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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

アンドリュー・カーネギー(3):叔父の「教育方針」方針と「記憶力」


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アンドリュー・カーネギー(2)から:

そしてもう一人、A.カーネギー少年に特段に影響を与えた人物がいました。ラウォーター伯父でした。伯母を亡くした伯父は一人息子(アンドリューにとって従兄弟)とアンドリューと、よく3人で一緒にいました(父はいつもあまりにも仕事に忙しかった)。

いろんなことを教えてくれたなかでも、A.カーネギー少年に強烈な印象を残し、生涯にかけて影響を与え続けることになったのは、英帝国やスコットランドの「歴史」や「詩・文学」でした。イングランドスコットランド支配に抵抗し戦ったウィリアム・ウォレス(後にスコットランド貴族の裏切りにあいロンドンに送られ謀反人として四つ裂きの刑で処刑された。

 

メル・ギブソンが製作した映画『ブレイブハート』の主人公でもある)やスコットランド王のこと、それにロマン主義運動の先駆者でスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズスコットランド民謡を蒐集し改作したものの一つに日本でもお馴染みの『蛍の光 Auld Lang Syne オールド・ラング・サイン』がある)のこと、さらには作家のウォルター・スコット(『アイヴァンホー』など)や劇作家で詩人のアラン・ラムゼー、盲人の吟遊詩人ハリーのことなど、たくさんのことを覚えたといいます。

 

こうしてカーネギー少年の”心根”は、スコットランドに滔々と流れる歴史と文化の地下水に至ったのでした。カーネギー少年にとって、スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスは、「ブレイブハート」=「勇気」の象徴となったのです。

 

A.カーネギーは、「少年にとって<英雄>を崇拝するということは、大きな力となる」と語っています。ところがこのことが新大陸に移住して以降、気持ちの上で支障をきたしてしまいます。スコットランドの英雄が、A.カーネギー少年の力と魂の象徴でありつづけたため、かなり長い年月にわたってアメリカの地は一時的に居を構えるにすぎない場所だという感覚から脱出できないでいたといいます。


さらにラウォーター伯父は、A.カーネギー少年の生涯に響きわたる「教育方針」をもっていました。伯父は従兄弟とカーネギー少年に「朗吟」をやらせたのです。少年の教育には、「朗吟」(詩歌を声高らかに唱えること)が非常に重要な役割をはたすと、伯父は固く信じていたのです。

従兄弟とカーネギー少年は、顔に化粧をし紙でつくった兜(かぶと)をかぶり木の剣を手に学友たちや大人の前で、勇ましくロバート・バーンズらの中世の英雄詩を声高らかにうたったのです。


「伯父のこのような教育方針にしたがって、私の『記憶力』はたいへんに強化された。この方法は若い人たちを訓練する最もよい手段で、自分の好きな詩を暗誦させ、それをたびたび人の前で語らせることである。

私は自分が好きだと思ったものであったら、すぐ暗誦してしまうので、この速さが私の友人たちを驚かせたのである。好きでなくても私はすぐ暗誦することができるが、自分に強く訴えるものがないなら、数時間後にはすっかり忘れてしまうのであった」(『カーネギー自伝』p.31)

結果的にカーネギー少年の「記憶力」が高まるなか、父の織物業の仕事はついに息の根をとめられまでになります。母の2人の姉妹はすでに新大陸のピッツバーグに移り住んでいて、手紙を書き送ると息子たちのためにもアメリカに来るように連絡してきたのです(機織機をすべて売っても家族でアメリカに渡る旅費のすべてをまかなえず母の友人から一部借りている)。

カーネギー一家は、カーネギー少年13歳の時、新大陸へ向けて出発します。

 

 

新大陸に渡ったカーネギー一家はスコットランド人が経営する綿織工場で働きだしています。カーネギー少年は最初、糸巻の仕事に就き、すぐに別の工場で子供ながら蒸気機関を扱わされ、ついで請求書づくりで単式簿記を、さらに複式簿記を学んでいきます。

そして電報配達夫にならないかと叔父を通じ声をかけられるのです(このあたりからが子供用伝記に描かれだす場面です)。これ以降、電信局での活躍と若くしてペンシルベニア鉄道の主任となり、橋梁建築での実績からいよいよ「製鉄所」へと転身し、「鉄鋼王」となるまでは、『カーネギー自伝』にあたってみて下さい。

 

 

最期に冒頭でも紹介した「カーネギー図書館」の原点について記しておこうとおもいます。カーネギー少年が電報配達夫だったある日のことです。ピッツバーグに暮らす大佐が自分が所有する400巻の書籍を「働く少年たち」のために開放したのです(土曜日に1冊借り出すことができた)。

ところが「働く少年」も職によって分類され、電報配達夫は借りることができなかったのです。カーネギー少年は地元新聞に「働く少年」の条件を限定しないようにと一文を書いて寄せ功を奏し、ついに『合衆国の歴史』や『シェークスピア物語』を毎週借りて読むことができるようになったといいます。

本を借りることがかなわなければ、A.カーネギーが成人して以降も歴史や文学に関心を寄せつづけることはおそらくなかったにちがいありません。後にロサンジェルスの「カーネギー図書館」に毎週のように通い続けたレイ・ブラッドベリチャールズ・ブコウスキーもそうした少年たちだったのです。