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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ジャック・ケルアック(1):ケルアック家の「ファミリー・サガ(家族の物語)」

若い頃、父から聞かされたケルアック家の「ファミリー・サガ(家族の物語)」。印刷会社を経営していた父は、かつて地元のフランス語新聞社でライター兼活字打ちとして働いていた。


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フレンチ・カナディアンとして幼い頃から親しんだフランス語でインタビューを受けているケルアック

 

はじめに:

若い頃、父から聞かされたケルアック家の「ファミリー・サガ(家族の物語)」


2007年、「ヒッピーの聖典』と化した自伝的小説『オン・ザ・ロード(路上にて)』が、当初英語ではなくケベック・フレンチ語で書きはじめられていたことが発見されました。

ジャック・ケルアックは、日本語ウィキペディアでは米国人、英語版ウィキペディアではカナディアン・アメリカン(カナダ系アメリカ人)ですが、ケルアック一家や故郷のマサチューセッツ州ローウェルの町ではフレンチ・カナディアン(フランス系カナダ人)と意識していたことを考え合わせると、再び『オン・ザ・ロード』や「ジャック・ケルアック」への興味がつのってきます。


ジャック・ケルアックが生み出した数多くの小説の多くは、若い頃に父から聞かされたケルアック家の「ファミリー・サガ(家族の物語)」への強烈な”反応”から産み落とされたものだったともいわれています。『孤独な旅人(Lonesome Traveler)』で描いたのは、自身のルーツがケルト語を話すフランス・ブルターニュ地方の出身だったケルアック家の放浪譚でした。

 

 

またジャズ、旅、ドラッグ、カトリックスピリチュアリティ、ブディズム(仏教)など、内面世界へののめりは、ケルアックの場合つねに移動をともない、それが初期には『On the Road』となり<(26歳の時に書きはじめている)、「カウンターカルチャー」の源流の一つとなり、社会の枠を越え、移動し、熱く共振する「ビート・ジェネレーション」ケルアックが生み出した言葉)世代を魁けていったのでした。

 

カウンターカルチャー」の源流を生み出すことになったジャック・ケルアックは、どんな人物だったのでしょうか。生まれ故郷ローウェルで英語も教えられないまま育てられ、早逝した兄と比べ、まったく目立たなかった一人の少年が、どのように「数百万語の男」と呼ばれるまでになったのでしょう。

 

フレンチ・カナディアンのコミュニティで、母の愛情たっぷりに育てられた少年が、どんな経緯から長期に渡る放浪的な「旅」に誘われるようになったのでしょうか。

ウィリアム・バロウズアレン・ギンズバーグ、ニール・キャサディらとの出会いと交流が、ジャック・ケルアックをさらに刺激してゆき、また逆に彼等を刺激してゆきます。

 


そしてアメリカン・フットボールの一流プレイヤーになれると推薦を受けコロンビア大学に入学したジャック・ケルアック。第二次大戦中、商船に乗り込み、8日だけ海軍に入隊し、精神に異常があるとして除隊命令されたジャック・ケルアックもまた存在します。


故郷ローウェルの町は、つねにケルアックの拠り所であり、”根っ子”であり続けました。いったいジャック・ケルアックの作品と魂の<根底>には何があったのでしょう。では一緒に、『On the Road』の先にある、ジャック・ケルアックの「マインド・ツリー(心の樹)」へ向ってみましょう。

 

ケルアックは一族から「祖先」の話や「家系」のことをよく聞かされていた


ジャック・ケルアック(Jack  Kerouac : 本名:Jean Louis  Kerouac )は、1922年3月12日(〜1969年)に、米国北東部のマサチューセッツ州ミドルセックス郡ローウェルで生まれました。ローウェルは、ボストンから内陸へ北西約45キロ(車で約1時間)に位置する、メリマック河畔にひろがったマサチューセッツ州5番目に大きな町です(人口約10万人)。

 


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1820年代より南部で生産された大量の綿が運び込まれる繊維工業のセンターとなったため、フランス系カナダ人、アイルランド人、ギリシャ人、ポーランド人、ポルトガル人ら、多くの移民や出稼ぎ労働者が流れ込んで形成された町です。


繊維工場で働く独身の女性はミル・ガール(Mill Girl:女工)として知られ、町の名前もアメリカの繊維産業に革命を起こしたことで知られるフランシス・ローウェルからとられ、彼は女性をはじめて工場で働かせたパイオニアでした(ニューイングランド地方の農場出身の15歳〜35歳までの女性だった。男性よりも低賃金だったが宿泊施設、教育面など厚く待遇しローウェル・システムとして知られる)。


ローウェルの町からメリマック川に沿ってわずか10キロ程行くと、ニューハンプシャー州ですが、ローウェルがあるマサチューセッツ州を含め米国北東部の6州は、ピリグリムファーザース(イギリス国教会から分離を求める清教徒分離派グループ)が入植した土地でもあり、米国で”白人にとって”最も歴史に満ちたエリアです。

 

そしてこの”歴史の森、川、そして道”につながる場所に生まれたことは、少年ケルアックの将来への道(on the Road)に扉を開けたのです。その扉の最初のひと押しをしたのは、ケルアックの両親と叔父さんたち、叔母さんで、彼等は少年ケルアックに「祖先」の話や「家系」のことを話して聞かせたのでした。

そのなかには先祖の一人が北極近辺まで行ってサバイブしたというような「噂話」も混じっていましたが、多分に「伝説」も含まれ、少年ケルアックの「空想」を逞(たくま)しくしていったようです。


イロコイ族などインディアンの血が入っている話をよく両親や親族から伝えられていた


少年ケルアックが、父から何度となく聞かされた祖先の話は次のようでした。最初に米国にやって来た祖先は、a Breton baron from Cornwell named "Louis Alexandre Lebris de Kerouac"、つまりルイ・アレクサンダー・ルブリ・ド・ケルアックは、イギリス南西部のコーンウォールケルト系の言語コーンウォール語を語る独自の文化がある地域、Land's Endーランズエンド岬ー「地の果て」の象徴とも言われる場所として知られる)から、フランスのブルターニュ地方に向った貴族だと。

 

ゆえに自分たちはニューイングランドの支配者アングロ・サクソンではなく、ケルトの血脈につながっているんだと。晩年の40歳頃(ケルアックは47歳で亡くなっている)</span>にも、ケルアック一族は、『トリスタンとイゾルデ』(シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の源流)といったケルトの説話があるアイルランドにまで遡ることができると信じ、父と同様「 Kerouac」の語源をあれこれ探求していました。

 

その後、ケルアックはフランスに行き、その先祖(a Breton baron from Cornwell )を調査しています。その結果、父から聞かされていた人物は貴族などではなく、植民地時代の商人(Maurice-Louis-Alexandre Le Brice De Kerouack)だったことを突き止めています。

ケルアック家に伝わる先祖の話によれば、ルイ・アレクサンダー・ルブリ・ド・ケルアックは、1750年に大西洋を渡り新大陸に入植し、イギリスの入植者と闘争を繰り広げながら、カナダの東部ケベック州の the Rivire du Loup に土地を与えられ、その子孫は北米インディアンのモホーク(Mohawk)族とコグナウォガ(Caughnawaga)族の血の入った女性を娶(めと)り、ポテト農場を営みだしています。またイロコイ族がケルアック家の「ファミリー・ツリー」に存在したことも告げていました。


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先祖は大西洋を渡ってきた辺境の人物だったこと、ケルアック家にそして自分の遺伝子にインディアンの血が流れていることは少年ケルアックの「マインド・ツリー(心の樹)」に深く刻みこまれるのです。そうした認識はケルアックのアイデンティティをゆさぶり、つねに大きな影響を与えていったようです。20歳の時に書きあげた最初の長編小説『The Sea is my Brother(海は我が兄弟)』にもそれは木霊(こだま)しています。

また、アイデンティティのゆらぎからもまれたスピリットは、ローウェルのコミュニティにも近代国家の体制の枠には収まりきらない、”コスミック・ビート”を放ちはじめることになるのです。

 

ジャック・ケルアック(2)に続く:


・参考書籍『Jack Kerouac a Biography』by Tom Clark,Marlowe & Company New York 1984/ 『Jack Kerouac a Biography』by Michael J. Dittman Greenwood Press 2004 / 『ケルアック』イヴ・ビュアン著 ガリマール新評伝シリーズ 2010 祥伝社