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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

パウル・クレー(3):母が全身不随の病、一家の風景が一変

「音楽」への愛が深まったにもかかわらず、

「不安」が生じてくる


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パウル・クレー(2)から:

10歳の時、少年パウルギムナジウム(高等中学)に入学します(入学試験は免除されている)。学校では当初、とりわけ生物学や数学、古典語と、パウルは熱心に勉強し、成績も上々でした。博識な父からたくさんの刺激を受けたことも勉強へのヤル気につながっていたようです。
この年、パウルはオペラを初めて観劇しています(おそらく両親に伴って)。演目は『吟遊詩人』でした。パウルは大興奮します。これ以降、パウルのオペラ観劇はずっと継続されます(バレエは一度だけだった。演劇・歌劇には俳優が別人格にまるっきり変身することの魔術性と舞台風景にパウルは惹かれつづけた。芝居を”本”で読むことも異常に好んだ)。

 

クレー一家は定期演奏会通いもかかさなかったので、パウルの「音楽」への愛も深まっていきます。イタリア古典歌曲(ランディ)にはとくに深い感動に浸されています。バッハのソロ・ソナタを弾いていると、スイスで高い人気を誇っていた画家ベックリンの作品がとるに足らないもののようにみえてくるのです。


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ところが、少年パウルの内で次第に獏(ばく)とした「不安」がつのってくるのでした。四行詩を幾つも書きだしたのもこの頃です。そしてスケッチブックを手にし何やらものを描いている時にだけ、どこからか「希望」ともいるような清々(すがすが)しい感覚を覚えるのでした。

窓ガラスに映る<自分の姿>を「観察」すると、いつもとは異なる感覚で満たされたといいます。以前にも何度も自らに問いかけ、<自分自身>のことを掴みとろうと”研究”してみたといいます。が、結局いつもはうまく探れなかったのに、今回はパチッと何かが弾け、「理解」できたというのです(10歳を少し過ぎた時のこと)。

 

Diaries of Paul Klee, 1898-1918

Diaries of Paul Klee, 1898-1918

  • 作者:Klee, Paul
  • University of California Press
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一家の風景が一変、母が全身不随の病に。「文学」に熱中


その翌年、11歳の時、得意だった数学の授業で、これまでにはなかったことが起こります。質問にまったく答えることができず、先生から「もっと勉強しなさい! もう座ってよろしい」と告げられたのです。

少年パウルは、「眠っている力をそっと隠すのだ」とこの頃、思っていたようです(見えない存在になろうとしたカフカの様に)。

そして「外側では微笑み、内側でもっと自由に笑い、魂には歌、唇には小鳥の囀(さえず)るような口笛を吹いて」「どこへ行ってもいい。私には確信がある。私は自然を愛している、自然は私を慰め、約束をしてくれる。私は<不死身>だ」と。

5年続けてきたヴァイオリンの調弦が上手くできなくなったり、絵も描けず、詩も書けない心理状況が繰り返し巡ってきたようです。

 


ヴァイオリニストになろうと思ったことはない、と日記に書いています(11歳の時)。

自分には華やかさが欠けているんだと。パウルの意識は内側に向かい、叙情的な詩の詩集をつくる計画をしたかとおもえば、エロティックな詩を書いたり、自主的に参加していた読書会で(おそらく父とともに)ソフォクレスの『アンティゴネ』を読んでいます。短篇小説を幾つか書いたのもこの頃でした(この年に全部処分)。

次々に代わるオペラのソプラノ歌手への憧れ。一夫多妻の考えすら浮かんだという行くあてのない衝動ばかり。途中、ギムナジウムを辞めたいと両親に告げていますが、反対されています。以降、受難の日々がつづきます。


パウル14歳の頃から、クレー家の風景は一変します。パウル自身もひどい盲腸炎に罹っただけでなく、母が全身不随となり、以降20年以上にもわって病床に臥さざるをえなくなったのです(室内中に呼び鈴がとりつけられた)。重い病を患っても母は気丈に振る舞いつづけたといいます(クレー42歳の時に母、逝去)。

 


パウルの心の内では、「文学」への関心が膨らむばかりでした。シェークスピアセルバンテス、オビディウス、モリエールイプセンヘーベルオスカー・ワイルド、ゾラ、トルストイチェーホフ、ゴーリキィ、ショーらの作品を手当たり次第に読みまくります(ギリシア語への強い関心。ギムナジウムの卒業時には文学士の資格を得ている)。

パウルが「日記」を書きはじめたのは、ギムナジウム卒業真近かからでした。「日記」はその日の体験や考えに加え、読んだ本のタイトルにそのコメントも付けられ、本に関する事柄で溢れていました。少年パウルは、汲めども尽きない疲れ知らずの「読書家」になっていたのです。


父の反対を押しのけ、母はパウルミュンヘンの画塾に送り出した


好奇心に溢れた「読書家」パウルでしたが、学校の成績はさらに落ち、お仕置きに両親はパウルを修学旅行に行かせなかったようです。ギムナジウムの卒業試験は落第点より4点上でぎりぎり試験に通り、修学旅行の代わりに一人で遠出し、スケッチブックと色鉛筆を持ってビール湖にある島に初めての写生旅行に出掛けます。その時、パウルは自分は「風景画家」だと深く感じたといいます。その思いは強くなり、ミュンヘンに絵を習いに出たい衝動を押さえることはできなくなります。


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ところがその思いは、「音楽家」としての将来を見込んでいた父とついに衝突することになります。クレー家のなかで、パウルの多彩な才能を感じ取っていたのは母でした。祖母や親類縁者との付き合いから、どれほどパウルが絵を学びとってきたことか。またその絵と絵に熱中するパウルの姿には、ヴァイオリンの演奏会の様には人々を魅了することはできていないにもかかわらず、特別な何か(才能)が不思議な息子パウルに潜んでいることを感受していたようです。音楽の道を歩んできた母イーダは、ひろい芸術的感性をもっていた女性だったのです。


母は父の意向をつっぱね、息子パウルの気持ちを汲み絵描きへの道を選ばせ、絵画熱が沸騰していたミュンヘンへと送り出します(母は親類縁者をたぐりミュンヘンの知人の住所をパウルに持たせ送り出した)。気負ったパウルは狙っていたミュンヘン美術専門学校(アカデミー)に自分の作品を持ち込んだのですが、画塾で予備教育を受けるように諭されます。大都会の空気に触れたパウルは、ミュンヘンには3000人以上もの若き絵描きがいて、自身もその内のひとりに過ぎないことをひしひしと感じざるをえませんでした。

 


一方、パウルはまだ気侭なもので、ハインリッヒ・クニールの画塾で知り合った仲間たちとリヒャルト・シュトラウスやヴァインガルトナーといった当時の名指揮者がタクトをふるう演奏会やオペラ観賞に夜ごと繰り出すのです。

ただこの画塾で、年配の退役大尉から手探りするように描く方法を教えられ(裸体デッサン中心)、パウルはあっという間に頭角をあらわし画塾の期待の星となったのです。期待の星として次年度の入学を目指したパウルでしたが、実際には入学に2年かかっています。パウルはこの頃、ミュンヘン美術専門学校を出ておくのは、将来の生存競争を生き抜くためにも必要なプロセスであり、後に大学に通って文学と哲学、美術史を勉強する考えがあることを母に手紙で書き送っています。

 

ミュンヘン修業時代に、3歳年上のピアニストの女性と出会う


このミュンヘン修業時代は、パウルにとって必要不可欠の待機時間であっただけでなく、決定的な出会いをもたらしています。人生は面白いもので、その人にとって生涯無二の存在(たとえば生涯の伴侶)は、人生の目標が到達された後にあらわれるというよりも、暗中模索しながら前進している時にこそあらわれることがえてして多いということです(無論様々なケースがあるものの、今日とちがって結婚年齢が格段に早かった時代は往々にそうしたケースが多かった)。

 

 

そうした時期に出会った人は、立場がつくりだすイメージや人間関係、環境ではなく、その人の内面から沸き上がる人間性そのものの魅力に感じ深い付き合いがもたらされます(ために、破局も頻繁ではあるが)。パウルが出会った女性、リリー・シュトゥンプフともまたそうした女性でした。リリーは3歳年上で、母イーダと同じくピアノストでした<(つまりリリーは、母イーダと同様、音楽をよくしながらも、やわらかい芸術的感性をもち、パウルにとっては遠く離れて暮らす母親的役割を担ったでろう)。


出会いは、画塾ではなく、母の友人を通じてとりおこなわれることになったバッコーフェン夫人宅での家庭演奏会での事でした(20歳の時。ミュンヘンに来てから1年以上たっていた)。そこにピアニストとして招かれていたリリーに、パウルは一目惚れしたのでした。バッコーフェン夫人宅や母の友人宅で繰り返し催された家庭演奏会で、2人は頻繁に共演を重ねます。パウルは感情の嵐となって接近するが、リリーはキスをしてもそれは友情としてのものだと割り切り、好きな男性がいることを打ち明けます。

パウルは愛を勝ち得るために、リリーを魂を鷲掴みにするような求愛をし、それが叶うのです。穏やかでピースフルなパウル・クレーの作品ばかりを見ていると勘違いされる人もいるかもしれませんが、パウルは性格・気質的にはまったく”草食系”ではありません。愛を込めて情熱的に行動することは、自分の”天分”だとも言っているくらいです。それは若い頃のパウルの顔つき、目力をみれば一目瞭然明らかなことです。

 


さて、リリーの父は衛生参事(高級官僚の医師)で、妻を失ったのち娘リリーより僅かに年上の若い女性と再婚、娘の結婚相手も口をさしはさみました。父にとって相手はあまりにも想定外(規格外)の、定職のない、将来が何も約束されない芸術家志望の若者では、結婚を了承することなどもっての他でした。父は娘の結婚相手は医者か将校であるべきだと考えていたのです。しかもパウルはせっかく入学したミュンヘン美術専門学校(アカデミー)を、学ぶべき方向性を見出せなかったとして僅か半年で辞めてしまっています(実家の学資援助が底をついたといわれています。パウルはこの時いったんベルンに戻っている)。


2人は出会った1年半後に婚約の約束をかわしますが、それを知ったリリーの父は娘と縁切り(廃嫡)<します。最も2人がすぐに結婚しなかったのは、リリーからパウルに対しある提案がなされたからでした。それは結婚はパウルが仕事でも人間的にも成長できてからのこととし、その期間を8年としたのです(自身もその間にピアニストとして成長したいと伝えた)。


父への反抗心から安定の保証もない美術家志望のパウルと一緒になったリリーでしたが、立派な職の身分(医師か将校)の男性に好意を寄せていた時期がありました。しかしリリーは、パウルから流れ出てくる「異常な力」を逞(たくま)しく思い、信じていたので、パウルとの婚約は堅持されたのです。

 

PAUL KLEE

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そしてこの「異常な力」は、母イーダも同じ様に感じ取っていたからこそ、父の反対を押してパウルを信じて絵の道に向わせたとおもわれます。さらにいえばその「異常な力」は、母方の家系に伏流していたものなのかもしれません。それが祖母から「絵」を媒体にして伝わった。左利きだったパウルを直そうとした時、祖母は感情のおもむくまま使いやすい手で描いた方がいいとして、つっぱねています。

 

21歳の時、半年に渡るイタリア「遍歴時代」


入学した美術学校で割り当てられたのは、2年前にミュンヘンで分離派運動を興した美術学校に着任したばかりのフランツ・フォン・シュトゥックのクラスでした。神秘的で象徴派画家のシュトゥックは、ルネッサンスの芸術家たちのように多様な側面をもち、版画家であり彫刻家であり建築家でもありました。

講義には美術史や解剖学もありました。同じクラスで学んでいた生徒のなかに、ロシア出身のワッシリー・カンディンスキーがいて、後に強い関係で結ばれるようになります。シュトックはパウルにリュマン教授のもとで彫刻家としての修業をはじめてはどうかとか(実現されなかった)、別の教授のもとで版画の技法を学ぶようにと薦めています(イタリア遍歴旅行から帰り、成功した最初の作品の一つは、エッチングでなされた「樹のなかの処女」だった)。

 

21歳の年(1901年)、パウルは学生仲間で彫刻家のヘルマン・ヘラーと連れ立って、ゲーテデューラーのようにイタリア旅行に出掛けています。パウルの「遍歴時代」でした。ミラノからジェノバ(ここでパウルは生まれて初めて海を見る体験をしている)、リボルノ、ピサ、ローマ、ナポリフィレンツェへと巡ります(半年に及ぶ)。

ナポリでは初めて水族館を訪れ海の生物の奇怪な姿形に、またナポリの海岸にすっかり魅了されています。そしてボッティチェリラファエロダ・ヴィンチの聖ヒエロニムスにシスティナ礼拝堂のミケランジェロ、ペルジーノ、ヴァティカン美術館の彫刻群、初期キリスト教美術、ポンペイの絵画、各地のルネッサンス建築とゴシック建築バロック建築には感性が合わなかった)の謙虚な弟子と化し、またドニゼッティプッチーニ、マスカーニ、ワーグナーのオペラ公演、さらにはイタリア式の話し方や振る舞いを観察しています。

 

「多くの事柄が私の内部の奥深くで変わっていく」とパウルが語るように、成長しつづけていたパウルの「心の樹」が、様々な刺激と感応、影響を受けて、一挙に激しくふるえ、”流動”し変容し、伸長しはじめたのです。

・参照書籍:『パウル・クレー』フェリックス・クレー著 矢内原伊作・土肥美夫訳 みすず書房 1978刊/『新版・クレーの日記』W.ケルステン編 みすず書房 2009年刊/『クレーの食卓』林綾野、信藤信、編・著 日本パウル・クレー協会 講談社/『パウル・クレー』エンリック・ジャルディ著 美術出版社 1992年刊/『パウル・クレー:絵画のたくらみ』前田富士男、宮下誠ほか 新潮社 2007年刊