伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

チェ・ゲバラ(1):ゲバラ家の本当の姿

ゲバラ家の本当の姿


チェ・ゲバラ」のイメージが徹底的に変わる


キューバ革命の立役者フィデルカストルの右腕として活躍しただけでなく、世界の「レヴォルーション」に欠かせないシンボルとなっているチェ・ゲバラ。数年前にもスティーブン・ソダバーグ監督が映画化し、ドキュメンタリーもの、書籍、ポスター、T-シャツ、バッジ、ウィキペディアゲバラなど、ゲバラのイメージはこのネット時代、いたるところ-ユビキュタスにあらわれます。

そしてあの独特の風貌のイメージが私たちの脳裏に残像として残ります。はて、ゲバラとは”誰”だったのか。写真集やT-シャツのアイコンと化してたゲバラらしき影を見れば見るほど、疑問は解消せずずっと残ります。若い頃は医師だった、となればきっと恵まれた家庭に育ったため、ブルジョアへの鬱憤から「革命」にのめりこんでいったのだろうか。そうした考えの中にはゲバラはいません。

 


では、友人とオートバイで南米を旅し、現地の状況を見聞するうちにマルクス主義に「共感」するようになり、ゲリラ戦に加わり次第に統率力を発揮するようになったというのはどうでしょう。大雑把な理解では近いでしょう。

しかし、中米・南米各地の腐敗した権力に対し決起した多くの若者の中で、なぜゲバラだけが、世界中の若者から「チェ・ゲバラ」と呼ばれ、「革命」を代表するヒーローのごとき存在になっていったのかは説明できません。


チェ・ゲバラ」を誕生させたもの。「自立心」や「克服力」、「探求心」「自由」「冒険心」、さらには「探求心」「希望」「共感力」「情報収集力」「分析力」なども大切な要素だったでしょう。

しかし、ゲバラを駆り立てたものを単純化、要素化してすますのは危険です。なぜならば絶え間のない「旅」の中での体験が複雑に織りなっているからで、たとえばクスコやマチュピチュ遺跡など考古学への関心は人一倍のものがありましたし、長く危険を伴う「旅」に出る前、途上であっても、ゲバラの「読書」は途切れることはありませんでした。

 

 

 

そして「チェ・ゲバラ」の核になっているもの、”根っ子”にあるものが、少年時代の「エルネスト・ゲバラ」にあったことを知ると、ゲバラにとっての絶えざる「旅」の意味や価値、「革命」戦士として生きることの意味が、<環>となって理解できるようになってきます。

今から一緒に、「エルネスト・ゲバラ」少年が、革命戦士「チェ・ゲバラ」に成り代わった<魂の旅>に出てみましょう!


米西海岸ゴールド・ラッシュに測量技師として乗り込んだ祖父。南米を南下、アルゼンチンへ


まずは「チェ・ゲバラ」の「マインド・ツリー(心の樹)」が生えている地層深くに光をあててみます。18世紀半ばのこと、父方のゲバラ家にヌエバエスパーニャ副王がいます。その副王の息子のホアキンは、米国のルイジアナの統治者から妻をさらったと記録に記されています。その子孫が19世紀半ばゴールドラッシュに湧くサンフランシスコに向かい(1848年にシエラネバダ山脈で金鉱脈が発見され大勢のインディアンが土地を奪われ虐殺されています)、その後、アメリカ大陸を南下しアルゼンチンにまで到達したといわれています。

 

 

このあたりはゲバラの伝記でも少し込み入ったところです。測量技師だった祖父がゴールドラッシュ時にサンフランシスコにいた記された伝記のとおりならば、アメリカ大陸を南下したのは祖父かとおもわれます。また父親の母方はリンチ家でアイルランド系の移民で、母親のデ・ラ・セルナ家にはファン・マルティン・デ・ラ・セルナという急進党青年同盟のリーダーを輩出している家系です。


ゲバラの父親の職業が、なぜ明確に記述されえないのか?


ゲバラの父(エルネスト・ゲバラ・リンチ)は、ゲバラの伝記本では建築技師や建設業者となっていますが、しばしば職業が明確に記述されていないこともあります。すでにこの辺りからかつて医師でブルジョアだったというゲバラのイメージがゆらぎ始めます。

実際のところ父はナショナル・カレッジの建築学科に入学し建築の勉強をしていましたが、途中、放校処分をくらいます。その理由がふつうには考えられないことで、後にアルゼンチンのみならず南米を代表する大作家になるホルヘ・ルイス・ボルヘスに授業中、勉強の邪魔ばかりしたことが原因だというのです。

 


とにかく建築学科の学生としてはあまりにも珍しいタイプで、組織や集団活動には不向きで一匹狼的な性格だったようです。そのため大人になってからも組織で仕事をすすめる建設の事業をうまくこなせなかったようです。

学校を中退した父は今でいうベンチャー起業家として仕事にありついていたようです。そして嘘か誠かその頃買った宝くじが大当たり。男たちの間でミューズ(美神)の誉れ高かったセリア・デ・ラ・セルナ(ゲバラの母になる女性)と付き合うようになり、コルドバで結婚します。


アルゼンチンで一番、イカしてた母!


スペイン系の母セリアは、情熱的な性格でした。セリアは当時の女性としては珍しく髪を短く切り、タバコを吸い、またブエノスアイレスの女性の中で、男性のように人前で足を組んでいた初めての女性だろうともいわれています。

父エルネストと出会った時はまだ未成年で、家出をしていて叔母の家に住んでいた頃でした。それでもセリアは若い頃は熱心なカトリック教徒だったようです(後に自由主義者に宗旨替え)。2人の生活感覚はボヘミアン的なものだったようです。子供たちに「冒険心」や「自由さ」を教えたのも彼らの生活感やスピリットからくるものだったようです。その上に、「文学」や読書がオーバーラップしていきました。

 

このあたりがゲバラの「マインド・ツリー(心の樹)」の”根っ子”の土壌ですが、何か予感はさせるものの、必然的で、決定的なものはなにもみあたりません。しかしアメリカ大陸を縦断してきた祖先の道行きは、後のゲバラの行動の裏に「隠された古い地図」のように潜在していたかもしれません。

チェ・ゲバラ(2)へ続く: