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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

竹久夢二(1):「夢二ワールド」の根源になった生まれ故郷

「夢二ワールド」の根源になった郷土。3歳の頃から馬の「絵」を描きだす。大好きだった6歳年上の姉。「写生」に革新をもたらした担任の先生


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はじめに:

夢二の”樹根”が生み出した発想力

多くの書籍の装幀や挿絵にもなった哀愁をたたえ、「大正浪漫」を代表する絵となる「夢二式美人画」のみならず、詩や小説、随筆に歌謡、童話も創作した竹久夢二。そして図案家としての夢二の発想力は、黎明期だった「グラフィック・デザイン」の世界を独自にひらいていきました。

日本画水墨画木版画、油彩画、ペン画などにわたる絵画から、広告宣伝物や日用雑貨にまで広がった夢二の世界は、中央画壇からそっぽを向かれた夢二が、新しい応用美術としての「デザイン」に取り組んだ賜物でもありましたが、そうした創作の源流には、夢二の幼少期の体験や記憶、童心に描いた「絵」だけでなく、童話や短歌、小唄も幼い頃から創っていたのです。
まさに夢二の”樹根”にあったものが、「夢二式美人画」に引きずられるようにあらわれでたものだったのです。

 

夢二の”樹根”には何があったのか。なぜ夢二は、抒情溢れる「夢二式美人」とも呼ばれる美人画を数多く描くようになったのか、一緒にみてみましょう。


「夢二ワールド」の根源になった生まれ故郷

 

竹久夢二(本名:竹久茂次郎 たけひさ もじろう)は、明治17年1884年〜1934年)9月16日、岡山県邑久(おく)郡邑久町本庄村に生まれています。現在、邑久町は、2004年に、夢二の愛した牛窓港がある牛窓(うしまど)町と、長船町と合併し、瀬戸内市となっています。

 


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瀬戸内市はその名称のごとく、瀬戸内海に面した風光明媚な地域で、とくに島々が点在する牛窓の海岸は、「日本のエーゲ海」と称されています(実際、日本のオリーブ生産地として香川県の小豆島とともに名前が知られている)。

 

日本のエーゲ海」の光輝く光景は、写真家・緑川洋一の写真集『瀬戸内海』などで、1960年代からその美しさが広く知られるようになりました。「色彩と光の魔術師」とも呼ばれた写真家・緑川洋一もまた、夢二と同じく邑久町に生まれています(緑川洋一は、植田正治秋山庄太郎らとともに写真家集団「銀龍社」を結成)。

 

邑久町の中でも緑川洋一が生まれた虫明という地区は、瀬戸内の海に面していましたが、夢二が生まれた本庄は、龍王山などを越えた裏側の山麓に広がっていました。夢二の生家・竹久家からは、吉井川一帯に広がる邑久の街並と千町平野を一望でき、瀬戸内海に負けず劣らない美しい夕陽を見ることができました。

 

最も「日本のエーゲ海」と呼ばれる遥か以前から、牛窓港は、『牛窓の瀬戸の図』として北斎によって描かれた景勝地で、さらに古くは「牛窓の浪の潮騒島響み、寄せてし君に逢はずかもあらむ」と万葉の歌にも詠われていました。

 


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この牛窓の港から北西部に広がる千町平野へ向う街道の途中、数キロ先に竹久家はありました(ちなみに後に夢二が日本橋に開いた趣味の店の名は「港屋」だった)。その街道は、老樹の根の如く、日本三大奇祭りの一つ「裸祭り」が催される西大寺へとまた通じ、あちこちに水郷すらも発達し、田舟で西大寺へ移動することもできたといいます。

 

また街道や牛窓港からは様々な流行りものや風俗が流れ込み、街道筋にある宿場は宴遊で賑わい、村芝居も盛んだったようです。『竹久夢二』(青江舜二郎著 中公文庫 昭和60年刊)によれば、竹久家は村の顔役として「地芸」と呼ばれた村芝居のパトロンになっていて、近隣の村々へ「地芸」をもってまわる勧進元であったといいます。


そのため竹久家には、村芝居のためのいろんな衣装からお面、鬘(かつら)が保管されていて、竹久家を舞台にして、芸人たちがお面を被って浄瑠璃に合わせ「面芸」を振る舞っていたといいます。
ために夢二は、浄瑠璃の文句をよく覚えていたようです(幼い頃から枕元で「阿波鳴門」を聞かされ育ったという)。「地芸」「面芸」のみならず、村芝居での越後獅子や稚児行列、西国三十三カ所巡りのお遍路さんの世界とも幼少期から接っしていました。

竹久夢二(2)へ続く:


参考書籍:『竹久夢二』(青江舜二郎著 中公文庫 昭和60年刊)/『竹久夢二正伝』岡崎まこと著 求龍堂 昭和59年刊)/『夢二郷土美術館所蔵 竹久夢二ー名品百選』(夢二郷土美術館 平成12年刊)