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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

田中一光(3):キャスティングの手習い


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田中一光(2)から:

鐘淵紡績への入社において一光が希望したのは宣伝(まだ世は「宣伝・広告」の時代ではなかった)でしたが、配属先はテキスタイルの意匠室でした(室長は佐伯祐三と画家をめざしパリ留学した人物でプリントデザイナーに転向した人物)。

演劇部のアトリエ座の同期生は、照明や衣装、舞台美術など全員が演劇に関係する仕事に就いていたので、「宣伝」という一光の希望は異質だったようです。なぜ「意匠」でなく「宣伝」だったのか。おそらくは少年時代に、似顔絵をつけたり切り抜きをコラージュしたり、キャッチフレーズをひねりだし、新作の映画を企画し新聞広告を作ってひとりで楽しんでいた記憶が木霊していたにちがいありません。

 

ところが意に反する配属先の意匠室で一光は、海外からエアメールで次々に届く『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』『モダン・ファブリックス』など最先端の雑誌に目を奪われ、マチスピカソからマグリット、ミロ、グリュオー、アーヴィング・ペンの写真に心を奪われるのです。大阪の駅前にまだ闇市が残るなか、あまりにも斬新な視覚体験の連続。また鐘紡意匠室は松竹少女歌劇の舞台衣装をデザインすることもあり、「少女趣味」の一光はおおいに張り切ることに。

 

が、入社して2年半後、仕事中も芝居の話ばかりで盛り上がっていた一光は左翼と間違えられ(新劇=左翼の時代)、なんとクビになってしまいます(この時、自暴自棄になって自殺しようと白山まで行って躊躇した話が自伝にでてくる)。

クビになった苦痛を紛らわすため行動美術協会で知り合った妹尾河童が手がけていた看板やポスター制作を手伝いだします(鐘紡の勤務時間後、美術をはじめからやり直そうと行動美術協会の研究所に通っていた)。

その時、産経新聞社が建物を建築中だということを知り、面接に行った一光は採用されるのです(皮肉にも鐘紡の重役の紹介状をたずさえていた)。配属先は文書課で、描くことができない心的苦痛がつづきます。しかしこのやりたいことのできない<心的苦痛>こそが、自身の裡に確かに”芽生えた”欲望だということにはたと気づくもとになります。

一光は誰にも頼まれない手書き「ポスター」を描きまくるのです。一光は鐘紡の意匠室にいた間、さまざまな上質の刺激を受けるうちに、「ポスター」をつくりたいという欲望が押さえきれなくなっていきます。

 

一光が勝手に制作していたのは産経グループ内の別会社が企画するイベントのポスターで、「次週上映」とか「前売開始」とか書き込み、実際の印刷物が貼り出されるまで、会社のエレベーター前に無断で貼り出したのでした。


勝手なポスター制作が1年ほど続いた頃、そのポスターがある人物の目にとまり呼び出されます。産経グループ内の別会社の社長でした(ファッションショーの舞台美術も担当していた吉原治良で、日劇の舞台の緞帳のデザインもしていて一光はそのモダンなデザインにしびれていた。吉原治良は1年後に「具体美術協会」を結成)。

 

一光は吉原から舞台美術の助手を任されるようになり制作物の評判が上がると「資材部」に配属されることに(ポスターなども制作していた部署だった。次いで広告部に配属されたもののそこでの仕事は肌に合わず、今度は新聞の部数を伸ばす販促活動をする事業部へとまわされる)。まるで”根比べ”のような日々がつづきます。


事業部の様々な販促活動のなかで、一光は生涯で一番長く付き合うことになるある「ポスター制作」に出くわすのです。それが「能公演(産経能)」のポスターでした。田中一光産経新聞を辞めて以降も、観世能と提携した「産経観世能ポスター」を30年に渡って手がけることになります(生涯で一番長く付き合うことになったこのポスターについて、奈良で生まれ京都で刺激を受けた環境が体質的に合っていたと一光は語っている)。



後に「西欧の先端的なモダニズムのデザインと日本の伝統にルーツをもった意匠を巧みにブレンドし、コンテンポラリーなヴジュアル表現を生み出したグラフィック・デザイナー」と世界で評価を得ていく田中一光の「グラフィック・デザイン」の原点がこの「能公演」のポスターでした。


その後、永井一正木村恒久らと「Aクラブ」を名乗り、早川良雄や亀倉雄策、原弘らと出会い大きな刺激を受け、田中一光は「デザイン」を認識し、「デザイナー」となっていきます。

 


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27歳の時、ライトパブリシティに入社、その3年後に日本デザインセンターに移り、またその3年後に「田中一光デザイン室」を立ち上げ独立(33歳。煙草の「ロングピース」のデザインコンペで優勝し、優勝賞金をデザイン室の敷金にしている)するまでの、20代後半から30代前半、クリエーターならば誰もが我武者らに仕事をし自問自答し煩悶するこの熱くも曖昧な時期について、『自伝ーわれらデザインの時代』のなかで田中一光は自身のその時期を熱く記します。



最後に「アートディレクター」としての田中一光の原点をみてみましょう。西武グループととの仕事が多くなった時、一光は振り返るように次の様に語っています。

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「アートディレクターなどというと聞こえはいいが、興奮が醒めると、自分が単なる手配師にすぎなかったのではないかという虚しさに襲われることさえある。それでも私はこうした裏方が好きで、仕掛けの時間を楽しんでいるのかもしれない。

……すべてを自分の手で行なうのではなく、デザインの総合性という観点から、時にコピーやイラストレーションなどを他人に依頼するほうが、美しい三角形ー起業とデザイナーと社会・消費者ーとなることが多い。つまりキャスティングによってアートディレクションの半分は完成するわけで、それは演劇を上演する作業ととても似ているのである」『自伝ーわれらデザインの時代』(p.210〜211)
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そして、『自伝ーわれらデザインの時代』を読んだ私たちはすでに知っています。美術学校時代の「演劇」の遥か昔、ひとり「芝居」を観にくりだし「映画狂」だった小学生の一光少年は、新聞や雑誌を切り抜きし俳優を並べ「キャスティング」し、広告を作ってひとりで遊んでいたことを。

田中一光によればアートディレクションの半分の仕事はこの「キャスティング」なのです。田中一光はつねにお客を喜ばせる仕掛けを考え、その効果を陰で確かめる行為を好むといいます。こうした感性もアートディレクターに必要な要素で、田中一光はそれを「芝居」の現場と感覚から学んだのでした。