歳の時、父が死去。


この頃ウォルター・スコットのロマンス小説に耽溺。翌年パブリック・スクール入学。学校ではほとんど学ぶことはなかったといいます(何も教えてくれなかったと語っている)。

5年生以下の生徒が大部屋に一緒に詰め込まれているような学校でしたが、そのぶん自由で規律もゆるやか、午後の時間帯に他の少年たちがクリケットをしている間、少年モリスは近くのサバーナクの森や、エイヴバリの古代環状列石群(ストーンサークル)、山稜にあるケルト文化以前の古墳にふれに行っていたといいます。


 

学校での成績は真ん中程で、幾何学だけは最下位でした。ラテン語の学習も大嫌い。どういうわけか「歴史」に関することは何でも惹き付けられたといいます。性格は気だてよくみなに親切ではありましたが、ひどい癇癪もちだったそうです(ただ怒ればすぐに消えてしまう性質のもの)。

少年モリスには始終手を動かしていなくてはいられない妙な癖があり、ある時など机に網の片端をつないで何時間でも編み続けていたといいます。


生涯のうちウィリアム・モリスが手がけたもののほとんどは手仕事だったことを思えば(詩も含む)、奇妙な一致とおもわずにおられません。

 

また幼い頃は家系的に体質が虚弱で食事療法で命を保っていたほどだったといいますが、森を歩きまわり外気に触れるうちにがっしりと逞しい少年になっていったようです。
しかし後年にみられる堂々とした体躯と男性的な積極果敢な態度の奥には、神経質で激しやすい気質と女性的な感じやすさが潜んでいました。そのため異性よりも同性の方に気持ちがむきがちだったといわれています(異性問題とはまったく無縁な人にみえたといわれている)。

18歳の時、聖職者になることを夢に描き、20歳の時、友人バーン=ジョウンズと修道会を組織する計画をたてています。モリス家の空気と少年期の圧倒的な感動は、ウィリアム・モリスの”樹芯”を流れるものでした。

19歳の時、ラスキンの『ヴェネチアの石』に出会い、翌年同じくラスキンの『建築・絵画・講演集』を読み、またラファエル前派を知るにいたったモリスの心の裡で、強烈な<化学反応>が起こります。その<化学反応>は、モリスが子供の頃、日々遊びに行っていた「エピングの森」での体験と記憶とにさまざまに反応しあうものでした。


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「子供の頃、エピングの森のチングフォード・ハッチのそばにあるエリザベス女王の狩猟小屋で、色あせた草木模様の飾りが掛っている部屋を初めて見て、強烈なロマンスの感覚に打たれたことをよく覚えている。その時の感覚は、ウォルター・スコット卿の『好古家』をひもときーこの物語を私は繰り返し読むのだがー、この小説家が絶妙な技をもって夏の詩人チョーサーの新鮮で輝きに満ちた詩句をちりばめてモンクバーンズの『緑の部屋』を描写したくだりに行き当たるたびに、私の心によみがえってくる感覚だ」(『ウィリアム・モリス伝』フィリップ・ヘンダースン著 晶文社
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実際に森の中のその部屋(草木模様も飾りも含め)こそ、ウィリアム・モリスが装飾を手がけることになる多くの部屋の原型になったといわれています。モリス&カンパニーや『ユートピア便り』、ケルムスコット・プレス設立のあたりも極めて興味深く、興味のある方ぜひモリス伝にあたってみて下さい。

余談ですが、建築家フランク・ロイド・ライトの母は、あまりにもウィリアム・モリスのファンで、幼少期の息子フランクの部屋を徹底的にウィリアム・モリス好み(つまり母好み)でしつらえたといわれています。


それがフランク・ロイド・ライトに影響を与えなかったわけがありません。そのあたりこのブログ中のフランク・ロイド・ライトのコーナーであたってみて下さい。

参考書籍:『ウィリアム・モリス伝』(フィリップ・ヘンダースン著 川端康雄他訳 晶文社 1990刊)