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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

イサム・ノグチ(3):何になりたいという目標に欠けた子


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イサム・ノグチ(2)から:

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「ぼくは母の想像力の落とし子なのかもしれない」と語っていたイサムですが、父の生き方もまた含まれねばならないこと、そして2人の生き方の軌道が交点を結ばなかったことを次のように語っています。
「ぼくの物語を書くとしたら、すべては父と母の生き方からはじめねばならない。今世紀初頭の、明治のあの時期に、母がなぜ日本へ渡ったのかというところからだ。いわば、ぼくという落とし子は、母がそのときにとった人生の選択の結果なのだ。

また、母の苦労と、母の期待が、ぼくがいかにしてアーティストになったかと深く結びついているはずだ。母が心に描いたもの、つまり母の<日本>とね。

しかし、父は、母が描いたもののなかに納まるような存在ではなかった。不幸にして、父には別の、つまり父自身が描いた絵があった。二人の出会いのその不幸な部分が、ぼくの育ちそのものなのだ」(『イサム・ノグチー宿命の越境者』ドウス昌代著の冒頭の文章でもある)
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2人が出会ったのは米次郎の驚くほどの意志と行動力の結果だったことは間違いありません。生活費のない米次郎が最初にありついた仕事は、日系の愛国同盟の日刊「桑港新聞」の配達ボーイでした(後に記者も体験)。

ついで住み込みで家庭内の労働をしながら通学(小学校に通った)。異国生活で「ジャップ」呼ばわりされその悔しさから愛国心をつのらせますが、その頃に英詩に関心をもちだします。夢想家で異常に好奇心が強い米次郎は、「シエラ山脈の歌」で知られサンフランシスコ文壇の花形詩人ウォーキン・ミラーの丸太小屋を訪れます(ミラーはオークランド郊外の地に7万本の植林をした)。

心の広い自由人ミラーを師とあおぎ生活をともにしながら詩を書きはじめるのです。「アメリカで詩人になる」、それが米次郎の目標になります。ミラーはエドガー・アラン・ポーの詩風に倣った米次郎の詩を自身が起稿していた地元の文学誌に紹介し、話題となり、処女詩集『見界と幽界』が出版されるまでにまります。

余勢をかって米次郎はロンドンに行き、詩集『東海より』を出版し(出版社からの出版は叶わなかったため私家版として刊行。米次郎は「帝国文学」誌や慶応義塾学報に寄稿し日本文壇とのつながりを築いていたこともあり詩集『東海より』は日本で翻訳本が出版されることに。

詩作で英米の地での成功は偉業とされ予想以上のインパクトを日本の詩壇に与えた)、アメリカ東部の詩壇でも認められるようになります。とにかく米次郎の詩人としての成功への思いは驚くほどのものです。

しかし経済的余裕はなく生活資金を得るために書いていた『お蝶さん日記』と、書きためていた英詩の手直ししてくれる人を求め新聞に求人広告を出したのでした。レオニーに編集的仕事を任せつつ、米次郎は「ワシントン・ポスト」紙の才色兼備の文芸記者エセル・アームスに熱を上げていきます。レオニーに対する恋愛感情がないなかで生まれたのが、イサムだったのです。

幼子のイサムを連れ来日した折にレオニーは一時的に米次郎と暮らしています(米次郎には本妻があったが、私事に疲れ北鎌倉の円覚寺にある蔵六庵に一人籠るようになっていた。蔵六庵はかつてロンドンから帰国した夏目漱石が筆をとった場所)。

レオニーは自活するため働きにでます。茅ヶ崎に住んでいた頃、レオニーはイサムとは異父の娘アイリスを生んでいます。イサムは7歳年下の妹の面倒をみるのを嫌がり家出ばかりするため、イサムを土地の大工(指物師)の許へ弟子入りさせています。

それは茅ヶ崎の地に小さな持ち家「三角形の家」を自ら設計し建てるためで、レオニーはイサムをなんらかのかたちで国境をこえ文化の多様性を表現できるアーティストにしたいという願望を、自分たちの家を設計することから具体化させようとしたのでした(建築家というイメージは強要しなかった)。家の西面に造った丸窓からは浮世絵のように「富士山」が見えるのでした。イサムはその時の様子を後年次のように語っています。


「美へのもっとも鮮烈な、最初の目覚めとなった。そのときの感動が、体の一部のように生涯のこった」<

 

禅的な丸窓は、札幌モレエ沼公園の遊具にもあけられました。そしておそらくは「遊び山」のイメージの源流は、茅ヶ崎の「三角形の家」の丸窓から眺められた「富士山」にあったのではないでしょうか(イサムはピラミッドや聖なる山を生涯イメージの核心に置きつづけた。初めての持ち家として、子供ながら自ら設計図を引いたのも「三角形の家」だった!)。

この時期にイサムは「大工道具」の基本的な使用法を覚えています。「三角形の家」を設計し、大工の許にいた10歳から11歳にかけての時期が、イサムが少年時代に唯一心から喜びをもって学んだことだったでした。彫刻家イサム・ノグチの”樹芯”になる手の感覚が深くかたちづくられ美的感性が刻み込まれた時期だったといえるでしょう。


その数年後、母レオニーは「日本人」としてイサムを育てようとした当初の願いと自分の手で教育するという独自の考えを断念しはじめていました。

アメリカ人」としてサバイブしていけるように横浜の山の手にあるセント・ジョセフ校の寮に送り、イサムの気持ちをはかり間違え、13歳の時ひとりアメリカ・インディアナ州の片田舎にある自給自足を旨としたスクールへ送りだしたのです(アメリカ開拓精神をもとに生徒は自分たちで建てた丸太小屋に暮らし自分たちの育てた作物で食事をし、母親から引き離し独立心をもった一人前の青年に育てるというカリキュラムをもったスクールだった)。

この時、イサムは母が突然に自分を突き放したと大きなショックを受けています。

 


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「好きなことに熱中すると、他のことすべてがおろそかになる傾向があります。また何になりたいという目標に欠けた子です……手先が器用で、手仕事に非常な集中力があります」


これは母レオニーが送り出す息子イサムについてアメリカのスクールの校長に送った手紙の一文です。この数年前に少年イサムは、大工と一緒に「三角形の家」の設計と大工仕事を心底楽しんでいたのでした。そしてその手感覚と美的感性は生涯つづくことになったのです。


さらに興味深いことに、少年イサムが最も夢中になったのは家の「庭づくり」だったというのです。

レオニーが小さな庭のすべてをイサムに任せたので、イサムはレオニーに英語を習いに来ていて知り合った園芸試験場に勤める青年からバラの苗木を沢山あつめ、さらに見事な庭をつくろうと日曜日になると4、5キロも離れた山に入りこんで山ツツジなどの珍しい花をとって植えるほどのめりこんでいます。そして次の一文に驚くことになります。

 


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「ポンプから溢れる水を引いた小川をつくった。この庭には私にとってはじめての罪の意識が伴っている、というのは隣家の林から岩を一つ失敬して庭に置いていたからだ」(『イサム・ノグチー宿命の越境者』p.150)
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少年イサムは、花だけでなく「岩」を庭に置いた! のでした。そしてそれは母レオニーの美意識とも合致していたはずです。「ぼくが母からしっかりと受け継いだのが、日本庭園への憧憬である」イサム・ノグチ