伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ジャック・ケルアック(3):自らつくった「新聞」を発行

小学校時代についた渾名は「メモリーベイブ(記憶の天才)」。11歳「日記」を書きだし、自らつくった「新聞」を発行。15歳、父の印刷所が破産。作家への夢、諦める。アメフトに熱中

 

ジャック・ケルアック(2)からの続き:

小学校時代についた渾名は、「メモリーベイブ(記憶の天才)」

6歳の時、ジャックは、教会付属の聖ルイと聖ヨセフ校というキリスト教系の小学校に通っています。教会付属の両小学校ではバイリンガル教育が行われていました。午前中は英語で主要科目が講義され、午後はフランス語でフランスの文化と歴史が教えられていたのです(ジャックは『聖書』もフランス語で初めて読んでいる)。

ジャックは家庭で話されるフランス語に愛着を感じすぎていて、英語で話すときは言葉が完全に分からないこともあり言葉少なになったといいます。聡明だったにも拘らず早逝し、なかば神格化されていた兄ジェラールと比べれば、ジャックは目立たぬ存在だったといいます。しかしじょじょにジャックは、皆の注目を集めはじめはじめるのです。

ついた渾名(あだな)は、「メモリーベイブ」つまり、「記憶の天才」でした。ジャックは、見聞きした言葉や出来事を誰しもが驚くほどに記憶することができたのです。家族やいつも一緒にいる友人たちは早くから気づいていたといいます。

 

ジャックは、幼少期からひとりで空想にふけることがよくありました。その空想のなかでスポーツの新しいルールをつくったり、一人で大リーグの試合を戦ったり、さまざまな物語をつくっていたといいます。

またインクの匂いのする父の仕事場に行っては、印刷用のキーボードで遊んだりしていました。後の「打鍵の達人」とも「数百万語の男」とも呼ばれることになるケラワックは、この頃のキーボード遊びの早業からきているようです(手書きの原稿やメモをタイプするときに、思考と連動した驚くべきスピードで文字を打つことができた)。


書いたショート・ストーリーを女性の図書館司書に読んでもらった


公立中学のバートレットスクールに入学する11、12歳頃には、友達と同様にコミック少年になっていました。皆で挿絵入り週刊誌の発売日の木曜を心待ちにしていたといいます。少年ケラワックは、掲載コミックの「ザ・シャドウ」(TV化、ラジオ・ドラマ化、映画化された最大級のパルプ・マガジン・ヒーロー)や「グリーン・ホーネット」(武道のマスターでアジア人助手カトーとともに悪と闘う)、「幽霊探偵」の大ファンでした。

 

「シャドウ」の主人公ラモント・クランストンに夢中で、黒いマントをはおり裏通りでショウドウごっこをして遊んでいたようです(その光景はローウェルを舞台にし、幼少期を描いた自伝的小説『ドクター・サックス』に描かれた)。

その一方で、「シャドウ」の作者、ウォルター・ギブソンが毎週30万語執筆することを知って、そのスピードと生産力に刺激を受け、コミックを基に時自分なりの「物語」を書きはじめていました。それを父の印刷工場に持ち込んで、リノタイプ印刷しています。

 

バートレットスクールに入学した年の秋(ケルアックは3月生まれなのでその時点では12歳になっていた)、少年ケルアックは図書館司書ミス・マンスフィールドと知り合い、文学にさらに触れ、幾つか書いていたショート・ストーリーを学校の外でミス・マンスフィールドに渡して読んでもらうようになります(後にジャック・ケルアックのトレードマークにもなるノートブックに走り書きしたものだったようです)。

 

 

その一編が、「Jack Kerouac explores the Merrimack」と題された短篇でした。 「ジャック・ケルアックが、メリマック地方を探検する」というものだったのです(『孤独な旅人』にある著者の序文には、初めて小説を書いたのは11歳の時とある。同じくマサチュセッツ州生まれのデビッド・ソローが1849年に自費出版した処女作の題名は、『コンコード川とメリマック川の一週間』だった)。

「メリマック地方」は、ローウェルの北方、メリマック川の上流にある町ナシュアもおそらく含まれたはずです。前述したようにナシュアはジャックの祖父の大工ジャン・バティスト・ケルアックが辿りついた土地であり(自らの腕で家を建てている)、母ガブリエルも育った場でもあったのです。ほとんど最初に書いた短篇にして、父のように「自己」にスポットライトをあて、自分が「探検、体験したこと」を書いていたのです。しかも<ケルアック家の源流>を探索するかのような「ロンサム・トラベラー(孤独な旅人)」となって。

 


11歳、「日記」を書きだし、自らつくった「新聞」を発行


この年(11歳の時)、コミック少年だったケルアックは、「日記」を書きはじめています。さらに自分で考案した競馬とフットボールの試合についての記事を自ら書き(ケルアックは以前から空想のなかでスポーツの新しいルールをつくって、ひとり物語っていた)、それを自らつくった「新聞」に載せて「発行」したのです。

「メモリーベイブ」と渾名されていた少年ケルアックの「マインド・ツリー(心の樹)」が、一気に樹勢を高めたのが、公立中学にちょうど入学した年からだったといえるでしょう。


少年ケルアックの短篇を読んだ図書館司書ミス・マンスフィールドは、ものを書く才能があるわねと、ケルアックを激励し勇気づけています。英語が依然負い目だった少年ケルアックは、生来の内気さもあり、クラスでは周りと距離ができるほど静かな少年だったようです。友達も少なく、お高くとまっている優等生として周りからみられていたようです。

そんな控え目な少年の裡に、担任女性教師ミセス・ディネーンもまた、物書きとしての天分に気づき励ましています(宿題の提出物が中学生レベルをはるかに超えていた)。この頃から、少年ケルアックにとって週一回、図書館から本を借りるのが「行事」のようになっていました。


しかしケルアックは授業をさぼることに抵抗感はなく、自室や友達の部屋でラジオ放送局920クラブを聴きまくっています。流れてきたのは、トミー・ドーシー楽団、フランク・シナトラがメインボーカルをとっていたグレン・ミラーのビッグバンド、バディー・リッチやジーン・クルーパのジャズでした。

ケルアックの「リズム」への関心の嚆矢で、旅の友にいつもボンゴを持ち歩くようになったのもこの時の影響からでした。クラスでは小さくなっていましたが、外では頭角をあらわしだし小さなグループのリーダーになっていきます。

ジャック・ケルアック(4)へ続く: