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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

アーサー・C・クラーク(3):本屋でH.G.ウェルズの『宇宙戦争』を立ち読み

お小遣いで買えず、昼休みに本屋で1週間かけてH.G.ウェルズの『宇宙戦争』を立ち読み。オラフ・ステーブルドンの『最後の、そして最初の人間』に<宇宙観>をくつがえされる


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スリランカコロンボで暮らしていたアーサー・C・クラークのオフィス兼自宅の様子や、晩年までスキューバダイビングをしていたことなど、取材とアーサー・C・クラーク自身からのメッセージ

 

アーサー・C・クラーク(2)から:

グラマースクールの地下の溜まり場で見つけた『アスタウンディング』誌


アーサー・C・クラーク(2)から:

中等教育(中学校)は、家から8キロも離れた内陸に入りこんだ街トーントン(Taunton)にあるヒューイッシュ・グラマースクールに入学しています(クラーク少年は、19歳に公務員になるまで8年間ずっとこのグラマースクールに通っています)。

このスクールには広い地下室があり上級生のための勉強部屋とされていましたが、またの名を”地下牢”とも呼ばれていたスペースでした。そこには上級生たちが持ち込んだいろんなものが散乱していました。

その中に、クラーク少年は自身の将来の軌道をさらに決定的にするものを偶然見つけたのです。それはある不思議な絵が描かれた雑誌でした。

 

その表紙にはあちこちに孔が穿(うが)たれた天体に向って空飛ぶ潜水艦のようなものが突き進んでいる絵が描かれ、「Brigands of the Moon 月面の盗賊  ー陰謀と冒険の血沸き肉踊る惑星間小説」(作者:レイ・カミングス;27歳から5年間トーマス・エジソンの個人秘書となり、後にSFパルプ小説の生みの親の一人に。日本には同タイトルで1931年に翻訳)と印刷されていたのです。

描かれた天体がクラーク少年が大好きだった「月」だったことも重なり、クラーク少年は、とびきりの「センス・オブ・ワンダー」を覚え、くらくらしたといいます。


その雑誌は、キリー家で目にした『アメージング・ストーリーズ』誌ではなく同じくアメリカで出版されていた『アスタウンディング』誌(1930年3月号)でした。クラーク少年は持ち主がいないことをしると家に持ち帰り隅から隅まで読んだのです。その頃、嫌気がさしていた幾何学や代数、ラテン語の勉強をほっぽりだして『アスタウンディング』誌のバックナンバーを集めはじめました。

 

ウールワース・ストアで1冊たった3ペンスで売っていることを知り、しこたま「パルプ雑誌」を手に入れることがきました。当時「パルプ雑誌」は貨物船のバラスト(重量のバランスを取るために積め込む重し)として用いられていたので、米国帰りの貨物船から大量に放出されていたのです。

クラーク少年はコレクションの索引もつくり、数年の間に『アメージング・ストーリーズ』誌や『ワンダー』誌の蒐集もかなりのものになっていきました。


その間に、クラーク少年はイギリスの少年雑誌も目を通しはじめています。『ボーイズ・オウン・ペーパー』『メカーノ・マガジン』『マグネット』誌でした。アメリカの「パルプ雑誌」からの転載記事や作品もあったので、クラーク少年にとっては要注意だったのです。

 


お小遣いで買えず、昼休みに本屋で1週間かけてH.G.ウェルズの『宇宙戦争』を立ち読み


グラマースクール時代には、「パルプ雑誌」だけでなく単行の小説も数多く読んでいますが、小説といわれるもののほとんどは「SF」ものでした。学校の昼食時、素早く昼食をすませ必ず向う場所はW.H.スミス書店のトーントン店でした。「立ち読み」に行ったのです。

 

そこでH.G.ウェルズの『宇宙戦争』に出会っています。本の値段は数シリング。けれどもわずかなお小遣いでは手がでません。クラーク少年は、日参し1週間程で『宇宙戦争』を読破します。その日読んだ最後の頁の隅を店主に見つからないようにこっそり折り、翌日またそこから読みだすのです。

そうやって何冊ものペーパーベックのSF本を読破していったといいます。テレビ時代の到来はまだ先で、書店の店主ものんびりしたものだったといいます。


H.G.ウェルズを”発見”したのとほぼ同じ頃、ジュール・ヴェルヌを”発見”しています。後になんとかして手に入れた『月世界旅行』と『海底2万里』は、クラーク少年のお気に入りになりしました(『地底旅行』は晩年までずっと手放さず持っていました)。


オラフ・ステーブルドンの『最後の、そして最初の人間』に<宇宙観>をくつがえされる
ハードカバー本に関しては、トーントンにある町の公共図書館にあることがわかってからというもの手当たり次第に借りまくっています。

最低でも1日に1冊は借りていたといいます。学校帰りに図書館に寄って幾らか読んで、8キロもある家まで自転車で帰り、夜には家の仕事を手伝い、それからの寝るまでの時間を読書にあてていました。


その頃読んだものの中では、ライダー・ハガードの『世界が震えたとき When the World Shocked』とコナン・ドイルの『失われた世界』がクラーク少年にとって最高傑作でした。

そしてクラーク少年の「想像力」に最高レベルの衝撃を与えたのは、オラフ・ステーブルドンの『最後の、そして最初の人間 The Last and First Man』(1930年)だったといいます。

 

クラークはこの本が出版された直後に、住んでいた町の図書館(マインヘッド公共図書館)の棚で見つけたのでしたが、人生の晩年になってもその時の情景をしっかり思い出すことができるといいます。『最後の、そして最初の人間』は、クラーク少年の<宇宙観>を根底から変えてしまったほどの影響力があり、後のクラークの作品の多くに影響を与えていったのです。ある意味、英国サマーセット州の地面に張っていた”根”が根こそぎ引っぱりだされ、宇宙空間に向けて上空に放たれたような感じだったにちがいありません。


14歳、父が亡くなる。母は農場の経営をしながら子供たちを懸命に育てた

 

 

14歳の時(1931年)、父が亡くなります。父からすれば、電気通信技師としての復員士官だった父にとって慣れない農作業から解放されたのでした。解放されないのは母で、4人の子供を抱え生活は厳しくなります。

クラーク少年にしてみれば、母が農場の経営だけでなく、乗馬のレッスンやケアンテリア犬の飼育、植物の有機的な栽培、さらには宿泊客を受け入れるなど、仕事を増やし忙しそうにしているようにみえたのですが、それも欠損続きの農場経営の埋め合わせをするためのものだったのでした。

クラークは大人になってから、父が亡くなってからというもの母はいつもお金に困っていたことを知ったのです。クラーク少年は家の事情はつゆ知らず、手製の望遠鏡でいつも「月」を見ていました。

 

故郷マインヘッドからは360度、素晴らしい円天の空が眺められ、クラーク少年の「心の樹」は、ジャックの豆の木のように大空に向かってするすると伸び上がっていくのでした。天体観測はクラーク少年の心の成長に欠かせないものとなっていました。

そして「月」や「宇宙」への関心が高まれば高まるほど、「パルプ雑誌」もうず高く積み上がっていくのでした。クラーク少年の「月」に関する知識は、故郷マインヘッドのことよりも詳しくなっていたのです。


17歳の時、できたばかりの「英国惑星間協会」に入会。先端の科学技術情報の重要性を知る


月や宇宙への関心は、なにもクラーク少年にだけ特有にあらわれたものではありませんでした。1930年代、英国中で若者や子供たちの眼が宇宙空間に注がれはじめていたのです。1933年、クラーク少年16歳の時、ロンドンで非営利団体の「英国惑星間協会 British Interplanetary Society(BIS)創立者P. E. Cleator」が発足しています。

 

 

英国惑星間協会は、月に向って人類を打ち上げる月ロケット構想を打ちだしていたためクラーク少年が黙って見過ごすことはありませんでした。クラーク少年は翌年、英国惑星間協会に入会、「月」と「宇宙」へ科学的側面からの関心を高めていきました。


英国惑星間協会は、英国の爆発物法によって禁止されている液体燃料を用いたロケットの発射テストではなく、個体燃料を用いた多段式ロケットで充分な速度を調達できること、月着陸船(Lunar Module)や重力のことなど突っ込んだ科学的議論を交わしていたのです。

クラーク少年は、入会した年から毎月発行される「月刊英国惑星間協会 Journal of the British Interplanetary Society」を購読紙し、宇宙科学(space science)や月ロケット実現に必要なテクロノジーの情報などを次々に吸収していきました。

クラークは、19歳でヒューイッシュ・グラマースクールを”無事”卒業すると、経済的事情などを考え、サマセット州教育委員会(Board of Education)の職に就きます。年金部門の監査役の仕事でした。クラーク少年は公務員になったのです。しかしその間にも、クラークは「月」や「宇宙」のことを片時も忘れたことはなく、先端の科学技術や宇宙テクノロジーなどに「月刊英国惑星間協会」などをとおして通じるようになっていったのです。